「詞」は歌われるための文学である。文字で読まれるのではなく耳で聴かれるための文学である。それが手渡される相手は、本の読者ではなく歌い手にとっての聴衆である。書く立場の者としてこのことを考えるとき、三つの重要なポイントが浮上する。第一はもちろん「作詞と作曲」、第二は「作品と歌手」最後に「歌手と聴衆」である。言い換えれば、生み出した詩の世界を音楽がどのように表現するか。出来上がった歌はだれによって歌唱されるのか。歌手はどのような場でどのような聴衆に対して歌うのか。
第一の「作詞と作曲」は<言葉と音楽>の問題で、前回および前々回の記事内容にも関連する。この「歌が作品化される過程」については後日取り上げることにして、まずは、第二および第三を先行させたい。歌の最終的な表現者は歌手であり、じっと見つめ耳を傾けるのは聴衆である。その“表現の場”をまずは目に浮かべながらペンを握るのが作詞家で、歌の誕生の出発点だからである。
そもそも「歌」とは人間にとって有史以来欠かせないもので、時代もジャンルも超えて存在し続けており、クラシックの声楽はその流れの一部分でしかない。現代ではジャズ・ロックなどポピュラー音楽の勢いには凄まじさを感じるほどだ。ライブの場合、「歌」以外の要素を無視できない。きらびやかな歌劇場の幕が上がれば豪勢な舞台装置が聴衆を物語の世界へ誘ってくれるし、大規模なイベント会場では多彩な照明効果やPA(拡声装置)が興奮と熱気を巻き起こしている。しかし、文明の進展に伴ってそれら「歌」以外の要素が「歌」そのもの、歌本来の表現力を削いでしまってはいないだろうか。
その昔、電子楽器はもちろんピアノもチェンバロさえも発明されていなかった時代は、笛と素朴な弦楽器と太鼓くらい。中世、町を巡った吟遊詩人はリュートを奏でながら自作の詩を詠っていたし、日本では琵琶法師が琵琶を弾きながら平家物語を吟じていたことだろう。そこには商業主義のつけ入るスキなど無かった。歌の世界に誘われ再び現実に戻った聴き手たちが、地面に置かれた帽子や床に置かれた小鉢の中に謝金を入れたに違いない。
では、現代はどうだろう。
声楽家がオペラの人物に扮し、またステージで歌曲を歌唱する。聴衆が客席でそれを味わう。そのアリアは主人公の内面を描き切っているか。その独唱は心を打つものか。詞を書く者として、これまでの体験から「歌を豊かなものとする条件」について述べてみたい。