不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

ヒトの危機②~緩んだ箍(たが)を締めるのではなく~

2015年04月21日 | 随想
 ヒトも他の動物と同様、社会を組んで生きている。独りでは生きていけない。高等な霊長類で、言葉を生み出し道具を持ち歴史を抱えている分、その社会も複雑である。人を束ねを成し民族を構成する際の要(かなめ)は、掟であったり宗教であったり伝統文化であったり法律であったりするのであろう。それらは、構成員同士をつなぎその社会を安定させるために不可欠なものだろうが、逆から見れば、帰属する個人を束縛するものでもある。
 全体主義=ファシズムのもととなったイタリア語fasci(複数形)・fascio(単数形)は「束」を意味する。詩人新川和江の「わたしを束ねないで」はあまりにも有名だが、私の心の奥にもいつも生きている詩の一篇である。その詩行は、『わたしを止めないで 標本箱の昆虫のように/わたしを名付けないで/わたしを区切らないで』と展開していく。
 幼少期から周囲と多少異なった「家」で育ったことも遠因であろうが、私は高校卒業期あたりから「用意されたレール」に乗ることに忌避感を覚えた。「ひとまとめに扱われること」を拒否した。当時の年功序列・終身雇用社会に背を向けて、臨時雇い暮らしを選び、自分なりの生き方を模索した。
 「社会」や「権力」は、その安定を図るために、構成員を支配しようとする。すなわち個人を束ねようとするのだ。また帰属する人々にとって、それが支配としてではなく、社会のルール・常識と捉えられれば、何の抵抗感もない。マジョリティの従順な一員として共有できる意識はむしろ心地よいものだ。世間体を気にし、そこからはみ出さないことだけに心を砕く。
 この社会と個人との関係は、「桶」や「樽」に譬(たと)えられることがある。本来は一枚一枚の板がバラバラにならないように締め付けているのが「たが」である。桶としての形が成り立ち、樽の胴としてまとまっているのは「たが」によるものである。
「たがが外れる」(実用日本語表現辞典)
外側から締め付けて形を維持しているものがなくなり、それまでの秩序が失われること。緊張を解いて羽目を外すこと。もともと「箍」は桶の枠組みを固定していた輪を指す語。
「箍が緩(ゆる)・む」(三省堂 大辞林)
緊張がゆるんだり,年をとったりして,気力・能力が鈍くなる。また,組織などの規律がゆるむ。
 しかし、近年、その「たが」が緩み始めている。「家」制度が崩れ、家族・社会・ライフサイクルが変容し、孤立と格差が生じ、これまで共有できた「常識・ルール」が力を失い、価値観が揺らぎ、生きる基軸が消えかけている。「たが」が外れバラバラになりかけているのだ。今までは世間体を重んじ、大勢に従っていればよかったし、長いものに巻かれていさえすれば、人並みの人生が送れた。しかし、これからは、いかに生きるかを自分自身の頭で考えなければならなくなった。これは難しい。
 そんな状況を目ざとく察して、権力はバラバラになりかけている民衆を新たな鋼の「たが」で締め付けようとする。混乱している個人個人に対して強権をもって束ねようとするのだ。お上意識の抜けない日本人は主権者としての行動をとれずに、言論の自由を封じられ、世界に誇れる非戦の憲法精神をも踏みにじられつつある状況に手も足も出せないでいる。
 「束」にされる歴史に終止符を打ち、人間としての自由と個人間のつながりをつかむ道はないのだろうか。お上という幻想から解放され、自立した主権者として新たな「常識」「ルール」をもとに連帯できないだろうか。それは桶や樽を締め付ける「たが」によってではない。外から束ねてもらうのではなく、われわれ一人一人が独自に存在しながらも支え合い補い合って人間社会を形成する道である。
 木材の一本一本が個性を生かしつつ組み合う「木組み」は<釘や金物などに頼らず、木自体に切り込みなどを施し、はめ合わせていくことで木と木をがっしり組み上げていく>し、美しくも斬新な「組子細工」は<釘を使わずに木と木を組み合わせて様々な模様を表現する>。私たちのあるべき社会の構築をこの日本古来の伝統技術に譬えたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする