劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

幸せのBASE「心技体」~体①

2023年09月04日 | 随想
 ヒトにとって幸福とは何だろう。幸福感を生み出す土台とは何か。その「幸せのBASE(土台・基礎・基地)」の構成要素は「心技体」に他ならない。人生を生きる上での精神・技能・身体、どれ一つ欠けても幸福感は湧いてこない…と書き始めた。
 最後に、その第三要素「体」について考えてみる。
 体調がよいと心まで軽くなる。一日のスタートが明るくなり、幸福感さえ湧いてくる。一方、体調を崩すと憂鬱になる、医者の世話になるような事態になれば、仕事にかかれず出費もかさむので、ダブルパンチだ。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺があるが、これとは逆の場合もある。
“不健全なる精神は健全なる肉体を蝕む”状態である。
 大きなショックを受けた時、胃が爛(ただ)れる。食欲がないから胃袋に何も入っていないのに、胃液が分泌されて自らの胃壁の一部を溶かすのだ。いわゆる胃潰瘍。痛みが消え胃壁が回復するには、服薬よりも時間の経過を待たねばならない。ストレスが遠のく必要がある。
 いじめを含め「負の空間」になっている学校には家の玄関を出ようとしても出られなくなってしまう児童がいる。行こうとはしているのだが体が本当に動かないのだ。
 このように「体」と「心」はつながっているので、心の健康とその安定が「ヒトの幸福」にとっていかに大切かがわかるだろう。
 文豪夏目漱石は、神経衰弱を抱え慢性の胃潰瘍を患い、伊豆修善寺温泉で大量の吐血をして生死をさまよった。日本が近代国家として歩む明治時代の重圧を背負いつつ生き抜こうとした秀才は「精神と肉体の葛藤」を、身をもって示したと言えよう。私たち一般人は、時代を背負っているわけでもなく文化的リーダーでもない。しかし、「心と体のつながり」は生きる上で重要であることに変わりはないし、世の中の風潮に流されると「ヒトの幸福」が手から零れ落ちることにもなる。明治初期文明開化の1870年代から150年、令和という時代にはその危うさが潜んでいる。
 機械文明の進展が行き過ぎて、コンピュータ社会に生きる現代人はネットワークに囲い込まれ、あふれる情報量に右往左往する環境下にある。明治期の庶民には考えも及ばないストレスを受けており、特に子どもたちはまともにその波をかぶっている。
 「体と心のつながり」の不健康な現象は、前述の「不登校」の問題ばかりではない。本来明るく伸びやかで自由な子どもたちの心を大人たちが流される情報に惑わされ縛り付けているのだ。将来の「勝ち組」「上層階級」へ組み入れるために、進学競争の渦中に追い立て、自由に遊ぶ余裕を与えようとしない。近視眼的に「今」の世間の動きを見るだけで、「これから」の社会の実態を掴もうとしない。子どもの成長過程にとって何が重要かについても考えが及ばない。
 大人にとって余暇や楽しみや遊びが生活に潤いを与えるが、子どもにとっては「遊び」はその成育過程において数倍重要である。「体と心のつながり」がデリケートで密接な状態にあるからである。
 「遊ぶ力は生きる力」(齋藤 孝/光文社)という論考がある。

 …子どもたちの「遊ぶ力」は、昔に比べると衰えているのではないか? 私にはそう思えます。
 ひとつにはカラダを使った遊びが減ったことが挙げられます。(中略)
 …もうひとつ、子どもたちの遊びが受動的になったということがあります。(中略)
 …自分で楽しみや喜びを見出す力が育ちにくい。(中略)おそらくこれから必要とされる学力というのは、「主体的な思考力」です。(以下、略)

 次回はこの章全体の最終回になる。上記の「略」の部分を埋めることから始め、「子どもの体と心」に現れている深刻な事態を直視することで現代という難しい時代を生きる大人たちの生き方を問い直すキッカケにしたいと考える。
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