劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

09演劇研究系列クラス1年生発表会

2009年02月28日 | 日本橋女学館高校
 2月21日(土)日本橋女学館高等学校・演劇研究系列クラス「一年次学年末授業発表会」が行なわれた。仮校舎4F会議室ホールが会場である。3時限目は、その準備に取り掛かる。折りたたみ長机やパイプ椅子を撤去し、簡素ではあるが、舞台を設置し、照明効果のために暗幕を張り、客席作りをする。学校職員・担当講師・生徒たちが協力して作業が進められる。
 昨年は、仮校舎体育館を会場に現2年生が元気いっぱいに演技をし、来月卒業する3年生の場合は、2年前旧校舎講堂で記念すべき「第1回・一年次学年末授業発表会」を披露した。来年からは、現在建設中の新校舎(地上8F地下1F)5F多目的ホールに発表会場が移ることだろう。
 さて、会場の準備が整うと、音楽が流れてリハーサルに入る。演技する顔は上気して、額にはうっすらと汗が滲んでくる。11:30「開場」。生徒たちは舞台の右左に設置された「幕」内へ姿を消し、ピーンと張りつめた緊張感が会場に漂う。保護者の方々、お客様、教職員の方々が次々に客席を埋めて下さる。三脚にビデオカメラを装着し撮影態勢に入っているのは、3年生だ。今年は、二人の先輩が後輩たちのために開場準備や映像記録に参加してくれている。
 4時限目のチャイムが鳴り、短い挨拶の後、すぐに開演となる。「ダンスと歌・朗読『ごんぎつね』・演技『魔女たち』・『森の妖精たち』・ダンス」という内容はほぼ3年間変わらないが、今回は、オーディション会場での劇中劇という趣向になった。生徒たちの要望を生かして全体の構成を立て、自らも「審査員」という役を演じ、その上、照明・音響を操作したのは、主担任の久保田先生である。私は授業で、朗読と演技の指導を担当したに過ぎない。
 発表は素晴らしかった。細かいミスや失敗もいくつかあったが、15・16歳のパワーと1年間真摯に学んだ成果があふれ出たステージだった。お招きした3人のお客様(楠原偕子先生=演劇研究系列クラス・トータルアドバイザー、安田比呂志先生=日本橋学館大学、井上優先生=明治大学)からも、「感動された」とのお言葉があり、演劇という芸術の本質・演劇を学び協働して作る意義を語ってくださった。校長先生からは、「演劇を、でなく、演劇で(学ぶ)」ことの大切さや、開講以来初めて3学年揃った演劇研究系列クラスの存在を広めていきたい、とのお話があった。微力ながら、私も授業内容の更なる充実に努めていこうと思う。

*写真左上・中、会場準備。左下、リハーサル。写真下、翌週の授業で「発表」の映像に見入る生徒たち。


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「世間の時間帯」から外れて

2009年02月13日 | 随想
 「世間の時間帯」というものがある。9時から5時までの勤務時間、月曜日から金曜日の勤務日、大型連休と年末年始の休業…。もちろんサービス業などはそれとはズレた時間帯で動いていて、彼ら勤め人たちのアフターファイヴや休日に合わせて立ち働いている。
 私はこうした「世間の時間帯」から外れた人生を送ってきたように思う。商業高校を卒業した同期生たちは銀行や保険会社や商事会社に就職し、今、定年を迎え年金生活に入っている。私は年功序列・終身雇用のレールに乗っかること、すなわち「就社」には馴染めなかった。そして、航空会社・貿易会社を渡り歩いていたある日のこと、「世間の時間帯」を踏み外す行動に出てしまったのである。
 …私は、20歳になっていた。東南アジアのバイヤーを相手に日本製の壁紙や換気扇や自動販売機の商売をしていたが、一生こういうサラリーマン生活を続けたくないと思い始めた。でも、どうしたらいのか分からない。そんなある日、毎日鎌倉から新橋まで横須賀線の満員電車で通勤していた私は、「上り」ではなくて、発作的にガラ空きの「下り」に乗ってしまった。終点の久里浜で降りたが、行くあてもないので、親友の河崎君の家に行った。朝の9時前である。当然、彼は職場へ出勤していて居なかった。お母さんが出てきて、『佐野君、どうしたの?会社、休んだんでしょ。』とキツイ視線で見据えられ、何も言えなかった。その日一日、どう過ごしたのか覚えていない。…(神奈川総合高校校内紙「スイミー」525号/2000.2.4.)
 同じ時間帯に多くの人間たちと満員電車に乗り合わせる、という心身ともに苦痛を強いられる「世間の時間帯」からドロップアウトしたのであった。その後、人並みの生活を得ようと定職に就いた時期もあるが、『このままでは固まった人生になる、芝居は作れない!』などと粋がって、「社会的常道」から結局外れてしまった。そのツケはてきめんに現れて、不安定な原稿収入・臨時雇い生活、そして老後の見通しは全くなし、という状況が今日まで続いている。
 しかし、「世間の時間帯」から外れたことで、ささやかな楽しみも与えられた。人が働いている時に、ガラガラに空いた列車に揺られて一人旅、閑散とした温泉町でくつろぐ。翌日、都会へ戻れば、明るいうちから明治45年創業の老舗でデンキブランを一杯やるゼイタクが許されているのだ。1年のうち、ほんの数回であるが、至福のひと時である。
 
 一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなる
 となりの男になにを思ふらん 
 
  (神谷バァにて)
  萩原朔太郎

 *写真左は、川治温泉。写真右は、都営地下鉄浅草駅構内。


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第一期東京ドラマポケット納会

2009年02月07日 | 創作活動
 2006年の秋に誕生した「演劇ユニット 東京ドラマポケット(=TDP)」は、2009年2月1日の納会(写真左)をもって第一期の活動を終了した。
 アトリエ公演『オフィーリアのかけら~予告篇~』(2007年8月横浜/創造界隈ZAIM別館ホール)、本公演『音楽演劇 オフィーリアのかけら』(2008年8月新宿/シアター・サンモール)の2公演計8ステージと、上演記念誌「BOOKLET vol.1『音楽演劇 オフィーリアのかけら』」(A4フルカラー20ページ)の発刊がその活動内容である。
 ユニットに参加したメンバーの総数は俳優・演奏家・スタッフ計60余名になる。0からスタートした企画が具現化していく中で、参加者一人ひとりの誠実さと情熱と行動力が活動を推進し盛りたて、ついに当初の目的を達成するに至った。代表者として有り難い思いでいっぱいである。また、劇場へお運びいただいた観客の皆様、協力・応援してくださった方々には、感謝の一言に尽きる。
 東京ドラマポケットは、第二期活動として2010年東京公演を予定しており、その具体化に向けての一歩はすでに踏み出されている。作品内容については、第一期の「オフィーリアのかけら」とは対照的なものになるだろう。静的な劇世界から動的な劇世界へ、悲劇的な展開から喜劇的な展開へとガラリと様変わりし、演出面では、演技・美術・音楽などの要素も同様にダイナミックな表現になるはずだ。 もちろん、以下の東京ドラマポケット「創造の基本理念」は変わらない。
 「総合芸術としての演劇を制作する。戯曲の舞台化や新解釈による演出ではなく、俳優の演技を中心とした美術・音楽などの表現要素が重層的に融合する世界を創造する。同一の舞台空間に俳優と観客とが存在できるようにするため、プロセニアムで区切られた中・大劇場は使用せずに、客席設定が可変的な小劇場にて上演活動を行う。」
 前述のように、東京ドラマポケットは公演と合わせて上演記念誌発刊を活動の一環にしているが、作品内容の実験性や上演意図、および観客の批評を紙媒体に定着しておきたいという考えからであり、今回の「BOOKLET vol.1『音楽演劇 オフィーリアのかけら』」(写真右下)には、音楽・美術・衣装の創造プロセスや演技・演奏にあたっての俳優や演奏家たちの感想、アトリエ・本公演ともに観た観客たちの寄稿文が掲載されている点で、一般の公演パンフレットとは一線を画するものと自負している。この小冊子は、慶應義塾大学文学部「映画演劇論」の授業で副教材として使用し、また、希望される方々にもお分けしているが、各方面から好評で努力が報われた思いをしている。


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