劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒅

2022年08月26日 | オペラ
 大衆音楽。
 フランスでもっとも愛された歌手エディット・ピアフは、自らの生涯を痛切なバラードで歌い上げ、聴く者は胸を打たれた。今もなお「シャンソンの女王」として記憶されている。一方日本の「歌謡界の女王」美空ひばりは、少女期から一家を支えつつ女性としての幸福が手からこぼれようとも歌うことをやめなかった。死期が迫ってもレコーディングに臨みファンの要望に応えて満員のステージに立った。二人の女王のレコード・CDはロングセラーであり、“カヴァー”する歌手は後を絶たないが、やはり本物を観たいファンはYouTubeやTVの特集番組でその姿に触れることになる。
 二人には共通点がある。激しく生きた人生と早すぎる死(ピアフ47歳没・ひばり52歳没)。そして、「名もない人々に向かって語り掛け歌う」大衆音楽というジャンル。しかし、その「歌唱のあり方・表現方法」は全く異なる。
 ピアフは、自身が作詞家でもある。『愛の讃歌』『バラ色の人生』は彼女の心からほとばしり出た言葉に曲が付けられて生まれた作品である。したがって本質的にはシンガーソングライターに近いと言えるだろう。日本でもフォークソング・ニューミュージック・ロックのブームを巻き起こした歌手たちは自分自身の内面を自分の言葉で歌った。演じるのではない。いわば、マイクに向かって己をさらけ出したのである。
 他方、ひばりは、自身が女優でもあった。作詞家・作曲家の手による作品を演じる。己を消し主人公の女になりきって歌い、エンディングになると「美空ひばり」に戻る。「加藤和枝」本人をさらけ出すことはしない。だが、詞に描かれている女を歌う時、ひばり本人の内面と無関係ということではない。『悲しい酒』の涙について、『…あの時はね、小さいころのつらかった出来事を思い出しているのよ。』と語っている。それを「女の涙」に見せるところがプロなのである。俳優が毎回の舞台において「涙」を自在にコントロールしているのと同様である。
 美空ひばりは、「三分間のドラマ」を主人公に変身して歌える稀有な才能の持ち主であった。劇中の人物が自分の思いを歌う―それは演劇と音楽の融合である。「ひばりはオペラに関心があった」という逸話は自然な成行きと言える。もちろん、大衆音楽とクラシック音楽は異質である。成り立ちが宮廷音楽であり、歌劇の歴史も王侯貴族と切り離せない。場末の酒場の片隅と歌劇場ではその歌唱法も全く違う。大舞台から三階の桟敷席まで声を響かせるベルカント唱法など、声楽は歌手の身体を楽器として扱う。大衆音楽の歌手に「オペラ」は無理である。しかし、そのことと「歌」による感動とは分けて考えなければならない。
 ともするとオペラや歌曲の評価がその音楽表現に傾き、言葉表現を軽視する傾向がある。詞の世界がきちんと伝わらなければ、それは「歌」ではなく言葉を失った「音のヴァリエーション」でしかない。オペラにも歌曲にも具体的な自然描写や人間の心情が「言葉」で表現されており、それによって聴衆がその世界を想像できなければ「アリア」でもなければ、「独唱」でもなくなる。
 マリア・カラスがなぜ不世出の歌姫なのか。天与の音楽的才能ばかりではない。人間的孤独、オペラ界での紆余曲折、女性としての葛藤、それらが生み出した魂の叫びが「歌詞」を生きた言葉にしたのである。※参照:当ブログ2009/05/03 16:13:50 カテゴリー:随想/映画『マリア・カラスの真実』を観る
 オペラ界のマリア・カラスは、1977年9月巴里で死去、享年53歳。
 激烈な人生を送り、時代を超えて聴衆の心に生きている歌手として、大衆音楽のエディット・ピアフとも通い合い、また、歌劇の主人公として舞台に立つ時は、「三分間のドラマ」を歌う美空ひばりとも繋がるのである。

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