大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

らいと古典・わたしの徒然草・5『第七段 世は定めなきこそいみじけれ』

2021-02-13 06:38:11 | 自己紹介

わたしの徒然草・5

『第七段 世は定めなきこそいみじけれ』  



 「人間はいつ死ぬかわからんとこがええねんで」と、兼好法師はおっしゃいます。

 さらにふみこんで、「四十くらいでポックリいってしもたほうが、みっともない年寄りにならんでよろしい」と言いきります。ご本人は七十歳の長寿を全うされましたが。

「四十にしてマドモアゼル」という言葉がありました。

 世の女性方からはりたおされそうな言葉ですが、これは、アラフォー女性の、やせ我慢……もとい。自立と自信をウィットとユーモアで「無学、鈍感なオッサンにはわからへんやろ」とケムにまいた名言であるらしいです。
「四十にしてマドギワず」と、かねがね思い定めていました。それがマドギワどころかマドからとびだしてしまいました。56になる一ヶ月半前のことでした。マドギワずどころか天命とかを知らなければならない年齢であります。ところが、天命どころか駅前通りの商店街の店名さえ忘れるほどに引きこもってしまいました。オッサンの天岩戸(アマノイワト)はしゃれにもなりません。
 
 この間、同年の友人が二人、兼好法師の言葉を実践するかのようにポックリいってしまいました。一人は事故、一人は血管が破裂して。二人とも地味ではありますが自分で敷いた人生のレールの上をしっかり走っていました。二人の死を、いたましく、身体の一部が無くなったような喪失感として感じましたが、心の奥底のどこかでウラヤマシク感じていたことも確かです。

 旧友二人の人生には惑いがありませんでした。一人はサラリーマンとして、身の丈に合った目標があり、それなりの役職につき、成果もあげていました。もう一人は若くして脱サラして、フランチャイズの店を持ち、さらには、そのフランチャイズからも抜けだし、完全な自営のイタメシ屋を経営。家庭的にも、多少の波風はたったものの、きちんと夫として、父として峠に立つお地蔵さんのように泰然と佇立していました。
 ひるがえって我が身をかえりみれば、惑いはなかったと思うのですが。その不惑を一飲みにするような大きな戸惑いがありました。なにやら言葉遊びのようですが、こういうことであります。
 
 教師というのは、庭師のようなものであると思っていました。教科指導やクラブ活動を通して生徒たちと接し、時に肥料をやり、ときに適度な剪定をしてやり、雑草をぬいてやったりする。あくまで、その木の成長を助け、庭の中で調和のとれた木に成長させてやる。予想以上に成長した木は、それに見合った庭や野山を探し、移植をしてやることもあります。松は松、竹は竹、椿は椿として育て、けしてその木の特性を殺したりはしません。

 今もその思いにかわりはありません。

 くどいようですが、木というものは、自分で育つ力を持っております。時に多少の手助けが必要なだけであります。その成長は、「定めなきこそいみじけれ」であります。
 今、教師に求められている役割は、庭をテーマパークにし、その管理人になれということなのかもしれません。静かな庭にいろんなイベントを持ち込み、そのマネージャーとディレクターの仕事をやれと。時に、ツアーコンダクター、また時には、木々のDNAの組み替えをやる生物学者のまねごとまでやります。

 昔の高校の教師は、日本史、生物、古典などと細かく守備範囲がきめられていて、新任からずっと同じノートを使って授業をやり、クラブの顧問も名ばかり。一時間目や六時間目の授業ををいやがり(遅く出勤し、早く帰るため)文化祭や体育祭の行事は出勤しない。そのくせ生徒にはよく説教をたれました。いわば、ズボラな庭師でありました。

 わたしが教師になったころは、受け持った学年に合わせて、小教科が変わりました。ある年は現代社会、ある年は日本史、またある年は政治経済。部活は首までドップリつかり、担任をもてば、始終生活指導や家庭訪問にあけくれて、われながらマメな庭師でありました。

 ここ十年で学校はテーマパークになりました。

 国際科や総合選択制の学校ができはじめ、普通科でも、総合学習というなんでもありの授業を筆頭に選択授業がテーマパークのイベントのように増えてきました。たとえば、情報、ビジネス基礎(ともに商業科の科目)レクリエーションスポーツ(スポーツジム)、基礎園芸(園芸科)、介護基礎(介護士専門学校)、映画から見た世界都市(観光科)……まるで、駅前の文化教室や専門学校のカタログのようです。多い先生になると、一人で五教科くらい持つ人もいます。授業も一日六時間ではおさまらず、わたしがクラブ指導にいっている高校など、週のうち四日は七時間授業になっています。そして、数は減ってきましたが一年時の宿泊学習。手取り足取りの文化祭、体育祭。一年で電話帳ほども書かされる初任者研修のレポート。なにかというと打たされるコンピューターへの入力(多いと、一日三時間くらいパソコンとお見合いしている)IDカードによる出退勤の管理、教職員の評価育成と称するプロパガンダめいた書類の作成と校長との年三回の形式的な面談。

 子供たちと接する時間は確実に減ってきました。今や庭師は庭や木を見ず、あたかもコンピューター管理された、テーマパークの管理人のようになってしまいました。

 もう遅いのですが……大波に揺れる船を「揺れるのは、船員のせいや!」と言って船員をつるしあげてもしかたがありません。乗組員ではなく、日本丸という船をこそ、なんとかしなければならないと感じます。

 ILOのいつだったかの年次報告に「世界の教師の緊張感は、最前線の兵士のそれに匹敵する」とありました。

 「七、五、三」と言うこともあります。

 退職後の教師の平均余命です。校長三年、教頭五年、平で七年。むろん戯れ言ですが、知ってか知らでか、年々この不況にもかかわらず教師志望の若者が減ってきました。東京都の教員採用試験の倍率は2・6倍らしいですね。民間企業では七倍はないと人材確保やモチベーションの維持がむずかしいと言われます。
 そんなこんなで、わたしは去年三十年勤めた教師生活に別れをつげました。しかし『世は定めなきこそいみじけれ』おかげで二十数年ぶりに旧知の出版社のみなさんと再会できました。そして読者のみなさんに駄文に付き合っていただけております。

 
 


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