ETUDE

~美味しいお酒、香り高い珈琲、そして何よりも素敵な音楽。
これが、私(romani)の三種の神器です。~

エネスコ ベートーヴェン:クロイツェルソナタほか

2009-02-01 | CDの試聴記
先週は、出張と送別会で、あっという間に一週間が終わってしまいました。
今日は久しぶりに、お気に入りの珈琲を淹れて、ゆったりとした一日を過ごしました。
そして、なぜか無性にエネスコが聴きたくなって取り出したのがこのディスク。
エネスコ、最晩年のクロイツェルソナタです。

<曲目>
■ベートーヴェン:バイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」 <1952>
■シューマン:バイオリン・ソナタ第2番 <1952>
■メンデルスゾーン:バイオリン協奏曲~第2楽章
<演奏>
■ジョルジュ・エネスコ(バイオリン)
■セリニ・シャイエ=リシェ(ピアノ)
(指揮者・オーケストラ名不詳)

音はかすれて、音程もあやしい。
リズムも、前のめりになりがち。
もはや彼の技巧の衰えは隠しようもありません。
しかし、聴き手の心をぐいっとつかんで離さないこの不思議な力は何だろう。
「長身痩躯の老人が、細くなった腕でバイオリンを抱えて演奏をしている。手つきは少々危なっかしい。しかし、その大きく見開かれた双眸は異様な光をたたえて、まっすぐひたすら前を見つめている。」
エネスコのクロイツェルを聴きながら、私はそんなことを考えていました。

「この音、このフレーズは、こんな大切な意味を持っているんだ。だから、こうやって弾かなきゃいけないんだ」と、エネスコの肉声が聞こえてくるような演奏。
それ故に生み出される音楽は、「枯れた音楽」とはまるで正反対の「強く熱い音楽」でした。
ただ、残念なことに、それを実現する技術はさすがに陰りを見せている。
音も音程も・・・。
しかし、一切の妥協を許さず、目指すものをはっきり見据えたエネスコの演奏からは、独特のオーラがありました。
そういえば、彼のバッハの無伴奏(コンチネンタル原盤)がそうだったなぁ。
上手いとか下手といった尺度がまったく無意味に感じられるような、真摯なバッハ。
そんなバッハとまったく同じスタイルで、このクロイツェルは弾かれています。

カップリングされているシューマンは、同時期の録音にもかかわらず、また違った意味での感動を与えてくれました。
このシューマンでは、あまり技術的なことが気になりません。
シューマンの心の叫びと語り手であるエネスコの感性が完全に一体化しているせいでしょうか、どこまでがシューマンで、どこからエネスコかわからなくなってきます。
とくに第3楽章の高貴なまでの美しさは、エネスコだけのものでしょう。
多少あやしい音程ですら、これが真実だと思ってしまうから不思議です。

そして、余白に収録されているメンデルゾーンのバイオリン協奏曲のことにも触れないわけにはまいりません。
第2楽章しかないし、録音年代も指揮者もオケも不明。
凡そレコードとしては不完全。
しかし、この美しさは一度聴いたら決して忘れられないでしょう。
エネスコの没後に母国ルーマニアでLPとして発売されたものの復刻だそうですが、まさに絶品。
何としても全曲聴きたいと思わせてくれる素敵な演奏でした。

自分の目指す高みを明らかにして、どんな困難があってもそれに妥協しないエネスコのスタイルは、生き様を人にさらすようで、実は本当に勇気のいることです。
「人生の年輪を感じさせるような演奏」とか「枯淡の境地の音楽」といったスタイルのほうが、きっと楽だったでしょうに。
でも、今できることを精一杯やりとげることの素晴らしさ、清々しさを、エネスコは教えてくれます。
そういえば、先日映画館で観た「感染列島」の中で何度か登場する言葉を思い出しました。
「明日、地球が滅びるとも、君は今日、林檎の木を植える」※

※ルーマニアの詩人ゲオルギューの言葉で、開高健・石原慎太郎がよく使っていたそうです。
コメント (2)
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