恥ずかしながら高校生から大学の前半にかけて、演劇部に所属してたことがある。持ち前の美貌にして端麗な容姿にも関わらず、高校時代の二度ほど(全部主役ですぞ!)を除いては舞台に立ったことはない。
生意気ながら、大学では演出志望だったからである。二年生まで在籍したが、上級生のもとで演出助手を務めた後、三度めの公演では舞台監督を務めた。
演出がその芝居全体をあるコンセプトのもとに作り上げるとしたら、舞台監督はそのイメージを現実に舞台に載せる手順などをすべて取り計らう。だから公演当日は、演出家は客席で腕を組んで舞台を見つめたり出来るが、ブタカン(舞台監督)はもっとも多忙といってよい。幕開きから役者のスタンバイ、出番、舞台転換、などすべてをチェックし、舞台裾からキューを出す。音楽や効果音の出だしや終りも指示する。脚本はそれら必要事項の赤ペンがいっぱいで、それに従っていちいちキューを出す。それにより脚本と演出家のイメージが具体的に舞台上で開花する。
前置きが長くなったが、私がブタカンを務めたのはあの『アンネの日記』を舞台脚本としたものであった。多分それは、1956年に「劇団民藝」が公演したものと同じ脚本ではなかったかと思う。その折、主役のアンネ・フランクを演じたのが、ここに述べる野間美喜子さんであった。彼女は私より学年がひとつ下で、さほど大柄ではないおかっぱ頭、そして芝居のセンスは、アンネに最適であったと思われる。
公演当日、私は舞台裏を駆けずり回り、オヤこんなはずではという小さなアクシデントと闘いながらもなんとかその任務を全うした。野間さんは、臆することなく堂々とアンネ・フランクを演じきった。
もし、アンネ・フランクがナチスの毒牙にかかることなく成長したらどんな女性になっていたろうと想像するとき、私のイメージはどうしてもあの折の野間美喜子さんへと還ってゆく。野間さんは在学中に司法試験を突破し、その後弁護士になった。
だからその想像は、アンネ・フランクが弁護士になったとしたら、どうだろうということへと至るのだ。
あの想像力豊かな少女・アンネはおそらくその性格を生かして、まさに想像力と創造力をもった懐の広い弁護士になったろうと思われる。そして、野間さんもそうなった。
彼女や私が物心つき、小学校(当時は国民学校)の頃、日本の敗戦があり、やがて、その反省の上に新たな憲法が制定された。彼女はその憲法の趣旨をまさに市民そのものの平和で平等で民主的な生活に活かすべく、その生涯を貫いた。
そして、昨年、その生を終えた。
ここに『向日葵は永遠に(ひまわりはとわに)』という書がある。これは長女の下方映子さんがまとめられた野間美喜子さん自身の残した文書による冊子である。そのサブタイトルは「平和憲法一期生の八十年」とある。「向日葵」は写真に見るよに、野間さんのイメージに似つかわしい。いつも、陽射しのある方向へと眼差しを定めて歩んできた彼女の経歴とも。
彼女の功績を数え上げるのに法曹会に暗い私はふさわしくないのだが、この書の「Ⅰ 人と国家と法律と」収められたそれぞれ短い文章からも、 平和や原発、教科書問題、知る権利の問題、表現の自由の問題、国民の健康保持の問題などなど平和と民主主義と人権の灯を掲げ続けた彼女の足跡がよく分かる。
「Ⅱ 女性として市民として」では、そうした公の問題からやや引いた彼女自身のエッセイなどによって成り立っているが、あの多忙で駆けるように過ごしてきた彼女のフッと息をつくような側面がみられる。
このうち「五歳の記憶」と題された短い文章には、戦時中、彼女が疎開していた三重県の津市での目撃談が掲載されている。それは、空襲の後、落下傘で舞い降りた米軍兵士を、普段は人の良さそうなおじさんが先頭に立ってリンチ攻撃を加えるという話である。この話には、実は関連する事柄もあり、もう一度後で触れたい。
この野間さんの書の圧巻は、なんといっても後半のⅢ Ⅳ で述べられた「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」の建設に絡む話である。これはどう考えても一介の弁護士が手掛けるには荷が重すぎるような話である。
しかし、彼女は果敢にチャレンジし、周辺を巻き込み、署名を集め、その建設のための請願は、愛知県議会、名古屋市議会共に満場一致で受理されたのであった。
しかし、これでそれ自体が実現するほど行政の世界は甘くない。窓口の担当者はいざ知らず、行政全体の動きはきわめて緩慢で満場一致にもかかわらずそれは一向に実現を見ようとしなかった。
しかし、天は真に努力するものを見捨てはしない。野間さんたちの尽力を知った加藤たづさん(1921~2014)という篤志家が、約300㎡の土地と一億円の資金を寄贈すると名乗り出たのだった(2005年、たづさん当時92歳)。
野間さんやその仲間たちは、県や市の形だけの相づちに業を煮やし、この加藤さんの厚志に沿って自力で「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」の設立に踏み切り、2007年にはその開館にこぎつけた。
初代館長はもちろん野間さんで、彼女はなくなる前年までその職務を全うした。
同館は、常設展示を充実させながら、その時々のテーマによる企画展を催している。例えば、つい先日までは「少女たちの戦争」が行われていた。
同館のもうひとつの活動は、次第に高齢化してゆく戦争経験者のボランティアを組織し、館内での催し、小中高などの学校、その他の会などへの体験談の語り部を派遣し、子どもたち若い世代への戦争の悲惨さ、平和の重要さなどを啓蒙し続けていることである。
野間さん個人の話に戻ろう。彼女は法曹界の人であったが、その範囲をはみ出した活動をも躊躇することなく展開した。その背景には、やはり「法」に対する見解の問題があったと思う。
同じ法曹界にあっても、守旧派の法意識はいかにして諸個人を法的に拘束し、同一性のキヅナに繋ぎ止めるかにある。しかし、野間さんのそれは、いかにして個人の自由が守られ、同一性のキヅナから自由な多様性、複数性が保証されるかを主眼とした法解釈、適応を目指していたと思う。
これは、権力が法を絶対視し、その適応において国民の同一性を図ろうとするのに対し、逆に、法を権力の行使の制限とし、いかに諸個人の自由や多様性を守るかに軸足を置くかの問題で、もちろん、野間さんは後者を貫いた。
最後に、私と「戦争と平和の資料館〈ピースあいち〉」との関わりだが、住まいが岐阜のせいもあって頻繁には行けないがそれでも2,3回は足を運んでいる。ある時、同館が戦争に関する資料をまだまだ収集していることを知って、私は古くからの友人、W氏から寄贈された冊子を持参した。それは、W氏を含め私と同年の三重県の津高校同窓生がまとめた「国民学校一年生の戦争体験」というもので、それには、不時着した米兵へのリンチ殺傷事件も書かれていた。
ところで、ここに紹介した野間さんの書の「五歳の記憶」と題された短い文章にもまた、疎開中に津市で目撃した同様の話が書かれている。同じ津市で、そんなにある話でもないだろうから、おそらく同じ出来事の目撃譚であろうと思われる。
私がこれは資料にふさわしいと持参したものの内容が、まさに幼き野間さんの目撃と重なるなんて、この書を読みながら驚いたひとつのエピソードであった。
なお、あとがきは作家で今、私と同じ同人誌で活躍していらっしゃる山下智恵子さんがお書きになっているが、野田さん、山下さん、そして私は共にあの演劇部のオンボロ部室で青春の日々を送った間柄である。
私のなかでは、野間=アンネ・フランクのイメージが今後共に生き続けるだろう。
*野間美喜子『向日葵は永遠に 平和憲法一期生の八十年』 2021 風媒社