*写真は最初の一枚を除いては開催された名古屋市美術館の周辺のものです。
鬼才、アレクサンドル・ソクーロフの映画『エルミタージュ幻想』を観たのはもう10年ほど前だろうか。
この監督、ソ連時代、その作品はほとんど上映禁止であった。
解禁後撮った「権力者4部作」としてアドルフ・ヒトラーを描いた『モレク神』、ウラジーミル・レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』そして昭和天皇を描いた『太陽』は観ているが、その最終章『ファウスト』は現在各地で上映中なのに名古屋地区は飛ばされているようだ。
三重の進富座や静岡では上映するのになぜなんだ!
シネマテークよ、なぜ見送ったのだ!
とまあ思うのだが、書きたいのは映画の話ではない。
現在名古屋市美術館で開催中の「大エルミタージュ美術館展」を見てきた話だ。
冒頭に述べたソクーロフの映画は、ロマノフ王朝時代のピョートル、ニコライやエカテリーナ、アナスタシアなどなど時代を彩った人々が時空を越えて登場し、その収蔵品なども映し出されるのだが、なんといっても圧巻は90分のこの映画がカット割りなしのワンカットの長回しで撮られていることであった。
イントロから最後の舞踏会が終了して人びとが階段を降りるシーンまで、まったくのカット割りのない映像がどのようにして撮られたのか私には謎だ。
それは例えば、ルキーノ・ヴィスコンティの『山猫』の冒頭シーン、建物のしかも二階の窓に迫るカメラが、いつの間にかその内部を映し出していた謎をさらに拡大した感があった。
したがってその折は、まさに「映画」を観ていて、収蔵された作品を鑑賞するいとまはなかった。
その収蔵作品が来るという。これは行かずばなるまいと出かけた次第である。
ロマノフ王朝が権勢と財力によって収集した収蔵品の、たぶんほんの一部にしかすぎないものに「大エルミタージュ」と冠するのはいかがなものかという思いもあったが、やはりいってよかったと思う。
端的にいって展示された個々の作品の面白さは無論あるのだが、私のような西洋美術に疎い者にとっては、年代順に展示されその概要がわかりやすく、西洋美術史のおさらいのような意味合いを持つものでもあった。
ルネッサンスを皮切りにした作品群は、西洋絵画の変遷を十分系統的に示してくれる。
ただし、バルビゾンや印象派以降の近現代のそれに関してはいささか貧弱である。しかし、それもやむを得ないであろう。
19世紀末から始まったロマノフ王朝の衰退は、20世紀に至っては完全に打倒されてしまうからである。
私自身の感想からいえば、ルネッサンス期に描かれた人間像が、その後の絵画と比べても、その色彩や明度の面でとても開放的で明るくて、中世のキリスト教権力において否定的に描かれた「原罪」を背負った人間とは異なる人間をそれ自身としてあでやかに表現しているのが印象的だった。
もちろん、キリスト教の戒律からまったく自由であったわけではなく、題材もまた聖書などからとられていたが、それらの絵画はこれぞわが生=セ・ラ・ヴィを謳歌しているようで奔放で明るかった。
映画『エルミタージュ幻想』ではそのラストシーンにクライマックスがあったのだが、この絵画展においてはその冒頭のルネッサンス期の人間肯定に私は惹かれたのだった。
鬼才、アレクサンドル・ソクーロフの映画『エルミタージュ幻想』を観たのはもう10年ほど前だろうか。
この監督、ソ連時代、その作品はほとんど上映禁止であった。
解禁後撮った「権力者4部作」としてアドルフ・ヒトラーを描いた『モレク神』、ウラジーミル・レーニンを描いた『牡牛座 レーニンの肖像』そして昭和天皇を描いた『太陽』は観ているが、その最終章『ファウスト』は現在各地で上映中なのに名古屋地区は飛ばされているようだ。
三重の進富座や静岡では上映するのになぜなんだ!
シネマテークよ、なぜ見送ったのだ!
とまあ思うのだが、書きたいのは映画の話ではない。
現在名古屋市美術館で開催中の「大エルミタージュ美術館展」を見てきた話だ。
冒頭に述べたソクーロフの映画は、ロマノフ王朝時代のピョートル、ニコライやエカテリーナ、アナスタシアなどなど時代を彩った人々が時空を越えて登場し、その収蔵品なども映し出されるのだが、なんといっても圧巻は90分のこの映画がカット割りなしのワンカットの長回しで撮られていることであった。
イントロから最後の舞踏会が終了して人びとが階段を降りるシーンまで、まったくのカット割りのない映像がどのようにして撮られたのか私には謎だ。
それは例えば、ルキーノ・ヴィスコンティの『山猫』の冒頭シーン、建物のしかも二階の窓に迫るカメラが、いつの間にかその内部を映し出していた謎をさらに拡大した感があった。
したがってその折は、まさに「映画」を観ていて、収蔵された作品を鑑賞するいとまはなかった。
その収蔵作品が来るという。これは行かずばなるまいと出かけた次第である。
ロマノフ王朝が権勢と財力によって収集した収蔵品の、たぶんほんの一部にしかすぎないものに「大エルミタージュ」と冠するのはいかがなものかという思いもあったが、やはりいってよかったと思う。
端的にいって展示された個々の作品の面白さは無論あるのだが、私のような西洋美術に疎い者にとっては、年代順に展示されその概要がわかりやすく、西洋美術史のおさらいのような意味合いを持つものでもあった。
ルネッサンスを皮切りにした作品群は、西洋絵画の変遷を十分系統的に示してくれる。
ただし、バルビゾンや印象派以降の近現代のそれに関してはいささか貧弱である。しかし、それもやむを得ないであろう。
19世紀末から始まったロマノフ王朝の衰退は、20世紀に至っては完全に打倒されてしまうからである。
私自身の感想からいえば、ルネッサンス期に描かれた人間像が、その後の絵画と比べても、その色彩や明度の面でとても開放的で明るくて、中世のキリスト教権力において否定的に描かれた「原罪」を背負った人間とは異なる人間をそれ自身としてあでやかに表現しているのが印象的だった。
もちろん、キリスト教の戒律からまったく自由であったわけではなく、題材もまた聖書などからとられていたが、それらの絵画はこれぞわが生=セ・ラ・ヴィを謳歌しているようで奔放で明るかった。
映画『エルミタージュ幻想』ではそのラストシーンにクライマックスがあったのだが、この絵画展においてはその冒頭のルネッサンス期の人間肯定に私は惹かれたのだった。