遅々として進みませんでしたが、書評ではなくこの書に触発されて自分のことをいろいろ書いてきたわけですから致し方ないですね。
いよいよこれで終わりです。
「第三章 アートは底が抜けた器」が一応終章となっています。
この章では比較的最近のアート・シーンを題材にしながらアートの可能性と不可能性を論じる仕掛けになっているのですが、私があまり好きではないヒロ・ヤマガタについての実情や、私にいわせれば「ハレンチ学園」の延長でしかない村上隆の作品が背後にもっている意義のようなものついては「へぇ、そうだったんだ」と目から鱗のような箇所もあります(まあ、私がそれだけど素人なだけなのですが)。
もちろんその「目から鱗」は、それでもってアートがわかってしまったということではなく、ますます藪の中なのですが、読み進むうちに例のフロイトの「文明とは性的欲望(リビドー?)の昇華されたものだ」というくだりに差しかかると共に、著者の結論めいたものの輪郭が見え始めます。
フロイト自身と、フロイトを援用しようとしたアンドレ・ブルトンなどのシュール・リアリズムとの対比がその鍵を提供してくれます。
フロイトの昇華への欲望は欠落したなにものかへの出会いを求める行為(対象a?)でありながら、しかもそれは常に「出会い損ねる」ものでしかないとされるのに対し、ブルトンらは必死にその出会いを求めるわけです。しかし、彼らもまたその出会いを果たすことができず、その失敗の痕跡こそが作品だというわけです。
そしてその作品の傍らには相変わらずポッカリと空いた穴が埋められないままに残されます。
著者はそれをドーナツの穴に例えますが、それはまた、この章のタイトル「底が抜けた」に通じるものでしょう。
同時に、その穴を埋めるための連綿たるアーティストの作為は、この書のタイトル『アート・ヒステリー』に通じるものだろうとも思います。
そこで問題は、「他者との出会い」、「他なるものとの出会い」に絞られることになります。
そしてアートが、それへの意識的、無意識的挑戦であるとしたら、それは何もアートのヒステリックな戦線にとどまることでなくても良いのではないかというのが著者の「アート離れ?」の説明であり(「おわりに」の部分)、同時に本書の結論ともなります。
ずいぶん頓珍漢な読解ですが、たとえ見当違いでも、多くのものを学ばせてもらったことは事実です。また、「アート」に関する自身の曖昧な概念に多少の整理がついたことも事実です。
あくまでも全体的にはこの書を肯定しながらですが、それでも気になったことを少し述べてみようと思います。
それはこの書が著者自身が認める如く、フロイト=ラカンの「エディプス・コンプレックス」に多くの部分を依拠している、というか全体を整理してゆく上での理論的な支柱にしているということです。
具体的には、父の抑圧としての象徴秩序への従属、あるいは父親殺しなどが、例えば幼児の表現の定型化、「フォルト/ダー」の話、ちゃぶ台返しとしてのパラダイム・チェンジ、アウトサイダー・アートとインサイダー・アート、村上隆の「父殺し」、西洋vs東洋(オリエンタリズム)といったさまざまな例で用いられています。
それが間違っているということではありません。ただ、それによって整合的に叙述された反面、除外された側面がありはしないかという怖れをもつのです。
もちろん、門外漢の私がこれと具体的に指摘できるわけではありませんが、アートにはもうひとつの見方もありうるのではという漠然とした思いです。
実用品にスノビズムが余剰を加味し(それ自身が欠落を埋める行為かもしれません)、それらが自立してアートになる過程があるわけですが、それらを評価する「共通感覚」の役割が「アート」という世界を成立せしめている要因にとって大きいのではないかと思います。
具体的にはカントの第三批判で述べられている「趣味判断=美的判断」の問題です。周知のようにこれらは第一批判の「真」や第二批判の「善」のように公理的なものからの演繹によっては導き出せない判断です。
では、何が判断の基準かというと複数の他者との間に成立するまさに「共通感覚」というべきものです。したがって、この共通感覚は当然のこととして「他者」ないしは「複数性」を含むものです。
もちろんこうした共通感覚はスタティックなものではなく、通時的・共時的に動くものですし、複数の人間の活動によっても左右されるのだろうと思います。
しかし、この共通感覚も、著者が随所で触れるように市場原理によって覆い尽くされ、「資本主義的」かつ「民主主義的」なものとしてしか機能していないことも事実です。ようするに、自由な人間の共同体における共通感覚の、いわば「疎外態」として現状はあると思うのです。
だとするならば、「自由な複数者」の「活動」こそが希求されているのであって、もちろんそれはアートであっても、そうではなくとも、あるいは政治であってもいいわけだと思うのです。
「政治」もまた自由な複数の人間による「美的判断」に近いものたるべきだと考えています。
なんだかすっかり脱線してしまいましたが、この書で多くのことを学ばせてもらいました。
もちろんそれは「アート」プロパーの問題をも越えてです。
さて、もし次に美術館へ足を運ぶとしたら、どんな表情で出かけるべきでしょうか。
最後にもう一度書名などを。
大野左紀子 『アート・ヒステリー』(河出書房新社 9月30日初版)
私もアートヒステリー読みました。
大変感銘受けました。
第三章って「アートは底の抜けた器」だったのですね。
原発はアートにすぎないという告発だったとは。
アートに目がくらんでました。
しかし20×20の方眼のうちの4。
まだ底が抜けたというほどではないと、この頃思えるようになってきました。
原発を彫刻に見立てるならば、その中に納まっているのはまさに闇。
嘘でできた格納容器の隙間から闇をうかがうことができないです。
物理学者の知恵比べには歯が立たないです。