ネットでの知り合いが、その日記で、死刑囚として既に刑を執行されてしまった、島 秋人という人の残した歌集『遺愛集』の紹介をしていた。それに触発されて、「朝日歌壇」によく登場するアメリカのカルフォルニで終身刑で獄中にいる郷 隼人という人のことを書いたところ、別の方から、やはり「朝日歌壇」によく登場する坂口 弘という人について質問があった。
知りうる範囲でそれに答えたのであったが、それを転載して、今日の日記とする。
坂口 弘は、70年安保闘争以来先鋭化し武力闘争化した党派、いわゆる「連合赤軍」の幹部で、1972年の、「あさま山荘事件」で最後まで立てこもり、警官隊と銃撃戦を交えた後、逮捕されました。
その後、1977年に、海外組の日本赤軍が、日航機をハイジャックし、獄中の政治犯との人質交換を迫った際(いわゆる「ダッカ事件」)、坂口はその対象にされながら、「もはや武力闘争の時期ではない」とそれを拒否しました。
約20年間にわたる裁判の結果、1993年に最高裁で死刑が確定しています。
森 恒夫(1973年元日に獄中にて自殺)、永田洋子(死刑確定するも、重い脳腫瘍で記憶も喪失したまま獄中にて闘病中)に次いで、連合赤軍ではNo.3の地位にいたものの、森や永田が仲間のリンチ殺人事件などで規律に厳しく冷淡だったのに対し、彼自身は幾分ソフトでその点を厳しく批判されており、そのせいで、次ぎにリンチされるのは自分だと思っていたとどこかに書いています。
そんなある種の感受性が、後年、獄中での短歌作品となって結実したのかも知れません。
私は、率直に言って彼や彼らを正当化する言葉を持ってはいません。
しかし、彼らがその闘争に参加した最初の一歩は、この社会の矛盾や格差をなくしたい、戦争や侵略のない世界を作りたいということだったと思います。
その志は諒とすべきでしょう。
にもかかわらず、なぜそれが、その反対物としての殺戮や暴力に転じてしまったのでしょう。
ここに私たちが(というより私自身が)思考すべき課題があるように思います。
この問題は、かつてのソ連並びにその影響下にあった党に見られたいわゆるスターリニズムから、あるいは幾分カリカチュライズされているとはいえ、オウム真理教事件にも関わるものです(そういえば、坂口は、オウムの被告たちにその誤りを自ら正すべく書簡を送っています)。
現在は、そうした事件の反動として、悪しき相対主義や、あるいは、正義だ、真理だなどと騒ぐこと自体が誤りであり、この生産と消費のシステムに乗っかってさえいればいいのだというある種のニヒリズムが全てを覆い尽くしているように思います。
しかし、その生産と消費のシステムそのものが、今日大きな亀裂を内包しているのであり、そんな中にあってこそ、かつての歴史的経験を真摯に思考の対象として考え続けることがいっそう必要なように思います。
私一身に関して言えば、その課題を担い続ける力量も思考能力もないのですが、少なくとも、それから視線を反らすことなく居続けたいとは思っています。
坂口 弘の歌につき、手許で拾ったもののうちから何首かを掲載します。
窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり
わが房の軒に止まりて啼く蝉は吾に代りて泣きいる如し
そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ
点検の前に必ず手で壁を三たびうたねば不安な男
退職の日に房に来て握手せし看守の面影忘れんものか
雨の夜はわが身を外にさらし出し心ゆくまでうたれんと思う
面会に臆さず君の唄いたるソプラノ低き「平城山」の歌
打続く鼓動を指に聴きし人の命の重み思い知られて
あと十年生きるは無理という母をわれの余命と比べ見詰めつ
運あらば五十路を過ぎて逢うべしと下獄の友へありえぬ手紙
爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか
リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る
*なお、参考までに、冒頭で触れた郷 隼人の歌も掲載します。
一瞬に人を殺めし罪の手と うた詠むペンをもつ手は同じ
限りなく殺風景な独房に林檎一個の華やかな美
夜が来て夜が明けてまた夜が来て囚徒ら黙す時雨の夜は
あの山の向こうに太平洋がある夕日の彼方に日本がある
七百万一斉に定年向かうとう我にはそれがなきもさみしき
<郷 隼人さんのこと>この人についてはよく分からないのですが、名前(ペンネーム)からして鹿児島県出身の人で、殺人罪で終身刑の判決を受け、現在カルフォルニアの刑務所で服役中のようです。
どんな経緯で殺人に至ったかは全く分かりませんが、1984年以来、23年の獄中生活です。
朝日歌壇への入選はしばしばで、氏の根強いファンもいるようです。
知りうる範囲でそれに答えたのであったが、それを転載して、今日の日記とする。
坂口 弘は、70年安保闘争以来先鋭化し武力闘争化した党派、いわゆる「連合赤軍」の幹部で、1972年の、「あさま山荘事件」で最後まで立てこもり、警官隊と銃撃戦を交えた後、逮捕されました。
その後、1977年に、海外組の日本赤軍が、日航機をハイジャックし、獄中の政治犯との人質交換を迫った際(いわゆる「ダッカ事件」)、坂口はその対象にされながら、「もはや武力闘争の時期ではない」とそれを拒否しました。
約20年間にわたる裁判の結果、1993年に最高裁で死刑が確定しています。
森 恒夫(1973年元日に獄中にて自殺)、永田洋子(死刑確定するも、重い脳腫瘍で記憶も喪失したまま獄中にて闘病中)に次いで、連合赤軍ではNo.3の地位にいたものの、森や永田が仲間のリンチ殺人事件などで規律に厳しく冷淡だったのに対し、彼自身は幾分ソフトでその点を厳しく批判されており、そのせいで、次ぎにリンチされるのは自分だと思っていたとどこかに書いています。
そんなある種の感受性が、後年、獄中での短歌作品となって結実したのかも知れません。
私は、率直に言って彼や彼らを正当化する言葉を持ってはいません。
しかし、彼らがその闘争に参加した最初の一歩は、この社会の矛盾や格差をなくしたい、戦争や侵略のない世界を作りたいということだったと思います。
その志は諒とすべきでしょう。
にもかかわらず、なぜそれが、その反対物としての殺戮や暴力に転じてしまったのでしょう。
ここに私たちが(というより私自身が)思考すべき課題があるように思います。
この問題は、かつてのソ連並びにその影響下にあった党に見られたいわゆるスターリニズムから、あるいは幾分カリカチュライズされているとはいえ、オウム真理教事件にも関わるものです(そういえば、坂口は、オウムの被告たちにその誤りを自ら正すべく書簡を送っています)。
現在は、そうした事件の反動として、悪しき相対主義や、あるいは、正義だ、真理だなどと騒ぐこと自体が誤りであり、この生産と消費のシステムに乗っかってさえいればいいのだというある種のニヒリズムが全てを覆い尽くしているように思います。
しかし、その生産と消費のシステムそのものが、今日大きな亀裂を内包しているのであり、そんな中にあってこそ、かつての歴史的経験を真摯に思考の対象として考え続けることがいっそう必要なように思います。
私一身に関して言えば、その課題を担い続ける力量も思考能力もないのですが、少なくとも、それから視線を反らすことなく居続けたいとは思っています。
坂口 弘の歌につき、手許で拾ったもののうちから何首かを掲載します。
窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり
わが房の軒に止まりて啼く蝉は吾に代りて泣きいる如し
そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ
点検の前に必ず手で壁を三たびうたねば不安な男
退職の日に房に来て握手せし看守の面影忘れんものか
雨の夜はわが身を外にさらし出し心ゆくまでうたれんと思う
面会に臆さず君の唄いたるソプラノ低き「平城山」の歌
打続く鼓動を指に聴きし人の命の重み思い知られて
あと十年生きるは無理という母をわれの余命と比べ見詰めつ
運あらば五十路を過ぎて逢うべしと下獄の友へありえぬ手紙
爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか
リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る
*なお、参考までに、冒頭で触れた郷 隼人の歌も掲載します。
一瞬に人を殺めし罪の手と うた詠むペンをもつ手は同じ
限りなく殺風景な独房に林檎一個の華やかな美
夜が来て夜が明けてまた夜が来て囚徒ら黙す時雨の夜は
あの山の向こうに太平洋がある夕日の彼方に日本がある
七百万一斉に定年向かうとう我にはそれがなきもさみしき
<郷 隼人さんのこと>この人についてはよく分からないのですが、名前(ペンネーム)からして鹿児島県出身の人で、殺人罪で終身刑の判決を受け、現在カルフォルニアの刑務所で服役中のようです。
どんな経緯で殺人に至ったかは全く分かりませんが、1984年以来、23年の獄中生活です。
朝日歌壇への入選はしばしばで、氏の根強いファンもいるようです。