*写真はいずれもキノシタホールへのイントロ部分です。
(承前)二番館への思いは、私のもつ単純なノスタルジーもありますが、同時に実用的な意味合いもあるのです。
そこそこの映画ファンの私は、数年前までは年間、劇場で百本近くを観ていました。ですから、二番館にかかる「名画」の部類はすでにほとんど観てしまっていたのです。
しかし最近は、そうした追っかけもしんどくなりました。それに一日に三本をはしごするという体力も気力も次第に失われてきました。ですから、観たいなと思うものがあっても見逃すことが多くなってきたのです。
そんなことでこれからは、こうした二番館にお世話になる機会が増えるだろうと思うのです。
DVDや録画もまったく観ないわけではないのですが、なんとなく劇場で観るほうがいいのです。録画を見るというのはその作品の時間的な流れに従って観るという緊張感がありません。好きなところで止めて、また帰ってきて観るというのでは監督がある時間的な流れを計算しながら作った作品への冒涜のような気がするのです。
事実、さあどうなるのだろうかと固唾を飲んで画面を見つめる張り詰めた持続もありませんよね。ですから私のディスクには、録画はしたもののまだ観ていないものがけっこう残っています。
もうひとつ映画館の良さは、他の観衆とともに感動を共有するという場そのもののリアルな質量感にあります。今ではそんなことをしたら叱られますが、昔は鞍馬天狗が杉作を助けに駆けつけるシーンでは拍手が湧いたものでした。
70年代の活動家たちも、ヤクザ映画で忍従に忍従を重ねた主人公が、ついに堪忍袋の緒を切って殴り込みに行くシーンで拍手を送ったのですが、これはなんとなくルサンチマン(怨恨)が感じられて、鞍馬天狗の時のような開放的なカタルシスとは幾分違うようにも思います。
20年以上前でしょうか、今のように改装する前のキノシタホールで、私は感動的なシーンを経験しています。
映画史上、10本のうちに入ると云われた『天井桟敷の人々』(マルセル・カルネ・監督 1945)がこのキノシタホールで上映されたのです。未見だった私は、これを見逃してはと厳しい現役の日程の中、なんとかやりくりして駆けつけたのでした。
そうした映画にもかかわらず、観客数は数えるほどでした。
映画は期待に十分応えるものでした。今となっては幾分キッチュで通俗的な手法も、その後の映画がそれを模倣し繰り返したがゆえにそうなったのであって、当時においては革新的だったろうことが十分納得できました。昨今の映画を観ていても、いわゆるデジャヴというか既視感のように、あ、このシーンの原型はあの映画にあったなという感じが時々します。
十分満足してラスト・シーンを迎えようとする頃、私は斜め後ろあたりでただならぬ気配を感じていました。
その正体は上映が終了し、場内が明るくなって明らかになりました。
そこには私と同年輩の和服の女性がいて、目頭にハンケチをあて、よよとばかりに泣き崩れていたのです。
私はそこまで彼女を感動させる映画の力、またそれを全身で受け止める彼女の感受性のようなもの、その双方に感動してしまいました。
ね、これって録画をひとりで黙々と観るという閉鎖的な空間では決して味わえないものでしょう。
私のキノシタホールの印象はこの思い出とともにあります。
映画館を出て、彼女が私と同じ方向ではないことを残念に思いながら、でもそのほうが良かったとも思いながら、その後ろ姿を見送りました。
その折の季節は忘れましたが、陽の傾きかけた夕風に私のいくぶん上気した頬が心地よく感じられたのを今も覚えています。
ヴィヴァ ! 二番館ですね。
(承前)二番館への思いは、私のもつ単純なノスタルジーもありますが、同時に実用的な意味合いもあるのです。
そこそこの映画ファンの私は、数年前までは年間、劇場で百本近くを観ていました。ですから、二番館にかかる「名画」の部類はすでにほとんど観てしまっていたのです。
しかし最近は、そうした追っかけもしんどくなりました。それに一日に三本をはしごするという体力も気力も次第に失われてきました。ですから、観たいなと思うものがあっても見逃すことが多くなってきたのです。
そんなことでこれからは、こうした二番館にお世話になる機会が増えるだろうと思うのです。
DVDや録画もまったく観ないわけではないのですが、なんとなく劇場で観るほうがいいのです。録画を見るというのはその作品の時間的な流れに従って観るという緊張感がありません。好きなところで止めて、また帰ってきて観るというのでは監督がある時間的な流れを計算しながら作った作品への冒涜のような気がするのです。
事実、さあどうなるのだろうかと固唾を飲んで画面を見つめる張り詰めた持続もありませんよね。ですから私のディスクには、録画はしたもののまだ観ていないものがけっこう残っています。
もうひとつ映画館の良さは、他の観衆とともに感動を共有するという場そのもののリアルな質量感にあります。今ではそんなことをしたら叱られますが、昔は鞍馬天狗が杉作を助けに駆けつけるシーンでは拍手が湧いたものでした。
70年代の活動家たちも、ヤクザ映画で忍従に忍従を重ねた主人公が、ついに堪忍袋の緒を切って殴り込みに行くシーンで拍手を送ったのですが、これはなんとなくルサンチマン(怨恨)が感じられて、鞍馬天狗の時のような開放的なカタルシスとは幾分違うようにも思います。
20年以上前でしょうか、今のように改装する前のキノシタホールで、私は感動的なシーンを経験しています。
映画史上、10本のうちに入ると云われた『天井桟敷の人々』(マルセル・カルネ・監督 1945)がこのキノシタホールで上映されたのです。未見だった私は、これを見逃してはと厳しい現役の日程の中、なんとかやりくりして駆けつけたのでした。
そうした映画にもかかわらず、観客数は数えるほどでした。
映画は期待に十分応えるものでした。今となっては幾分キッチュで通俗的な手法も、その後の映画がそれを模倣し繰り返したがゆえにそうなったのであって、当時においては革新的だったろうことが十分納得できました。昨今の映画を観ていても、いわゆるデジャヴというか既視感のように、あ、このシーンの原型はあの映画にあったなという感じが時々します。
十分満足してラスト・シーンを迎えようとする頃、私は斜め後ろあたりでただならぬ気配を感じていました。
その正体は上映が終了し、場内が明るくなって明らかになりました。
そこには私と同年輩の和服の女性がいて、目頭にハンケチをあて、よよとばかりに泣き崩れていたのです。
私はそこまで彼女を感動させる映画の力、またそれを全身で受け止める彼女の感受性のようなもの、その双方に感動してしまいました。
ね、これって録画をひとりで黙々と観るという閉鎖的な空間では決して味わえないものでしょう。
私のキノシタホールの印象はこの思い出とともにあります。
映画館を出て、彼女が私と同じ方向ではないことを残念に思いながら、でもそのほうが良かったとも思いながら、その後ろ姿を見送りました。
その折の季節は忘れましたが、陽の傾きかけた夕風に私のいくぶん上気した頬が心地よく感じられたのを今も覚えています。
ヴィヴァ ! 二番館ですね。
これまで時折ひっそりとこちらにお邪魔しておりましたが、あまりに美しくなったキノシタホールの写真に驚き、書き込みさせていただきます。
私の記憶にあるキノシタホールは、受付(?)が失礼ながら「楽屋裏」みたいな風情でした(嫌いじゃなかったけれど)。久しくいかないうちに、こんなにきれいになったのですね。また観に行きたいです。
さんこさんのところでお目にかかっていますね。
キノシタホール、おっしゃるように受付やトイレまわりなどは雑然としていましたが、館内そのものはさほど悪くなかったですよね。
それが今回、その館内も含めてピカピカになりました。
私が、日本一きれいな二番館と称する所以です。
何やかやで封切りの際観逃したものを観るにはもってこいの館だと思います。映画館文化を保ち続けるためにもぜひご利用下さい。
さんこさんのところで、ハンナ・アーレントに触れていらっしゃいましたが、まもなくお届けできるであろう号の拙文、またしても彼女のものを下敷きにしながらいくぶんアクチュアルな問題を考えています。
ご笑覧いただければ幸甚です。
またおでかけ下されば嬉しく存じます。
たしかに、「二番館」というと他には「三越映画劇場」ぐらいしか思い当りません。百貨店内だから、ちょっと毛色が違いますか。。あそこもたまにいいのをやっています。
『遊民』の件、さんこさんのところに「希望的観測」で書き込んだのが実現するなんて!
やはり「アーレント」って、長音表記が一般的でしょうか。私は加藤典洋が取り上げているので初めて彼女の名を目にしました。その時、とても「腑に落ちる」(誤用かも?)感じがしたので印象に残りました。
以降、私が好んで読む文章の先々で彼女の名が出てくるたびに同様の経験をしてきたのですが、今に至るも原典には当たっていないのです。ふがいない限りです・・・
ふがいないですが、でも、六文銭さんの文章を楽しみにお待ちしております。
本題と外れてしまってごめんなさいm(_ _)m
そうですね、三越へも時折参ります。
Hannah Arendt の読みはどうも一定していなくて困るのです。
例えばパソコンのWikipediaでは「アーレント」です。また彼女の著作を多く出版している「みすず」の表記も「アーレント」です。
一方、日本で彼女を紹介するのに力があった志水速雄さんの訳したものは「アレント」で統一されています。
ですから、私あたりも混乱してうっかりすると同一文章の中で両方を書いてしまうこともあります。
「遊民」の一号でアイヒマンを扱いました折には、底本にした「みすず」のものに習って「アーレント」といたしましたが、次号では、志水速雄さんの訳を参照していますので「アレント」に統一いたしました。
といった次第でなかなか面倒なのですが、「神は細部に宿る」ですから、できるかぎり気をつけてゆきたいと思います。
ありがとうございました。