都市を離れての最初の宿泊は李家山村にあるヤオトン風民宿でした。
ここへ行く道のりが大変でした。
車でスイスイと思ったのが大間違い、道が危ういので人間は降りろとのことで急遽身の回りの物のみをもって歩き始めました。
その道というのが幅三〇センチぐらいで、片側は断崖絶壁、一歩踏み外せばジ・エンド。山の落日は早く、辺りは次第に暗くなり心細い事この上なしです。おまけに、なんとその道も途中で崩れていて、石垣状の箇所を登って(若い人達に引っ張り上げられて)やっと安全地帯に。
民宿へ着いたらもうすっかり日が暮れていました
その証拠はありません。命がけの事態で写真を撮っている余裕など全くなかったのです。
もっとコンディションの良い時に似たような危険な道を通りましたが、やはりその折も写真を撮る余裕はありませんでした。
しかし、山の人たちはそんな道を天秤棒で荷物を担いで平気で歩きます。
それを避けていては自分の畑へ行けないからです。
ヤオトン民宿の食堂
そんな訳で、民宿へ着くと同時にとっぷりと日は暮れました。
大きな荷物は車に置いてきたので着替えもできません。着の身着のままなのですがどうせ風呂もシャワーもないのですからこれでいいのです。
夕食です。
大皿に盛られたものをとり合って食べます。
ひと通り料理が出たところでいきなり真っ暗になりました。
停電です。
こんなことはしょっちゅうらしくて、3、4個の懐中電灯での晩餐になりました。
二〇分ぐらい経ったでしょうか、たまりかねた私が胡錦濤主席に電話をして何とかしてくれといった途端に回復しました(嘘です。理由もわからず消え、理由もわからずついたのです)。
並べられた夕食
料理は可もなく不可もなくです。だいたい評価の基準がありません。郷に入れば郷に従うのみです。
ただし、昼食を食べた山の村の食堂より、味は落ちるものの白菜などの野菜が多かったように思いました。この辺は黄河が近く、その河川敷で採れた野菜が手に入りやすいのでしょう。
民宿の女将と隣りの老人
食事中、Nさんがかつて取材をしたという隣に住む老人がやってきて本の贈呈式を行いました。その老人、1m近くもありそうなキセルを首から吊るし、美味そうにタバコを吸っていました。
そして、貧しい若者が故郷を離れて出稼ぎに出るのを物語風にした二〇番までぐらいある長い歌を唄ってくれました。
デザートはやはり乾燥ナツメ
夜のトイレは怖いものがありました。
部屋の外はもちろん、屋敷の外側にしかないのです。
こんな所でも夜は門を閉め閂をかけますから、それを外して外へ出ます。
門灯などはありませんからほとんど手探りで進み、細い紐を見つけなければなりません。
それを引っ張るとやっと裸電球が灯るのです。
下に開いた穴に落っこちないようにその淵に敷かれたブロックのようなものに乗って用を足します。
あいにくの曇りで月も星も見えず、真っ暗な夜でした。
寝る場所はカンという日本の床の高さの倍以上のところに敷かれた布団で寝ます。着の身着のままでその上から布団を被って寝ました。
朝の民宿 右の部屋で寝た
朝起きて辺りを散歩しました。
夕べ着いたときには辺りの家々にまったく灯りがなく、廃村状態かなと思ったのですが、何のことはないどの家も健在で、それぞれ山の畑などへ行く準備をしています。無駄に電灯をつけたりしないのです。
夕べ遊びに来た老人の家に行って見ました。民宿からそこまではさほどの距離ではないのですが細くて急な坂を登り降りしなければならず、あの真っ暗ななかでの往復、慣れとはいえすごいなあと改めて感心しました。
民宿の朝食 中央に積まれたのは饅頭 手前のカボチャのスープが美味しかった
帰りも途中で車を降ろされ歩かされたのですが、昨日来る時とは別の安全な道があり、あの大冒険は一体何だったのかとはてなマークが頭の中で交錯していました。
もう一回来るか問われれば微妙ですが、もっと気候がいい頃の晴れた日でしたらという条件付きで◯です。
ここへ行く道のりが大変でした。
車でスイスイと思ったのが大間違い、道が危ういので人間は降りろとのことで急遽身の回りの物のみをもって歩き始めました。
その道というのが幅三〇センチぐらいで、片側は断崖絶壁、一歩踏み外せばジ・エンド。山の落日は早く、辺りは次第に暗くなり心細い事この上なしです。おまけに、なんとその道も途中で崩れていて、石垣状の箇所を登って(若い人達に引っ張り上げられて)やっと安全地帯に。
民宿へ着いたらもうすっかり日が暮れていました
その証拠はありません。命がけの事態で写真を撮っている余裕など全くなかったのです。
もっとコンディションの良い時に似たような危険な道を通りましたが、やはりその折も写真を撮る余裕はありませんでした。
しかし、山の人たちはそんな道を天秤棒で荷物を担いで平気で歩きます。
それを避けていては自分の畑へ行けないからです。
ヤオトン民宿の食堂
そんな訳で、民宿へ着くと同時にとっぷりと日は暮れました。
大きな荷物は車に置いてきたので着替えもできません。着の身着のままなのですがどうせ風呂もシャワーもないのですからこれでいいのです。
夕食です。
大皿に盛られたものをとり合って食べます。
ひと通り料理が出たところでいきなり真っ暗になりました。
停電です。
こんなことはしょっちゅうらしくて、3、4個の懐中電灯での晩餐になりました。
二〇分ぐらい経ったでしょうか、たまりかねた私が胡錦濤主席に電話をして何とかしてくれといった途端に回復しました(嘘です。理由もわからず消え、理由もわからずついたのです)。
並べられた夕食
料理は可もなく不可もなくです。だいたい評価の基準がありません。郷に入れば郷に従うのみです。
ただし、昼食を食べた山の村の食堂より、味は落ちるものの白菜などの野菜が多かったように思いました。この辺は黄河が近く、その河川敷で採れた野菜が手に入りやすいのでしょう。
民宿の女将と隣りの老人
食事中、Nさんがかつて取材をしたという隣に住む老人がやってきて本の贈呈式を行いました。その老人、1m近くもありそうなキセルを首から吊るし、美味そうにタバコを吸っていました。
そして、貧しい若者が故郷を離れて出稼ぎに出るのを物語風にした二〇番までぐらいある長い歌を唄ってくれました。
デザートはやはり乾燥ナツメ
夜のトイレは怖いものがありました。
部屋の外はもちろん、屋敷の外側にしかないのです。
こんな所でも夜は門を閉め閂をかけますから、それを外して外へ出ます。
門灯などはありませんからほとんど手探りで進み、細い紐を見つけなければなりません。
それを引っ張るとやっと裸電球が灯るのです。
下に開いた穴に落っこちないようにその淵に敷かれたブロックのようなものに乗って用を足します。
あいにくの曇りで月も星も見えず、真っ暗な夜でした。
寝る場所はカンという日本の床の高さの倍以上のところに敷かれた布団で寝ます。着の身着のままでその上から布団を被って寝ました。
朝の民宿 右の部屋で寝た
朝起きて辺りを散歩しました。
夕べ着いたときには辺りの家々にまったく灯りがなく、廃村状態かなと思ったのですが、何のことはないどの家も健在で、それぞれ山の畑などへ行く準備をしています。無駄に電灯をつけたりしないのです。
夕べ遊びに来た老人の家に行って見ました。民宿からそこまではさほどの距離ではないのですが細くて急な坂を登り降りしなければならず、あの真っ暗ななかでの往復、慣れとはいえすごいなあと改めて感心しました。
民宿の朝食 中央に積まれたのは饅頭 手前のカボチャのスープが美味しかった
帰りも途中で車を降ろされ歩かされたのですが、昨日来る時とは別の安全な道があり、あの大冒険は一体何だったのかとはてなマークが頭の中で交錯していました。
もう一回来るか問われれば微妙ですが、もっと気候がいい頃の晴れた日でしたらという条件付きで◯です。