野田内閣がついに福井県の大飯原発の再稼働にゴーサインを出したようです。フクシマのちゃんとした検証も終わっていない段階で、暴挙という他はありません。
これに関わる本をつい最近読みました。
対談をまとめたものです。
対談の一方は、原発事故以来、さまざまな情報が隠蔽され、御用学者による虚報のみが垂れ流されるなかで、何が起こっているのかを冷静に私たちに示してくれた京大原子炉研究所の小出裕章氏です。その後の事態の推移は、ほぼ小出氏のもたらした情報通りといっていいでしょう。
対談のもう一方は、「海のある奈良」といわれるほど古刹、名刹が多い小浜で、本堂と三重塔が国宝という真言宗明通寺の住職、中嶌哲演氏です。
この取り合せは、一方は最先端の科学者、一方は伝統的な宗派の仏教者ということですが、また、原子炉の基礎的な研究者と、それを応用した原発設置地点の住民というコントラストをも示しています。
そしてその共通点は、1970年代の前半、日本各地に原発が設置され始めるころから、40年以上にわたって「反原発」を主張してきたということです。
小出氏はこの間つとに名を上げてきましたので、ご存知の人も多いでしょうから、ここは中嶌師が地域と関わるなかで明らかになったことについて述べてみましょう。
これにはもうひとつの理由があります。それは、先に見た小浜市こそまさに大飯原発の地元であり、その再稼働に抗議して中嶌師はつい先般、福井県庁に座り込む活動をしていたからです。
福井県はよく原発銀座などといわれたりします。それは「もんじゅ」や「ふげん」(この殺人装置に文殊菩薩や普賢菩薩の名を冠することに仏教者の中嶌師は激しく抗議しています)を含め15基の原発を擁しているからです。
しかし、それを詳しく見ると事態はそんなに単純なものではありません。
福井県は嶺北(旧国名では越前)と嶺南(若狭)に分かれているのですが、15基の原発のすべてが嶺南にあるのです。これは立地条件というより、経済的な生産性などの地域格差にあります。
先に中嶌師は、原発設置の地元だといいました。しかし、小浜には原発はありません。これは40年にわたる中嶌師らの運動が功を奏して、小浜市が原発誘致を断念したからです。
しかし、とんでもないことが起こりました。
小浜湾に突き出た半島の先っぽに、4基もの原発が作られたのです。たしかにそこは行政的には小浜市ではありません。しかし、これにより小浜市民の70%が原発の半径10キロ以内に包摂されることになってしまったのです。そしてこれこそが、再稼働ゴーサインが出た大飯原発なのです。
なぜこんなことが生じたのでしょう。小浜は拒否し得たのに大飯が受け入れたのは、半島の集落で道路などのインフラ整備が小浜市よりもはるかに遅れていたからです。これは先に見た、嶺北ー嶺南の差異と同じ構造です。
ようするに電力は、貧しい地帯に目をつけ、まずその地域のボスを接待漬けなどにして篭絡し、地域のインフラ整備の要求に乗る素振りで公民館や小公園を寄贈し、さらに大きなお土産があることを示唆してその地域全体をお金をねだる体質に染め上げてゆくのです。
そして頃合いを見て原発設置を承認させるのです。
これはヤクザが、まずはちょっとした快楽への欲望に付け入ってシャブを経験させ、次第にシャブ漬けにすることによって自分の資金源にする手口とまったく一緒です。
しかし、それをもって現地の人達を責めることができるでしょうか。
先に見たようにそこには地域そのものの貧困化が横たわっているのです。電力はそこに目をつけ原発を推し進めてきたのです。
ようするに原発はこうした地域差別を利用し、そこへと危険を押し付けることによってさらにその差別を増幅するのです。
その差別の構造は、そこでできた電力を誰が利用するかにも関わります。
福井県の原発(もんじゅやふげんを除く)の13基のうち、実に11基が関西電力に所属し、その電力は全て関西へと送られるのです。その結果、関西地方の電力の実に60%は福井の嶺南地方の原発によって生み出されるのです。
ようするに、福井の嶺南の、そのまた貧しい地域が負う危険の上に関西の産業や煌々たる不夜城の都市が君臨しているのです。
かくして原発は、幾重にも折り重ねられた差別の構造の上になり立ち、それを日々増幅しつつあるのです。
この書は、直接それを声高に語るのではなく、二人の日常的な実践が平易に述べられています。したがって上に述べたようなことは、中嶌師の淡々と語る現地の事情から私が読み取ったものです。
小浜は、私がよく訪れたところで、懐かしい地名もたくさん出てきます。
なお、小出氏についてはあまり触れませんでしたが、ただ一点、これは知っておいていいでしょう。
というのは、フクシマは決して想定外の事故ではなく、まともな研究者はそれの起こりうることを知っていたということです。にもかかわらずその発言は事実上封じられてきました。
それのみではありません。政官財ともに誰も「安全神話」など信じてはいなくて、事故を想定した措置をあらかじめ決めていたのです。
以上はこの書の一端に過ぎません。その他、眼から鱗の事実がかなりあります。そして何よりも、昨日今日ではなく、40年以上前から反原発を貫いてきた二人の生きざまや立脚点に根ざした対話の迫力があります。
大飯の原発再稼働を許すかどうかは、反原発の正念場になると思います。
それは今後とも差別の構造を貧しい地域に押し付け続けることとなるのです。
『いのちか原発か』小出裕章?中嶌哲演 (風媒社)1,200円+税
これに関わる本をつい最近読みました。
対談をまとめたものです。
対談の一方は、原発事故以来、さまざまな情報が隠蔽され、御用学者による虚報のみが垂れ流されるなかで、何が起こっているのかを冷静に私たちに示してくれた京大原子炉研究所の小出裕章氏です。その後の事態の推移は、ほぼ小出氏のもたらした情報通りといっていいでしょう。
対談のもう一方は、「海のある奈良」といわれるほど古刹、名刹が多い小浜で、本堂と三重塔が国宝という真言宗明通寺の住職、中嶌哲演氏です。
この取り合せは、一方は最先端の科学者、一方は伝統的な宗派の仏教者ということですが、また、原子炉の基礎的な研究者と、それを応用した原発設置地点の住民というコントラストをも示しています。
そしてその共通点は、1970年代の前半、日本各地に原発が設置され始めるころから、40年以上にわたって「反原発」を主張してきたということです。
小出氏はこの間つとに名を上げてきましたので、ご存知の人も多いでしょうから、ここは中嶌師が地域と関わるなかで明らかになったことについて述べてみましょう。
これにはもうひとつの理由があります。それは、先に見た小浜市こそまさに大飯原発の地元であり、その再稼働に抗議して中嶌師はつい先般、福井県庁に座り込む活動をしていたからです。
福井県はよく原発銀座などといわれたりします。それは「もんじゅ」や「ふげん」(この殺人装置に文殊菩薩や普賢菩薩の名を冠することに仏教者の中嶌師は激しく抗議しています)を含め15基の原発を擁しているからです。
しかし、それを詳しく見ると事態はそんなに単純なものではありません。
福井県は嶺北(旧国名では越前)と嶺南(若狭)に分かれているのですが、15基の原発のすべてが嶺南にあるのです。これは立地条件というより、経済的な生産性などの地域格差にあります。
先に中嶌師は、原発設置の地元だといいました。しかし、小浜には原発はありません。これは40年にわたる中嶌師らの運動が功を奏して、小浜市が原発誘致を断念したからです。
しかし、とんでもないことが起こりました。
小浜湾に突き出た半島の先っぽに、4基もの原発が作られたのです。たしかにそこは行政的には小浜市ではありません。しかし、これにより小浜市民の70%が原発の半径10キロ以内に包摂されることになってしまったのです。そしてこれこそが、再稼働ゴーサインが出た大飯原発なのです。
なぜこんなことが生じたのでしょう。小浜は拒否し得たのに大飯が受け入れたのは、半島の集落で道路などのインフラ整備が小浜市よりもはるかに遅れていたからです。これは先に見た、嶺北ー嶺南の差異と同じ構造です。
ようするに電力は、貧しい地帯に目をつけ、まずその地域のボスを接待漬けなどにして篭絡し、地域のインフラ整備の要求に乗る素振りで公民館や小公園を寄贈し、さらに大きなお土産があることを示唆してその地域全体をお金をねだる体質に染め上げてゆくのです。
そして頃合いを見て原発設置を承認させるのです。
これはヤクザが、まずはちょっとした快楽への欲望に付け入ってシャブを経験させ、次第にシャブ漬けにすることによって自分の資金源にする手口とまったく一緒です。
しかし、それをもって現地の人達を責めることができるでしょうか。
先に見たようにそこには地域そのものの貧困化が横たわっているのです。電力はそこに目をつけ原発を推し進めてきたのです。
ようするに原発はこうした地域差別を利用し、そこへと危険を押し付けることによってさらにその差別を増幅するのです。
その差別の構造は、そこでできた電力を誰が利用するかにも関わります。
福井県の原発(もんじゅやふげんを除く)の13基のうち、実に11基が関西電力に所属し、その電力は全て関西へと送られるのです。その結果、関西地方の電力の実に60%は福井の嶺南地方の原発によって生み出されるのです。
ようするに、福井の嶺南の、そのまた貧しい地域が負う危険の上に関西の産業や煌々たる不夜城の都市が君臨しているのです。
かくして原発は、幾重にも折り重ねられた差別の構造の上になり立ち、それを日々増幅しつつあるのです。
この書は、直接それを声高に語るのではなく、二人の日常的な実践が平易に述べられています。したがって上に述べたようなことは、中嶌師の淡々と語る現地の事情から私が読み取ったものです。
小浜は、私がよく訪れたところで、懐かしい地名もたくさん出てきます。
なお、小出氏についてはあまり触れませんでしたが、ただ一点、これは知っておいていいでしょう。
というのは、フクシマは決して想定外の事故ではなく、まともな研究者はそれの起こりうることを知っていたということです。にもかかわらずその発言は事実上封じられてきました。
それのみではありません。政官財ともに誰も「安全神話」など信じてはいなくて、事故を想定した措置をあらかじめ決めていたのです。
以上はこの書の一端に過ぎません。その他、眼から鱗の事実がかなりあります。そして何よりも、昨日今日ではなく、40年以上前から反原発を貫いてきた二人の生きざまや立脚点に根ざした対話の迫力があります。
大飯の原発再稼働を許すかどうかは、反原発の正念場になると思います。
それは今後とも差別の構造を貧しい地域に押し付け続けることとなるのです。
『いのちか原発か』小出裕章?中嶌哲演 (風媒社)1,200円+税
I 氏からの文書で、bbさんの同書の紹介文を読ませて頂きました。
私とはまた違う切り口でうまく紹介していらっしゃると思いました。
I 氏も悔やんでいましたが、出版社名が抜けてしまったのがちょっと惜しかったですね。
しかし、中日が紹介してくれてよかったです。
普通、版元の姿勢などにはあまり触れないのですが、やはり風媒社が従前より頑張ってきたことが評価されたこと、わがことのようにい嬉しく思います。
きょうの中日朝刊「文化」欄の「『震災と原発』の書、何を読む? 記者お薦め、7冊を紹介」という署名入りの大きな記事。そこではこの本を2冊目に取り上げていましたが、内容の評価もさることながら震災の前から原発の危うさを指摘する本を出していたとして版元をも評価していたことに感心しました。わが町の図書館にリクエストしてまもなく2カ月になりますが、こちらはいまだ音さたなしです。
現実的な問題として関西電力はかなり逼迫することでしょう。
ただし、だからといって再稼働を容認するわけには行きません。
まず原発のすべてを止める、その上で必要な対処をする、という構えでなければ原発はズルズルと稼働体制に入ってしまいます。
関西電力も、10%以上の余力をもつ中電からの融通などでしのげるのですから、そうしておいて原発なしの体制を作るべきです。
>只今さん
kinkin頑張っていますね。
開始に向けての記者会見は見ました。
稼働を容認する野田内閣は倒閣に値しますね。
>bbさん
おっしゃるとおりですね。
野田内閣は、曖昧な言い方で終始しながら、結局は原発容認であることが明らかになったと思います。
まもなく枝野が了承取り付けに現地へ乗り込むと思いますが、福井県知事はもともとの原発容認派、おおい町長は関電におんぶにだっこの下請け企業のボス、こんな連中の承認で再開されてはたまりません。
福井の嶺南地方は南北には狭くて、隣接する滋賀や京都を経て、近畿や東海もその危険区域に入ります。
原発容認派の追放が必要ですね。
小生も読みました。いい本でした。書名、帯の記述を中身が裏切っていませんでした。たとえば書名です。野田首相は、昨年9月、所信表明演説で「原子力発電について、『脱原発』と『推進』という二項対立で捉えるのは不毛」と述べ、今日に至っています。しかし、書名は、野田首相のコトバがいかに不毛であるかををみごとに示しました。といいますのも、この本では「いのち」が大きな広がりのもとで切実に定義され、認識されているからでしょう。
「KinKin、TV」と検索してみてください。
議事録不要と言った三重県のあの人始め、再稼働企む四人も、実は困っている! といった話も聞けます。