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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

春眠暁を覚えずして夢かうつつか幻かの境地

2012-04-03 23:42:49 | よしなしごと
       

 目覚ましが鳴る。起きなければならない。
 とはいえ、春眠暁を覚えずの候、そんなにすんなり起きられるわけではない。
 ましてや前夜が遅かったとすればなおさらだ。
 
 「起きねばならぬ」
 「ヤダ、寝ていたい」
 床の中での葛藤が続く。
 しかし、正義は勝つ!
 ついに起き上がり衣服を整える。
 冷え性の私にとっては足元が冷たい。
 靴下を探す。
 ない!
 靴下を入れたケースには何足かの靴下があるのだが、今日、私が履くべき靴下がない。
 なぜなんだ?
 ちゃんとそれをわかるように分けて置いてあったのに。
 ない!
 焦りまくるのだがなんともならない。
 これでは身支度をすることができない。

 そこでふと、おかしいと思う。
 どうしてその靴下にこだわるのか?
 別の靴下でもいいではないか?

          
 
 そこで目が覚める。
 「起きる」という夢を見ていたのだ。
 目覚ましが鳴ったのは事実であった。
 床のなかで葛藤があったのも事実だ。
 で、起き上がってからが夢だったのだ。
 その間、10分ほど。大した遅延ではなく、大事には至らなくて良かった。

 夢には願望の充足という機能があるようだ。
 この場合には夢のなかで起きることによって自分は寝続けることができるという、いわば、夢の代行作用とでもいうところだろうか。

 これと同じようなケースで、睡眠中に尿意を催す場合がある。
 トイレへ行くのだが、なかなか辿り着けなかったり、辿り着いたら人びとがジロジロ見ていてとても用が足せなかったり、あるいは足の踏み場もないほど汚くてやはり用が足せなかったりと、次第に強くなる尿意に焦りまくるのだがなんともならない。

 そこで目が覚める。
 尿意があったのは本当で、トイレへ行くという夢はやはり代行作用なのだろう。
 しかし、この場合には、さまざまな妨害があって実際に放尿できなかったからいいのであって、もし、夢の中でそれが果たされてしまうなら、恥ずかしい結果になることだろう。

          

 考えてみれば、この妨害といい、先に見た靴下が見当たらない例といい、それによって恥ずかしい結果にならなかったリ、寝過ごしてしまわなかったりするわけだから、単に代行作用で収まらない面もあり、夢の作用は不思議というほかない。
 
 フロイトの『夢判断』を読んだのはもう半世紀ほど前になるだろうか。
 詳細は忘却の彼方だが、下手な推理小説よりよほどスリリングだったのを覚えている。
 確かそのなかに、「夢は現実の反映であり、現実は夢の反映」といった言葉があったような気がする。
 子供の頃聴いた浪曲の一節「ゆめかうつつかまぼろしか、水にうつりし月の影、手にとれないと知りつつも・・・」をふと思い出した。
 
 私より品が良かった信長は、「人間五十年、下天(けてん)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という幸若舞の「敦盛」の一節を好んだと言われるが、不肖私、「人間七十年」を経てもやはり「夢幻の如く」であり続けている。




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