フーコーがベラスケスの絵画、「侍女たち」(ラス・メニーナス)について書いたものを読む。もう何度も読んだはずだが、読むたびに新鮮で何がしかの啓示がある。
今回はそれに触発されながら、その絵画自身をPCの画面いっぱい拡大して見つめてみた。
フーコーがこの絵画に注目したのはさすがだ。まずは、画家のベラスケス当人が大きなカンバスを前にこの絵画のなかに登場していることからして、ある種の劇中劇ともいった自己言及性が読み取れる。そして、それによリ、この絵画にはいくつかの屈折や視線の交差が生じることとなる。
私たち鑑賞者は画家ベラスケスの視線の先にあり、この絵画を見るものであるとともに見られるものとしてこの絵画の一部たることを余儀なくされる。画家ばかりではなく、この絵画に登場するほとんどの人物が私たち観るものの方角に注意を払っていて、その視線の先はどうやらベラスケスの前の大きなカンバスに描かれつつあるものであることがわかる。
そしてやがて、代わる代わるこの絵の前に立ついわば不特定多数の私たちが浴びている、画家やそこに描かれてい人々の眼差しの対象は、実は決して私たち自身ではないことがわかる。
その不在の現前の実体を示すようなそのヒントは絵画のほぼ中央の背景におかれた白い枠の中にある。
この白枠の長方形は絵画ではない。その周辺のくすんだ色彩のものは絵画だが、この明るいい方形は鏡であり、そこに映しだされたペアーこそが、画家ベラスケスが凝視し、侍女や小人たち、そして中央のこましゃくれたマルガリータ姫たちにとって中心をなしているこの絵のモデル、国王フェリペ四世とその妻である王妃マリアーナなのだ。
したがって、私たちの視線が発する場所に本来鎮座するのは、この国王夫妻にほかならない。彼らはまさしく、私たちがこの絵を見ている地点に立っている。そして彼らこそがこの絵画の全体を見渡す主体の位置を占めている。したがって背後の鏡に映し出されたものは、その虚焦点のようなものだ。
この錯綜した視線の往還運動の中で、私たちがそこに居座るならばこの絵画はその真の主体と対象を失うし、もし私たちがその場を譲り立ち去るならば、今度はこの絵画を認証する外部の観衆を失うこととなる。
国王夫妻はこの絵画にとってのかけがえのない中心点としてその内部であるとともに、この絵画の枠にとってはその外部に属することとなる。
だからそれは私たち鑑賞者の視線とオーバーラップすることができるのだが、にもかかわらず、背後の鏡の存在は国王夫妻の特権性を示すアリバイとなっている。
だから私たちは国王夫妻であり、そしてそうではなく、そのことによって私たちは画家を始めこの絵に描かれた人物たちから眺められる位置にいて、なおかつ彼らを眺める地点にいる。
この視線の往還運動は、もし鏡に映された特権者を名指す示唆がないとしたら、悪無限の循環として蒸発するたぐいのものとなるであろう。
いずれにしてもこの絵画には多くの視線が錯綜している。
画家、ベラスケスは、国王夫妻を凝視しながらその視線はこの巨大なカンバスへと回帰し、その視線の運動はこの絵画の完成まで続けられるだろう。その他の登場人物は国王夫妻への畏敬の視線を送りながら、同時に画家の手元へも関心をそそられるであろう。
もうひとつ、この絵画には特権的な視線がある。それはその最も背後で、これらの状況全体を見渡しているかのような扉の向こうの男の視線である。
彼は、画家も侍女たちも、モデルである国王夫妻も、そして進行中の絵画をも見渡す地点にいる。
しかしそんな彼も、国王夫妻や私たちからは観られる存在である。
ただし私たちや国王夫妻は、その巨大なカンバスに描かれつつあるものを観ることは出来ない。
私が読んだフーコーの文章は、1965年に独立した一文として発表されたものだが、後にその著『言葉と物』の第一章として編入されている。そしてこれを、「古典主義時代の思想における表象の概念の模範例、表象を基礎づけているものの消滅、〈同一者〉である主体そのものの省略」などとしてる。
「王の不在」は、「神の後退」を表すものであろうとか、主客が宙吊りにされたままの脱中心化は近代の到来を予告するものであろうといった読み方も出来るようである。
上記の私のそれは、そうしたフーコーの提起に触発されながらも、絵画そのものに接しつつ、私が勝手に繰り広げた感想にすぎない。
今回はそれに触発されながら、その絵画自身をPCの画面いっぱい拡大して見つめてみた。
フーコーがこの絵画に注目したのはさすがだ。まずは、画家のベラスケス当人が大きなカンバスを前にこの絵画のなかに登場していることからして、ある種の劇中劇ともいった自己言及性が読み取れる。そして、それによリ、この絵画にはいくつかの屈折や視線の交差が生じることとなる。
私たち鑑賞者は画家ベラスケスの視線の先にあり、この絵画を見るものであるとともに見られるものとしてこの絵画の一部たることを余儀なくされる。画家ばかりではなく、この絵画に登場するほとんどの人物が私たち観るものの方角に注意を払っていて、その視線の先はどうやらベラスケスの前の大きなカンバスに描かれつつあるものであることがわかる。
そしてやがて、代わる代わるこの絵の前に立ついわば不特定多数の私たちが浴びている、画家やそこに描かれてい人々の眼差しの対象は、実は決して私たち自身ではないことがわかる。
その不在の現前の実体を示すようなそのヒントは絵画のほぼ中央の背景におかれた白い枠の中にある。
この白枠の長方形は絵画ではない。その周辺のくすんだ色彩のものは絵画だが、この明るいい方形は鏡であり、そこに映しだされたペアーこそが、画家ベラスケスが凝視し、侍女や小人たち、そして中央のこましゃくれたマルガリータ姫たちにとって中心をなしているこの絵のモデル、国王フェリペ四世とその妻である王妃マリアーナなのだ。
したがって、私たちの視線が発する場所に本来鎮座するのは、この国王夫妻にほかならない。彼らはまさしく、私たちがこの絵を見ている地点に立っている。そして彼らこそがこの絵画の全体を見渡す主体の位置を占めている。したがって背後の鏡に映し出されたものは、その虚焦点のようなものだ。
この錯綜した視線の往還運動の中で、私たちがそこに居座るならばこの絵画はその真の主体と対象を失うし、もし私たちがその場を譲り立ち去るならば、今度はこの絵画を認証する外部の観衆を失うこととなる。
国王夫妻はこの絵画にとってのかけがえのない中心点としてその内部であるとともに、この絵画の枠にとってはその外部に属することとなる。
だからそれは私たち鑑賞者の視線とオーバーラップすることができるのだが、にもかかわらず、背後の鏡の存在は国王夫妻の特権性を示すアリバイとなっている。
だから私たちは国王夫妻であり、そしてそうではなく、そのことによって私たちは画家を始めこの絵に描かれた人物たちから眺められる位置にいて、なおかつ彼らを眺める地点にいる。
この視線の往還運動は、もし鏡に映された特権者を名指す示唆がないとしたら、悪無限の循環として蒸発するたぐいのものとなるであろう。
いずれにしてもこの絵画には多くの視線が錯綜している。
画家、ベラスケスは、国王夫妻を凝視しながらその視線はこの巨大なカンバスへと回帰し、その視線の運動はこの絵画の完成まで続けられるだろう。その他の登場人物は国王夫妻への畏敬の視線を送りながら、同時に画家の手元へも関心をそそられるであろう。
もうひとつ、この絵画には特権的な視線がある。それはその最も背後で、これらの状況全体を見渡しているかのような扉の向こうの男の視線である。
彼は、画家も侍女たちも、モデルである国王夫妻も、そして進行中の絵画をも見渡す地点にいる。
しかしそんな彼も、国王夫妻や私たちからは観られる存在である。
ただし私たちや国王夫妻は、その巨大なカンバスに描かれつつあるものを観ることは出来ない。
私が読んだフーコーの文章は、1965年に独立した一文として発表されたものだが、後にその著『言葉と物』の第一章として編入されている。そしてこれを、「古典主義時代の思想における表象の概念の模範例、表象を基礎づけているものの消滅、〈同一者〉である主体そのものの省略」などとしてる。
「王の不在」は、「神の後退」を表すものであろうとか、主客が宙吊りにされたままの脱中心化は近代の到来を予告するものであろうといった読み方も出来るようである。
上記の私のそれは、そうしたフーコーの提起に触発されながらも、絵画そのものに接しつつ、私が勝手に繰り広げた感想にすぎない。