これまで、風俗習慣としての山のお葬式や、全体の風景、そして山の民などを紹介してきましたが、いよいよ私たち日本人にとってはいささか耳の痛い話をしなければなりません。
その確認こそ、今回の旅の私なりの目的のひとつだったのですから。
それはすぐる日本と中国との戦争の話です。
今回の旅そのものが、現地に住みついて当時を知る老人たちからの聞き語りをしてきたNさんの業績が認められ、歴史的資料として「東京大学東洋文化研究所」から刊行されたのを機会に、その書(中国語)を取材に応じてくれた人たちに配布して歩くのに同行するというものでした。
日本軍が撃った銃弾の跡
配布するといっても、隣近所にささっと配るわけではありません。
一軒一軒がそれぞれ離れた集落にあり、途中までは車で行けても道路が崩落していてそこから先は険しい道を徒歩で辿るような行程です。
おそらく距離にして半径何十キロ単位に及ぶものと思われます。
それだけ、Nさんの取材対象が広範にわたり大変だったことが偲ばれます。
事実、そこまで行ったけれどもう引っ越していなかったり(数年間にわたる調査ですから亡くなっていらっしゃる人もかなりいます)、アポを取るという習慣のないこの地では、せっかく行っても不在だったりした場合もありました。
この山から谷越しに撃ったのだという
それから、特筆すべきは、それらの人々はほとんど文字が読めないということです。山の民の写真で紹介した元教員だった人などを除いては、一定の年齢以上の人たちは無文字社会に暮らしてきたのです。
それだけに記憶力は微に入り細に入り優れています。どこかへメモをしておくことなどできないのですから、ひたすら記憶する以外ないわけです。
そんな訳で読めはしないのですが、その本に自分の写真が載っているだけで感激してくれるのです。
こちらの人々は、写真に撮られることが好きです。
当初、Nさんに、「写真を撮ってもいいですか?」というのはどう言えばいいのかと尋ねたのですが、「そんなものまったくいらない。写真機をもっているだけで向こうから寄ってくる」とのことでしたが事実そうでした。ただし、年配者はカメラを向けるとすぐ「気をつけ」の姿勢をしてしまいます。
いろいろな人のいろいろな証言があるのですがその内から私自身が直接見聞したことのみを書きましょう。
出発する前に、ここは日本軍による三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ。殺し尽くせ)が展開された地であると書いたのですが、それ自身が中国側のフィクションであるというコメントがありました。
しかし戦闘はあったのです。
なぜこんな山地にまで日本軍が大挙して押し寄せたかというと、黄河を挟んだ隣の陜西省の延安に毛沢東の八路軍の根拠地があり、この地域には民兵というゲリラもいたからです。
ですから、こんなのどかな山村が八路軍相手の戦争では前線に近かったのです。
村人273人がいぶり殺されたヤオトンの前で説明を聞く
日本軍はそれまでも賀家湾村へ現れ、家畜を食料として奪うなどしていたのですが、もっとも大きな悲劇は1943年12月19日から20日にかけて起きました。
19日、民兵の何人かが日本軍に手榴弾で抵抗し、村人が隠れていた元小学校のヤオトンから続く洞窟へと逃げ込んだのです。
別の説明によれば、中国人(二人)が日本軍を手引きし、そこへ案内したともいわれています。
そこには合計273人の村人が息を殺して潜んでいました。
ヤオトンの奥にはさらに洞窟が続きそこに村人たちが隠れていた
日本軍は出てくるよう命じましたが、出れば撃たれるので誰も出ませんでした。
そこで日本軍はヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもあります)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてあります)を乗せて火を放ったのです。
20日、日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのですが、結果として273名全員が燻し殺されていました。
その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったといいます。
この人の父が9歳の時とのことでうまく説明できず年長者に代わる
このヤオトンの周りに集まった私たちに、村の人たちがこもごも説明してくれるのですが、あんなに柔和だった山の民も、さすがにこの時ばかりは毅然として、「私の親族は何人殺された」「私の家は〇人殺された」と口々に訴えるのです。
別のところでは、その折、ここに入ったもののまだ赤ん坊だったので、泣くと日本軍に見つかるからとそこから出されて助かったという人の兄弟に会いました。
私たち日本人はただただ言葉を失ってそれらを聞いていたのですが、やがて、全員で一分間の黙祷を捧げることにしました。黙って瞑目していると、正面のヤオトンの中から当時の村人たちの阿鼻叫喚が聞こえてくるようで、何かがジンジンと体の中を巡る思いがしました。
周りの山の民の表情が心なしか和らいだように思いましたが、私たちは重い足取りのままそこを去りました。
今は入口部分は豆殻などの貯蔵に使われている
戦争についての話はNさんの聞き取りによる優れたレポートがすでにあるので、あえて聞き出さなかったのですが、訪問する先々で断片的にそれを耳にしました。
しかし、山の人たちは当時の日本軍と私たちとをほぼ完全に分離させて迎えてくれているようで、こちらが一方的に悲しい思いをしたことはありましたが、彼らから直接の非難など不快な思いをさせられたことは一度もありませんでした。
こんな素朴な人たちがそんな悲惨に直面しなければならなかったなどとは信じがたいのですが、一方、加害者としての日本の兵士たちも日本では農山村の素朴な民であった可能性が十分にあるのです。
かくいう私の父も、同じ大陸の満州に派兵されていましたから、ひとつ間違ってこちらに派遣されていたらその残虐行為に加わっていたかも知れないのです。
日本なら記念碑の一本も建つのにと思いながら重い足取りて立ち去った
前にも書きましたが、私は敗戦時、国民学校の一年生でしたから、前線でどんなことが行われていたかも知る由もなく、大きくなったら兵隊さんになって敵をやっつけるのだと素朴に覚悟を決めていた軍国少年でした。
その頃、私と同じ年頃の少年や幼児があのヤオトンのなかでいぶし殺されていたのでした。
この話には結論も落ちもありません。
人間の世界では、そんなことが起こりうるということです。
これから先の可能性も含めてです。
そしてそこからが人間の智恵の働かせどころだとだけいっておきましょう。
その確認こそ、今回の旅の私なりの目的のひとつだったのですから。
それはすぐる日本と中国との戦争の話です。
今回の旅そのものが、現地に住みついて当時を知る老人たちからの聞き語りをしてきたNさんの業績が認められ、歴史的資料として「東京大学東洋文化研究所」から刊行されたのを機会に、その書(中国語)を取材に応じてくれた人たちに配布して歩くのに同行するというものでした。
日本軍が撃った銃弾の跡
配布するといっても、隣近所にささっと配るわけではありません。
一軒一軒がそれぞれ離れた集落にあり、途中までは車で行けても道路が崩落していてそこから先は険しい道を徒歩で辿るような行程です。
おそらく距離にして半径何十キロ単位に及ぶものと思われます。
それだけ、Nさんの取材対象が広範にわたり大変だったことが偲ばれます。
事実、そこまで行ったけれどもう引っ越していなかったり(数年間にわたる調査ですから亡くなっていらっしゃる人もかなりいます)、アポを取るという習慣のないこの地では、せっかく行っても不在だったりした場合もありました。
この山から谷越しに撃ったのだという
それから、特筆すべきは、それらの人々はほとんど文字が読めないということです。山の民の写真で紹介した元教員だった人などを除いては、一定の年齢以上の人たちは無文字社会に暮らしてきたのです。
それだけに記憶力は微に入り細に入り優れています。どこかへメモをしておくことなどできないのですから、ひたすら記憶する以外ないわけです。
そんな訳で読めはしないのですが、その本に自分の写真が載っているだけで感激してくれるのです。
こちらの人々は、写真に撮られることが好きです。
当初、Nさんに、「写真を撮ってもいいですか?」というのはどう言えばいいのかと尋ねたのですが、「そんなものまったくいらない。写真機をもっているだけで向こうから寄ってくる」とのことでしたが事実そうでした。ただし、年配者はカメラを向けるとすぐ「気をつけ」の姿勢をしてしまいます。
いろいろな人のいろいろな証言があるのですがその内から私自身が直接見聞したことのみを書きましょう。
出発する前に、ここは日本軍による三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ。殺し尽くせ)が展開された地であると書いたのですが、それ自身が中国側のフィクションであるというコメントがありました。
しかし戦闘はあったのです。
なぜこんな山地にまで日本軍が大挙して押し寄せたかというと、黄河を挟んだ隣の陜西省の延安に毛沢東の八路軍の根拠地があり、この地域には民兵というゲリラもいたからです。
ですから、こんなのどかな山村が八路軍相手の戦争では前線に近かったのです。
村人273人がいぶり殺されたヤオトンの前で説明を聞く
日本軍はそれまでも賀家湾村へ現れ、家畜を食料として奪うなどしていたのですが、もっとも大きな悲劇は1943年12月19日から20日にかけて起きました。
19日、民兵の何人かが日本軍に手榴弾で抵抗し、村人が隠れていた元小学校のヤオトンから続く洞窟へと逃げ込んだのです。
別の説明によれば、中国人(二人)が日本軍を手引きし、そこへ案内したともいわれています。
そこには合計273人の村人が息を殺して潜んでいました。
ヤオトンの奥にはさらに洞窟が続きそこに村人たちが隠れていた
日本軍は出てくるよう命じましたが、出れば撃たれるので誰も出ませんでした。
そこで日本軍はヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもあります)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてあります)を乗せて火を放ったのです。
20日、日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのですが、結果として273名全員が燻し殺されていました。
その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったといいます。
この人の父が9歳の時とのことでうまく説明できず年長者に代わる
このヤオトンの周りに集まった私たちに、村の人たちがこもごも説明してくれるのですが、あんなに柔和だった山の民も、さすがにこの時ばかりは毅然として、「私の親族は何人殺された」「私の家は〇人殺された」と口々に訴えるのです。
別のところでは、その折、ここに入ったもののまだ赤ん坊だったので、泣くと日本軍に見つかるからとそこから出されて助かったという人の兄弟に会いました。
私たち日本人はただただ言葉を失ってそれらを聞いていたのですが、やがて、全員で一分間の黙祷を捧げることにしました。黙って瞑目していると、正面のヤオトンの中から当時の村人たちの阿鼻叫喚が聞こえてくるようで、何かがジンジンと体の中を巡る思いがしました。
周りの山の民の表情が心なしか和らいだように思いましたが、私たちは重い足取りのままそこを去りました。
今は入口部分は豆殻などの貯蔵に使われている
戦争についての話はNさんの聞き取りによる優れたレポートがすでにあるので、あえて聞き出さなかったのですが、訪問する先々で断片的にそれを耳にしました。
しかし、山の人たちは当時の日本軍と私たちとをほぼ完全に分離させて迎えてくれているようで、こちらが一方的に悲しい思いをしたことはありましたが、彼らから直接の非難など不快な思いをさせられたことは一度もありませんでした。
こんな素朴な人たちがそんな悲惨に直面しなければならなかったなどとは信じがたいのですが、一方、加害者としての日本の兵士たちも日本では農山村の素朴な民であった可能性が十分にあるのです。
かくいう私の父も、同じ大陸の満州に派兵されていましたから、ひとつ間違ってこちらに派遣されていたらその残虐行為に加わっていたかも知れないのです。
日本なら記念碑の一本も建つのにと思いながら重い足取りて立ち去った
前にも書きましたが、私は敗戦時、国民学校の一年生でしたから、前線でどんなことが行われていたかも知る由もなく、大きくなったら兵隊さんになって敵をやっつけるのだと素朴に覚悟を決めていた軍国少年でした。
その頃、私と同じ年頃の少年や幼児があのヤオトンのなかでいぶし殺されていたのでした。
この話には結論も落ちもありません。
人間の世界では、そんなことが起こりうるということです。
これから先の可能性も含めてです。
そしてそこからが人間の智恵の働かせどころだとだけいっておきましょう。
ところで、1箇所だけ訂正お願いします。
「東洋文庫」ではなく、「東京大学 東洋文化研究所」から刊行されたもので、500部が印刷され、日本と世界の大学と図書館に寄贈されたものです。欲しがる人がたくさんいるのですが、被取材者優先で、重版はないので、けっこう貴重な本ですよ。