共同体には当然、その成員に対する包摂と排除の論理が伴うわけですが、その包摂が次第に狭き門となり、排除の側面が強化されつつあるように思います。
それがやっかいなのは、自由や平等の決まり文句のもとで、というかそれに比例して排除が横行していることです。
表面的な寛容が、実は冷徹きわまりない不寛容の論理を内包しているという恐ろしさです。
それらは、いわゆる一神教的な世界観と無縁ではないのですが、キリスト教におけるその信仰は、時代々々によって神は様々な価値観や地域性と結合し、ある種残酷な面と、隣人への愛という寛容さを併存させていたように思います。
それらが不寛容へとシフトを変える要因は、産業資本の隆盛とそれの裏打ちとしての近代合理主義が契機であろうと思います。
そのくだりの分析は、マックス・ウェーバーの指摘でもって嚆矢とすべきでしょう。
隣人への愛は、価値の増殖という「神聖な義務」を妨げない限りにおいてという限定を付されることとなります。
名古屋栄・オアシス21の七夕飾り(その1)
ところで、我が国では、もともと、厳密には一神教の歴史はありませんでした。それだけに、明治以降の近代化への怒涛をうった流れは、キリスト教にあった原始共同体へのノスタルジーなどは一足飛びに捨象し、いっそうドラスティックに進行したといえます。
その過程で、もっとも古い権威である天皇制を、キリスト教的な一神教のパロディとして援用し、統一と強制、排除の論理を築き上げたといえます。
にもかかわらず、我が国には、きわめて緩やかな汎神論ともいえないような共同体における許容と寛容の歴史がありました。
それらは、明治、大正、昭和と続く近代合理主義(その裏打ちに利用されたもっとも不合理な天皇制という化け物)にもかかわらず、昭和20年代の後半まで(戦後10年ぐらいまで)生き延びていたように思うのです。
名古屋栄・オアシス21の七夕飾り(その2)
私は、幼年期、少年期を農村で過ごしましたが、そこには、いわゆる精神を病んだ人、ないしは知恵遅れの人たちが一に一人や二人はいて、隔離されることもなく、その村落共同体の中で暮らしていました。
私のには「トッサン」と呼ばれる人がいて、どういう訳かいつも女物の長襦袢を着て、いろいろな光り物を身につけていました。
学校の帰りなど、彼にであうと私たち悪ガキは、
「脳病院のトッサン、足振れ、手振れ、チン○振ってホイホイ」
と、囃し立てるのでした。
そうするとトッサンは、楽しそうにその囃子言葉と一緒に踊るのでした。
愛知芸術文化センターへの地下通路
右の女性は同じ会に出席したKさん
写真を撮ったときには気づかなかった
もちろんトッサンは、子供たちの間で差別的に語られることはありましたが、決して排除されたり、いじめの対象であったのではなく、むしろ人気者でした。
の人たちも、農繁期などさして役にも立たないトッサンを、「明日はうちの田圃へおいで」と誘い、簡単な作業をさせて帰りには食べ物などを与えていたようです。
私の祖母も、ある日、古びた毛布を持って出かけるので、「どこへ行くのん」と訊くと、「そろそろ寒くなったんで、おたわけさん(=トッサン)のとこへこれを持って行ってやろうと思って」とのことで、私もついて行きました。
掘っ立小屋のようなところに住んでいたトッサンは、祖母からそれを受け取ると、「ア、ウ、ア」と言葉にもならぬ応答をしていたのですが、それが祖母への感謝を満面に表すものであったことは子供ながらによく覚えています。
こうした共同体における排除よりも包摂が勝る状況は、昭和30年代の高度成長へのスタートとともに、完全に崩壊するところとなります。
価値の増殖を至上命題にする世界では、彼らは余計ものであり、排除され、管理される対象でしかなくなりました。
家族や共同体も、それらを包摂する余裕を失いました。
都会の中のジャングル 愛知県芸術文化センター
12階から見た中庭の樹木
しかし、その後何年間かは、そうして排除してきた者たちへのなにがしか後ろめたい気分もあり、それへのセーフティ・ネットやより寛容な(といっても管理の論理内ですが)受け入れへの模索もありました。
それらがほぼ完璧についえさったのが、「勝ち組・負け組」の論理であり、「自己責任」の論理でしょう。
これらの論理は、現行の共同体が必ず一定の割合で「負け組」を生み出すことによって成立しているという冷徹な論理を隠蔽し、だれもが努力さえすれば「勝ち組」になれるという幻想を振りまき、負け組を自己責任として断罪します。
ここにはもはや、自分が勝ち組であることの後ろめたさはみじんもありません。
ついでながら、かつて、日本の文学を支えたのは、そうした生まれながらにして勝ち組である後ろめたさであるといっても過言ではありません。
有島武郎、太宰治、火野葦平、石坂洋次郎、あるいは、宮本百合子や中野重治もこの系列に属するかも知れません。
「Mの会」でいただいたおやつの佐藤錦
こうした共同体の排除の論理は、ある種のセンシティヴなひとにとっては、あるいはその排除の論理を乗り越えるいとまを持たないひとにとっては、決定的な壁として作用するであろうと思います。
最初に述べたように、共同体は包摂と排除の論理を持って成立しています。それが多様性や差異性を失って一元化された結果としての病理、それが今日ではないでしょうか。
一見、病理に犯されたような人々を生み出す共同体は、それ自身もっとも深く病んでいるといえるのではないでしょうか。
それがやっかいなのは、自由や平等の決まり文句のもとで、というかそれに比例して排除が横行していることです。
表面的な寛容が、実は冷徹きわまりない不寛容の論理を内包しているという恐ろしさです。
それらは、いわゆる一神教的な世界観と無縁ではないのですが、キリスト教におけるその信仰は、時代々々によって神は様々な価値観や地域性と結合し、ある種残酷な面と、隣人への愛という寛容さを併存させていたように思います。
それらが不寛容へとシフトを変える要因は、産業資本の隆盛とそれの裏打ちとしての近代合理主義が契機であろうと思います。
そのくだりの分析は、マックス・ウェーバーの指摘でもって嚆矢とすべきでしょう。
隣人への愛は、価値の増殖という「神聖な義務」を妨げない限りにおいてという限定を付されることとなります。
名古屋栄・オアシス21の七夕飾り(その1)
ところで、我が国では、もともと、厳密には一神教の歴史はありませんでした。それだけに、明治以降の近代化への怒涛をうった流れは、キリスト教にあった原始共同体へのノスタルジーなどは一足飛びに捨象し、いっそうドラスティックに進行したといえます。
その過程で、もっとも古い権威である天皇制を、キリスト教的な一神教のパロディとして援用し、統一と強制、排除の論理を築き上げたといえます。
にもかかわらず、我が国には、きわめて緩やかな汎神論ともいえないような共同体における許容と寛容の歴史がありました。
それらは、明治、大正、昭和と続く近代合理主義(その裏打ちに利用されたもっとも不合理な天皇制という化け物)にもかかわらず、昭和20年代の後半まで(戦後10年ぐらいまで)生き延びていたように思うのです。
名古屋栄・オアシス21の七夕飾り(その2)
私は、幼年期、少年期を農村で過ごしましたが、そこには、いわゆる精神を病んだ人、ないしは知恵遅れの人たちが一に一人や二人はいて、隔離されることもなく、その村落共同体の中で暮らしていました。
私のには「トッサン」と呼ばれる人がいて、どういう訳かいつも女物の長襦袢を着て、いろいろな光り物を身につけていました。
学校の帰りなど、彼にであうと私たち悪ガキは、
「脳病院のトッサン、足振れ、手振れ、チン○振ってホイホイ」
と、囃し立てるのでした。
そうするとトッサンは、楽しそうにその囃子言葉と一緒に踊るのでした。
愛知芸術文化センターへの地下通路
右の女性は同じ会に出席したKさん
写真を撮ったときには気づかなかった
もちろんトッサンは、子供たちの間で差別的に語られることはありましたが、決して排除されたり、いじめの対象であったのではなく、むしろ人気者でした。
の人たちも、農繁期などさして役にも立たないトッサンを、「明日はうちの田圃へおいで」と誘い、簡単な作業をさせて帰りには食べ物などを与えていたようです。
私の祖母も、ある日、古びた毛布を持って出かけるので、「どこへ行くのん」と訊くと、「そろそろ寒くなったんで、おたわけさん(=トッサン)のとこへこれを持って行ってやろうと思って」とのことで、私もついて行きました。
掘っ立小屋のようなところに住んでいたトッサンは、祖母からそれを受け取ると、「ア、ウ、ア」と言葉にもならぬ応答をしていたのですが、それが祖母への感謝を満面に表すものであったことは子供ながらによく覚えています。
こうした共同体における排除よりも包摂が勝る状況は、昭和30年代の高度成長へのスタートとともに、完全に崩壊するところとなります。
価値の増殖を至上命題にする世界では、彼らは余計ものであり、排除され、管理される対象でしかなくなりました。
家族や共同体も、それらを包摂する余裕を失いました。
都会の中のジャングル 愛知県芸術文化センター
12階から見た中庭の樹木
しかし、その後何年間かは、そうして排除してきた者たちへのなにがしか後ろめたい気分もあり、それへのセーフティ・ネットやより寛容な(といっても管理の論理内ですが)受け入れへの模索もありました。
それらがほぼ完璧についえさったのが、「勝ち組・負け組」の論理であり、「自己責任」の論理でしょう。
これらの論理は、現行の共同体が必ず一定の割合で「負け組」を生み出すことによって成立しているという冷徹な論理を隠蔽し、だれもが努力さえすれば「勝ち組」になれるという幻想を振りまき、負け組を自己責任として断罪します。
ここにはもはや、自分が勝ち組であることの後ろめたさはみじんもありません。
ついでながら、かつて、日本の文学を支えたのは、そうした生まれながらにして勝ち組である後ろめたさであるといっても過言ではありません。
有島武郎、太宰治、火野葦平、石坂洋次郎、あるいは、宮本百合子や中野重治もこの系列に属するかも知れません。
「Mの会」でいただいたおやつの佐藤錦
こうした共同体の排除の論理は、ある種のセンシティヴなひとにとっては、あるいはその排除の論理を乗り越えるいとまを持たないひとにとっては、決定的な壁として作用するであろうと思います。
最初に述べたように、共同体は包摂と排除の論理を持って成立しています。それが多様性や差異性を失って一元化された結果としての病理、それが今日ではないでしょうか。
一見、病理に犯されたような人々を生み出す共同体は、それ自身もっとも深く病んでいるといえるのではないでしょうか。
わたしの田舎の土地がダムにかかり整理したのは10数年前のこと。その時、知らない人が土地の一角に住んでいました。おばたちは彼を「あれ、作男の○○さんぢゃ」「まだ生きておったんぢゃねえ」と驚いていました。わたしは作男という歴史的な存在が現実にいたことに驚きました。そして彼も応分の財産分与を受けて、きっとまだそこで生活していることと思います。
近郊の農村にはまだ、まれに掛かり人と呼ばれる人がいます。何らかの障害によって家族の世話になっている大人です。仕事で訪問するとそんな人が障子の隙間からこちらを興味深げに窺っています。家族や地域がこうした人を包摂していた名残でしょう。今なら施設へ入られると思われます。
この半世紀、私たちにとっての「排除」とは、「全員一致」「いじめ」「違法駐車」につながるなんとも品のない次元での「排除」でした。
話し突然変りますが、つややかな佐藤錦を見て思ったのは、どなたの差し入れだったのか、ということでして、このことかっての共同体では、どう対応したのか?とそんなこと今、考えてしまいました。
今は、目の前で転んだ子どもにさえ、知らぬ顔をして通り過ぎる人が多くなりました。子どもも、下手に声をかけると、おびえたようにして、走って逃げます。哀しい世の中です。さんこなど、石をぶつけられて、苛められるだろうと思います。
どうでもいいけれど、佐藤錦は熟れすぎて、手伝ってもらわないと、さくらんぼに申し訳ないから、
ともっていったまでのことです。ちゃんちゃん。
嬉しく思っておりますです。ホントは、少しトウが立っていましたのに。有難うございますです。