この時期、うかつに草むらへ踏み込むとこんな結果になります。
昨日、自民党が大勝している頃に撮った写真です。
このくっつき虫は、ヌスビトハギの実。
おそらく最後から二番目の木漏れ日に光る小さな紅葉を撮りに草むらに踏み込んだ時のものでしょう。
帰宅すするまで全く気づかず、泣きながらとりました。
情けないことがいろいろ続きます。
私自身の自業自得なのだろうとも思います。たぶん。
昨日の日記に「幸福シンドローム」という私の造語をご披露しましたが、そうした即物的な「幸福シンドローム」が、「無用の用」を単なる無駄としていとも簡単に切り捨て、その後に不毛な「消費ゴッコ」がはびこっているようです。
今回のご政道むきに関するイヴェントでも、そうした矮小化された欲望が赴くところを示唆しているように思います。
私は、「ことば」の力について真剣に考えている人たちに寄り添いながら、現実になびくことなく、思考や表現の場で、何がなしうるかを考えてゆきたいと思っています。
昨日、自民党が大勝している頃に撮った写真です。
このくっつき虫は、ヌスビトハギの実。
おそらく最後から二番目の木漏れ日に光る小さな紅葉を撮りに草むらに踏み込んだ時のものでしょう。
帰宅すするまで全く気づかず、泣きながらとりました。
情けないことがいろいろ続きます。
私自身の自業自得なのだろうとも思います。たぶん。
昨日の日記に「幸福シンドローム」という私の造語をご披露しましたが、そうした即物的な「幸福シンドローム」が、「無用の用」を単なる無駄としていとも簡単に切り捨て、その後に不毛な「消費ゴッコ」がはびこっているようです。
今回のご政道むきに関するイヴェントでも、そうした矮小化された欲望が赴くところを示唆しているように思います。
私は、「ことば」の力について真剣に考えている人たちに寄り添いながら、現実になびくことなく、思考や表現の場で、何がなしうるかを考えてゆきたいと思っています。
「ことばの力」を無反省には語れないでしょうね。
権力やメディアは常にこの力を恣意的に利用しようとします。
しかし、それに抗うのも言葉ではないかと思います。寂聴さんのそれのように。
>杳子さん
ご引用のように、言葉にはある特定の「共同性」=自己同一性から、他者をも含んだより普遍的な共同性へと昇華してゆく力があると思います。
そのためには私達は常に他者の言葉と触れ合っていなければならないと思います。
昔々、こんな文章を目にしました。
「知」つまり「言葉」の世界に生きることは、大なり小なりひとを自分が属する「共同性」から引き離し、より大きな「共同性」に属するようにさせます。そしてその道すじを引き伸ばせば、必ず最後の共同性、つまり「世界」とか「人間」という「普遍性」につき当ります。「言葉」の世界を信じることは、この「普遍性」を信じることとふたつのことではありません。
私は昔々、この文章に深く首肯し、いまもやはり信じています。
と、いうのは文科省。
これに呼応して「言葉は感情的で残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている言葉のチカラを」という宣言は『朝日新聞社』。
しかし、なんだかとてもハズカシイ気がするのはどうしてでしょう。
それはともかく、なんとなく「ちからのある言葉」を寂聴さんから聞きました。
トンデモナイことになったこの国のことを聞かれた寂聴さん、憤然と
“このままでは死ぬに死ねない”
また原発危機に対しての感想を聞かれて
“〈あの世〉はあるかはわからないが〈この世の終り〉はあると思えて仕方ありません”
ちからを感じるのは、僧侶にあるまじき〈ことば〉だからなのでしょう。