4日日曜日、同人誌などでご一緒した先達の一周忌を受けて、それを偲ぶイベント、「反骨の編集者稲垣喜代志の眼差し」展へでかけた。会場は「文化のみち二葉館」(名古屋市東区 日本初の女優といわれる川上貞奴と、 電力王と称された福沢桃介が大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元した洋館)で、この日は、その展示会の特別企画のトークイベント「出版人・稲垣喜代志の”志”」が行われた。
稲垣さんは、1963年、それまで勤めていた「日本読書新聞」を退職し、名古屋の地に「風媒社」という出版社を起こし、文芸出版、評論、ルポルタージュ、などなどの良書を半世紀以上にわたって世に送り出してきた。
とりわけ、公害問題やハンセン病問題、原発問題などについては、それらが一般に問題視される前に、率先して取り上げ、警鐘を鳴らし続けてきた。
なかでも、原発問題については、フクシマ原発事故に先立つ16年前の1995年に『原発事故…その時、あなたは!』を世に問い、「もし日本の原発で重大事故が起きたらどうなるか?近隣住民の被爆による死者数、大都市への放射能の影響」などをシュミレートし、「原発安全神話」を真っ向から切り崩す衝撃的な書を出した。
そのあまりにも的確な予言に、実際の事故が起こったあと、初版後十数年を経過した書が版を重ねるという珍しい現象を引き起こした。
風媒社の概要や出版物については、以下を参照されたい。
http://www.fubaisha.com/index.html
私との関係についてはほぼ40年ほどになるが、最初は私がやっていた居酒屋の客として、それから、いろいろ話をしたり情報を交わす仲になり、さらに10年ほど前からは同じ同人誌の先達として、毎月一回以上会う間柄だった。
トークイベントのパネリストは、風媒社の初期の頃の社員でいまは独立した事業をなさっている方お二人と、私の友人の作家、山下智恵子さんとの三人(司会は劉編集長)で、それぞれが、私が知らない側面での稲垣さん像を語るなど、いまは亡き先達をいま一度彷彿とさせるものであった。
稲垣さんの遺品 ステッキやメガネ、腕時計などどれもいつも見ていたものだ
この催しに参加したあと、いま一人出会ったのは、これもいまは亡き映画監督の若松孝二氏で、出会ったのはいまも存続する若松プロダクションの映画、『止められるか、俺たちを』(監督:白石和彌)という作品の中でのことである。
若松監督が名古屋に開設した映画館、シネマスコーレにおいてであった。
映画は、1969年から71年の三年間の若松プロダクションに集う人々、その周辺の人々を描いている。そのストーリーとしては、若松孝二の助監督となった吉積めぐみ(演じるのは門脇麦)を巡るものだが、その状況の中心にはいつも若松孝二(演じるのは井浦新)がいる。
その意味ではこの映画は、若くして世を去った吉積めぐみへのメモリーズであるとともに、いまは亡き若松孝二へのオマージュでもある。
そこには映画作りに情熱を燃やすハチャメチャなエネルギーが存在した。
なんとしてでもなにかを生み出し、フィルムに焼き付けようとする情熱。
そのためには、既存のものを超え、あえて常軌を逸することを目指す、そんな映画製作者たちの姿が、これでもかこれでもかと展開される。
さて、私と若松監督の関係だが、35年前、自分の上映館、シネマスコーレを名古屋にもった監督は名古屋を頻繁に訪れ、若い映画人たちとの交流を持つに至った。そんな折などに、やはり私が営んでいた居酒屋に来ていただいたのが最初だった。その後、しばしば大勢の若者たちを引き連れて来店の折には、常にその中央には若松監督がいた。
時折、少人数や一人での来店の際には、カウンター越しにいろいろ話を交わすことができた。私の店の若い常連の映画好き(年間200本の映画を観ていた)が、縁あって監督の類縁に繋がることになったこともあり、その来店も何度かにわたった(その類縁関係は不幸な結果になるのだがそれはこの際、言わないでおく)。
監督が客として私の店を訪れた頃には、上記の映画で見たようなむき出しの荒々しい情熱は影を潜め、むしろ若い人たちに囲まれて好々爺然とした笑顔を見せることもあった。むろん情熱を失ったわけではなく、それらは静かに作品の中に沈殿していったようだ。
こうしてこの日、私は逝ってしまった二人の先達に再会したのであった。
そのひとり、出版人として反骨を貫いた稲垣さんとは、その人となりが語られたトークイベントの中で、もうひとりの、映画というキャンバスに溢れる思いをつねに叩きつけてきた若松監督とは、その後衛たちが作り上げた映画の中で。
二人に共通するもの、それは閉塞した状況に圧倒されることなく、マジョリティのもつ抑圧的な価値観にマイノリティの立場から抗い続けることでなにかを生み出し続けるという反骨の精神、そしてそれを新たな創造へのバネとしたチャレンジ活動を手放さなかったことだろう。
時代の閉塞感は、こんにち、一層募ってると思うのだが、現今の大勢をみるや、それに順応することが「うまく生きること」であるとする向きが多い。そしてそのことが、閉塞の重みをますます増加させ、さらにそれに順応するという悪しきスパイラルが自らの牢獄の壁をますます厚くしているかにみえる。
「時代はもう、稲垣さんや若松監督のものではないんだよ」とささやく声が聞こえる。「彼らを、《かつて》の記念碑として安らかに葬ることが必要なのだ」とその声は続く。
しかし、彼らが目指した世界の流動性のようなものを失った世の中は、流れを失った水が腐敗するように、次第次第に「生きた人間」を窒息死させてゆくことになるだろう。
そうした状況に警鐘を鳴らし続けてき彼ら二人の声に、いま一度、耳を傾けてもいいのではないか。彼らの背中をみて生きてきた私は、能う限りそのように生きたいと改めて思った。
稲垣さんは、1963年、それまで勤めていた「日本読書新聞」を退職し、名古屋の地に「風媒社」という出版社を起こし、文芸出版、評論、ルポルタージュ、などなどの良書を半世紀以上にわたって世に送り出してきた。
とりわけ、公害問題やハンセン病問題、原発問題などについては、それらが一般に問題視される前に、率先して取り上げ、警鐘を鳴らし続けてきた。
なかでも、原発問題については、フクシマ原発事故に先立つ16年前の1995年に『原発事故…その時、あなたは!』を世に問い、「もし日本の原発で重大事故が起きたらどうなるか?近隣住民の被爆による死者数、大都市への放射能の影響」などをシュミレートし、「原発安全神話」を真っ向から切り崩す衝撃的な書を出した。
そのあまりにも的確な予言に、実際の事故が起こったあと、初版後十数年を経過した書が版を重ねるという珍しい現象を引き起こした。
風媒社の概要や出版物については、以下を参照されたい。
http://www.fubaisha.com/index.html
私との関係についてはほぼ40年ほどになるが、最初は私がやっていた居酒屋の客として、それから、いろいろ話をしたり情報を交わす仲になり、さらに10年ほど前からは同じ同人誌の先達として、毎月一回以上会う間柄だった。
トークイベントのパネリストは、風媒社の初期の頃の社員でいまは独立した事業をなさっている方お二人と、私の友人の作家、山下智恵子さんとの三人(司会は劉編集長)で、それぞれが、私が知らない側面での稲垣さん像を語るなど、いまは亡き先達をいま一度彷彿とさせるものであった。
稲垣さんの遺品 ステッキやメガネ、腕時計などどれもいつも見ていたものだ
この催しに参加したあと、いま一人出会ったのは、これもいまは亡き映画監督の若松孝二氏で、出会ったのはいまも存続する若松プロダクションの映画、『止められるか、俺たちを』(監督:白石和彌)という作品の中でのことである。
若松監督が名古屋に開設した映画館、シネマスコーレにおいてであった。
映画は、1969年から71年の三年間の若松プロダクションに集う人々、その周辺の人々を描いている。そのストーリーとしては、若松孝二の助監督となった吉積めぐみ(演じるのは門脇麦)を巡るものだが、その状況の中心にはいつも若松孝二(演じるのは井浦新)がいる。
その意味ではこの映画は、若くして世を去った吉積めぐみへのメモリーズであるとともに、いまは亡き若松孝二へのオマージュでもある。
そこには映画作りに情熱を燃やすハチャメチャなエネルギーが存在した。
なんとしてでもなにかを生み出し、フィルムに焼き付けようとする情熱。
そのためには、既存のものを超え、あえて常軌を逸することを目指す、そんな映画製作者たちの姿が、これでもかこれでもかと展開される。
さて、私と若松監督の関係だが、35年前、自分の上映館、シネマスコーレを名古屋にもった監督は名古屋を頻繁に訪れ、若い映画人たちとの交流を持つに至った。そんな折などに、やはり私が営んでいた居酒屋に来ていただいたのが最初だった。その後、しばしば大勢の若者たちを引き連れて来店の折には、常にその中央には若松監督がいた。
時折、少人数や一人での来店の際には、カウンター越しにいろいろ話を交わすことができた。私の店の若い常連の映画好き(年間200本の映画を観ていた)が、縁あって監督の類縁に繋がることになったこともあり、その来店も何度かにわたった(その類縁関係は不幸な結果になるのだがそれはこの際、言わないでおく)。
監督が客として私の店を訪れた頃には、上記の映画で見たようなむき出しの荒々しい情熱は影を潜め、むしろ若い人たちに囲まれて好々爺然とした笑顔を見せることもあった。むろん情熱を失ったわけではなく、それらは静かに作品の中に沈殿していったようだ。
こうしてこの日、私は逝ってしまった二人の先達に再会したのであった。
そのひとり、出版人として反骨を貫いた稲垣さんとは、その人となりが語られたトークイベントの中で、もうひとりの、映画というキャンバスに溢れる思いをつねに叩きつけてきた若松監督とは、その後衛たちが作り上げた映画の中で。
二人に共通するもの、それは閉塞した状況に圧倒されることなく、マジョリティのもつ抑圧的な価値観にマイノリティの立場から抗い続けることでなにかを生み出し続けるという反骨の精神、そしてそれを新たな創造へのバネとしたチャレンジ活動を手放さなかったことだろう。
時代の閉塞感は、こんにち、一層募ってると思うのだが、現今の大勢をみるや、それに順応することが「うまく生きること」であるとする向きが多い。そしてそのことが、閉塞の重みをますます増加させ、さらにそれに順応するという悪しきスパイラルが自らの牢獄の壁をますます厚くしているかにみえる。
「時代はもう、稲垣さんや若松監督のものではないんだよ」とささやく声が聞こえる。「彼らを、《かつて》の記念碑として安らかに葬ることが必要なのだ」とその声は続く。
しかし、彼らが目指した世界の流動性のようなものを失った世の中は、流れを失った水が腐敗するように、次第次第に「生きた人間」を窒息死させてゆくことになるだろう。
そうした状況に警鐘を鳴らし続けてき彼ら二人の声に、いま一度、耳を傾けてもいいのではないか。彼らの背中をみて生きてきた私は、能う限りそのように生きたいと改めて思った。
ここでは本当にお久し振りですね。
カンボジアでのいろんな準備は進んでいますか。
上に書いたお二人、おっしゃるように最後まで節を曲げなかった人だと思います。
私も、もう歳が歳だから、のんびりやさしく生きようかなと思うこともありますが、このお二人のような先達たちの背中を見てきただけに、頭が働くうちはその背中を見失うことなく、ついて行きたいと思います。
今は、フン・セン独裁政権のもととはいえ、のんびり自由に暮らしています。この国は、外国人に対して、とても緩いのです。
稲垣さんにも若松さんにも、たいへんお世話になりました。おふたりに共通していることは、“志をまげない”ということではなかったかと思うのですが、私も加齢とともに、ともすればくったりとめげてしまいそうになりますが、お二人の姿勢を心の鏡として、もう少し頑張りたいと思っています。
また、ときどき書き込ませていただきます。長々と失礼しました。
たしかに稲垣さんは「上から目線」というか、知的エリートからの啓蒙とは違った立場で本を作っていたように思います。
「晩年の作品からはメインストリームに・・・・」のくだり、おっしゃるとおりだと思います。
若松監督の件。直接お会いになっている六文さんのご意見、ああ、なるほどと納得できます。上のコメントでは少し遠慮しましたが、晩年の作品からはメインストリームに波長を合わせた展開も感じました。
稲垣さんとの出会いは私のほうが古いようですが、若松さんとの出会いは漂着者さんの方が古いようですね。
その映画自身も、上で取り上げたような時代につくられたものはほとんど観ていません。おっしゃるように、むしろその時代にこそ、「とどまる自分を認めようとしない気概」が濃厚だったのかも知れません。
私が知り合った頃は、もう大家の風格がありましたし、状況につんのめるというより、事態を客観視した映画を撮っていたように思います。
もちろん、初期の志を失ったわけではないのでしょうが、やはり、失うものをもってしまった立場での配慮のようなものがあったのではと勝手に推測しています。
私が稲垣さんにお会いしたのは、お亡くなりになる1年くらい前だったと思います。楽しい出版談義になりました。私が風媒社の名を知ったのは、高校時代に古本屋で買った太田竜の『日本革命の根本問題』。すると話題は太田竜に行ったりして、出版業界に関する取材は1時間の予定が2時間くらいになりました。そこで感じたのは、挑戦をやめないエネルギーと、志の深さ。で、「ああ、こんな人がいたんだ」と……。
若松孝二監督の映画を最初に見たのは『天使の恍惚』。それからピンク映画時代にさかのぼり、あとを追いかけるようにほとんどの映画を観てきました。それは、とどまる自分を認めようとしない気概に惹かれたからだと思います。
六文さんとの関わりの経緯、そしてお二人に対する敬意と高い評価を拝見し、私なりの感慨から、つい長い投稿をしてしまいました。