【またしても】先週の三〇日(休日の翌日)に続き、連休中の今日四日、岐阜南部「朝日新聞」にはチラシが一枚も入っていなかった。入っている日もその枚数は激減している。
新聞配達というシステムは日本独自らしい。そしてその収入は、紙代のうちの幾ばくかと、チラシの手数料で成立していると聞く。それがいま、危機に直面している。
ということは、ただでさへ部数を減らしている新聞そのものの存続にもかかわる。
新聞なんてもう古いといわれる。しかし、新聞には「一覧性」があって、情報がその新聞社の恣意によるとはいえ、その軽重や重要度、ジャンル分けなどによってその紙面に提示され、世界で生起していることがら全体のなかで、その情報を位置づけ受容できる機能がある。
それは、自分に都合のいい情報のみを吸収するタコツボ型のそれとは対極的で、すべてのそれらを相対化した上での改めての選択を可能にしてくれる。
だから、世の趨勢とはいえ、私は新聞という媒体がなくなって良いとは思わない。
このことは、メディア全体が抱えるその知性や質への批判とはまた別次元の、その土俵そのものをなくしていいかどうかの問題である。
だから、それを支えてきた一角である新聞店の危機は看過できないと思うのだ。
チラシ以外にも、最盛期には四〇ページに近かった本紙そのものが、今日は二〇ページしかなかった。
いろいろヤキモキすることが多い。