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【おせっかいな雑感】『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原雅武 講談社選書メチエ)を読んで

2020-12-05 00:24:13 | フォトエッセイ

              

 サブタイトルの「人新世」というのは、人間の営みが地質、気候、生態系などにわたって地球的環境に重大な影響を与えるようになった地球的年代の呼称といえる。
 いつをその起点にするかは諸説あるが、古くは人間が農耕生産をはじめたときからとするものや、大量生産・大量消費が始まった近代以降とするもの、新しくは1945年の核爆発以降とするものなどいろいろである。

 タイトルの「人間以後」は人新世の諸問題を受けて、人間がいようといまいと存在する現実世界を含めて問題を考えようとする姿勢を示していて、その意味では、時間的な人間以後も、そしてまた空間的な人間世界=人間的尺度で考えられた世界の外部をも含めて考えようとする姿勢を示している。

          

 ところで、この書がいう人間世界=人間的尺度で考えられた世界というのは、フッサール、ハイデガーと続く現象学的に見いだされた生活世界、道具関連による連鎖として私たちを包囲し、私たちをして世界内存在たらしめているそうした世界のことである。
 したがってこの書によれば、そうした「世界意識」は、人間的尺度を超えた実在の世界を排除するものであり、人間が地球規模、宇宙規模の自然と関わり始めた人新世の哲学としてはもはや不十分だという。

 この立場は、明らかに「新実在論」といわれるものに依拠し、ポストモダン以降の、ポスト・ポストモダンの思想として登場したものである。
 なぜなら、いわゆるポストモダンの思想潮流もまた、ハイデガー的、言語論的世界像を前提にしていてからである。

           
 この新しい世界像による立場は、人間が飼いならし、自らの尺度で対応している世界の外部に、人間的尺度では見えてこない世界が存在し、人間は現実には、人間的尺度の内部の世界と、その外部の現実世界との二重の世界において生きていることを強調する。
 
 しかも、この外部の世界というのは、はじめに述べた人新世においても人間の外延的な進出(二酸化炭素の排出、緑地の蹂躙、原子力の利用などなど)により、損傷を被リ、地球規模での気候変動や山火事の多発、生態系の激変などの結果として、人間的世界での巨大災害、環境の著しい劣化などを引き起こしていて、もはや、こちらの世界とあちらの世界という二重の世界の分離が不可能な状況に至っているとする。

           
 したがって、現在の課題は、人間的尺度の内部の世界とともにその外部の世界との二重の世界に思いを凝らすべきであるということになる。
 これでもって、とりわけ際立ってくるのがエコロジカルな課題であろう。人間がいるといないとに関わらず、一方的に作用し続ける世界、それをも対象に思考すべきであるというのは確かに一理ある。
 
 ただし、一抹の疑問も残る。それは、従前よりの人間的尺度内部の諸問題、たとえば自由とか人間の尊厳、あるいは貧困など人為的システムによって生み出される諸問題への関心がよりマクロな関心の要請によって等閑に付されるのではないかといったことなどである。

            
 それから、これは私の夢想に近いが、IT 技術の究極のAI 社会により、AI そのものが自律性をもち、もはや人間を必要とせず、人間が淘汰、粛清される未来があるとしたら、それこそ時間軸の面での人間的尺度を超えた世界であり、まさに「人間以後」の哲学の対象になるのではないかということである。
 しかし、著者の想像力(夢想力?)にはそれはないようである。
 もっとも、それがある私の方がおかしいのかもしれないが。

 いずれにしろそうした未来は、間もなく終焉を迎えようとしている私には関わるようのない話ではある。にもかかわらず、「人間以後」の哲学を覗き込んだりする私は、おせっかいというほかないのだろうと思う。

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