この映画に、VFX (Visual Effects 視覚効果)のスタッフとして関わった人からチケットをプレゼントされました。早速、どんな映画かを予めチェックしてみました。
原作は百田尚樹の同名の小説で、この本、関連図書を含めると450万部の大ベストセラーで、しかもロングセラーだとのことです。そういえば本屋の店頭で平積みにされているのを見かけたような気もします。
ヤフーでこの映画を観た人の「レビュー」一覧を見て驚きました。星5個がズラズラズラ~ッと並んでいて、時折、星1個や2個がポツンとあり、結果としてその平均は4.27点と高得点なのです。このように、このレビューの特徴は、3とか4の中間が少なく、絶賛かさもなくば酷評に分かれているところです。
これはなかなかスリリングな映画といえます。
先入観を持たないよう、レビューの内容は読まないようにして出かけました。
観たのは28日の午後で、雪がちらつく年末の寒い日とあってさほど多い観客ではなかったのですが、中高年に混じって若いカップルなどもけっこう多くいたようです。
かつての日本の戦争の映画です。しかもその戦争の特異点ともいわれる特攻隊にまつわる話です。
普通、映画は何を語っているのか、それをどう語っているのかなどなどの点で受容されるのですが、この映画の場合それは微妙です。
監督の山崎貴氏は『ALWAYS 三丁目の夕日』で、VFXの効果などを駆使しながら、戦後の高度成長期前期の昭和を郷愁に満ちた時代として描き上げ、名を成した人です。
しかし、対象が戦争、しかも最もシビアーな特攻が問題であるとしたら、もちろん、郷愁の対象として収まるはずはないし、また収めてはいけない問題です。
私はかつて、「特攻無駄死論」を述べて散々叩かれたことがありますが、それは、「彼らの尊い死によって今日の日本がある」という言い習わされた言説に対する反吐が出るような気持ちから発したものでした。彼らの無念の死を、そうした復興の物語に組み込み、肯定することは許されないと思うのです。それは彼らの死を尊重する身振りを見せながらも、その実、歴史的必然の一コマとして彼らの死を肯定し、その無念さを無に帰してしまうことなのです。
彼らの死を本当に悼み、その無念を本当に晴らすには、その死が無駄に強制されたものであることを忘れることなく私たちがその脳裏とこの胸に抱き続けることなのです。彼らの死は、決して不可避な必然によるものではなかったのです。
もちろん、特攻に参加した若者一人ひとりが直面した段階ではそれは避け難いものとしてあったでしょう。しかし、その悲惨で野蛮な作戦そのものは、決して必然でも何でもなく、人間を武器弾薬と同列に置く驚くべき思想そのものに根ざすものでした。
特攻作戦は言うに及ばず、かつての戦争そのものも歴史的必然などではなく、避けられたものでした。避けるべく努力をしたひとがほんの一握りであったがために、当時の国民にはそれが唯一の道であるかのように示され、気がついた時には同胞300万の命を失い、都市という都市を焼きつくされることになっていたわけです(話しの煩雑化を避けるため、日本の他者への加害については割愛)。
さて、映画に戻りましょう。
主人公は、自分が生き延びるようにはからうと同時に、部下や指揮下の生徒の死もできるだけ避けようと試みます。しかし、ねっちもさっちもゆかなくなった状況下においてはそのレベルでの抵抗ではもはや事態を動かすことはできないのです。
ネタバレになりますから詳論はしませんが、事態は次第に主人公を追い詰めてゆくこととなります。
改憲論者で安倍氏お気に入りの百田氏の原作とあって、戦争賛美への傾斜があるのではと気になるところでしたが、それはさほどないと思います。むしろ、見方によっては、この映画の戦争シーンはあるラブロマンスのための背景ともいえます。この映画にとって戦争はニュートラルなバックグラウンドであるのかもしれません(それはそれで問題なのですが)。
この映画の見所のひとつは、私にチケットをくれた人も関わったVFX (Visual Effects 視覚効果)にあるといえます。監督の山崎貴氏自身がそちらの方から映画に接近した人ということもあり、彼の映画ではそれが見逃せないのです。『ALWAYS 三丁目の夕日』でも、在りし日の東京の姿を郷愁をそそる映像として復活させていました。
今回の映画では、縦横に飛び交うゼロ戦とその戦闘シーン(とりわけ特攻攻撃で標的に辿りつけないまま、次々と撃墜されるゼロ戦の数々は圧巻)、それに空母「赤城」などに絶大な威力を発揮しているのですが、スタッフなどの談話を読むと、それら対象物の素材やその質量感の見せ方、空母など巨大なものを見せる場合の諸問題、ゼロ戦など音響を発するもののリアルな音の採集と編集など、ひとかたならぬ努力が、それもアヒルの水かきのように、ただ画面を見ている段にはわからない努力が傾注されているのだそうです。
それあってか映画を見ていても不自然な点はほとんどなく(あえていうと赤城の甲板に上空からカメラが迫る折、甲板上の人間がやや不自然)、逆に実写ではとても出せない迫力とスピード感ある画面、そして音響が実現しています。
当初のいささかぎこちなかったものに比べ、この分野は飛躍的に進歩しているようです。そしてこうした技術の進歩は、映画が表現できる時空の枠をうんと広げるのではないでしょうか。
無声映画からトーキーへ、そしてモノクロから天然色へ、そして3Dの映像や音響へというテクニカルな映画の進歩の中で、このVFXの技術もまた目が離せないものがあると思います。
キャストとしてはちょっと謎っぽい人物を演じる田中泯の存在感がなかなかのものでした。「メゾン・ド・ヒミコ」のあの役とはまた違って、とても面白いと思いました。
最後におまけのトリビア。
この映画の原作者百田尚樹氏は、現、NHK経営委員。
主演の岡田准一は来年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の主人公役。
この岡田の妻を演じた井上真央は再来年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、主人公として、吉田松陰の妹、文(ふみ)を演じることになっています。
なんだか、NHKづくしの感がありますね。
そうそう、言い忘れるところでした。
今年亡くなった夏八木勲氏がこの映画でも重要な役どころとして出演しています。彼の死後、画面でお目にかかるのは、『そして父になる』に次いで2作目ですが、どうやらこれが遺作のようです。その死後、出演映画を5本も残したというその役者魂に敬意を捧げ、併せてそのご冥福を祈ります。 合掌
原作は百田尚樹の同名の小説で、この本、関連図書を含めると450万部の大ベストセラーで、しかもロングセラーだとのことです。そういえば本屋の店頭で平積みにされているのを見かけたような気もします。
ヤフーでこの映画を観た人の「レビュー」一覧を見て驚きました。星5個がズラズラズラ~ッと並んでいて、時折、星1個や2個がポツンとあり、結果としてその平均は4.27点と高得点なのです。このように、このレビューの特徴は、3とか4の中間が少なく、絶賛かさもなくば酷評に分かれているところです。
これはなかなかスリリングな映画といえます。
先入観を持たないよう、レビューの内容は読まないようにして出かけました。
観たのは28日の午後で、雪がちらつく年末の寒い日とあってさほど多い観客ではなかったのですが、中高年に混じって若いカップルなどもけっこう多くいたようです。
かつての日本の戦争の映画です。しかもその戦争の特異点ともいわれる特攻隊にまつわる話です。
普通、映画は何を語っているのか、それをどう語っているのかなどなどの点で受容されるのですが、この映画の場合それは微妙です。
監督の山崎貴氏は『ALWAYS 三丁目の夕日』で、VFXの効果などを駆使しながら、戦後の高度成長期前期の昭和を郷愁に満ちた時代として描き上げ、名を成した人です。
しかし、対象が戦争、しかも最もシビアーな特攻が問題であるとしたら、もちろん、郷愁の対象として収まるはずはないし、また収めてはいけない問題です。
私はかつて、「特攻無駄死論」を述べて散々叩かれたことがありますが、それは、「彼らの尊い死によって今日の日本がある」という言い習わされた言説に対する反吐が出るような気持ちから発したものでした。彼らの無念の死を、そうした復興の物語に組み込み、肯定することは許されないと思うのです。それは彼らの死を尊重する身振りを見せながらも、その実、歴史的必然の一コマとして彼らの死を肯定し、その無念さを無に帰してしまうことなのです。
彼らの死を本当に悼み、その無念を本当に晴らすには、その死が無駄に強制されたものであることを忘れることなく私たちがその脳裏とこの胸に抱き続けることなのです。彼らの死は、決して不可避な必然によるものではなかったのです。
もちろん、特攻に参加した若者一人ひとりが直面した段階ではそれは避け難いものとしてあったでしょう。しかし、その悲惨で野蛮な作戦そのものは、決して必然でも何でもなく、人間を武器弾薬と同列に置く驚くべき思想そのものに根ざすものでした。
特攻作戦は言うに及ばず、かつての戦争そのものも歴史的必然などではなく、避けられたものでした。避けるべく努力をしたひとがほんの一握りであったがために、当時の国民にはそれが唯一の道であるかのように示され、気がついた時には同胞300万の命を失い、都市という都市を焼きつくされることになっていたわけです(話しの煩雑化を避けるため、日本の他者への加害については割愛)。
さて、映画に戻りましょう。
主人公は、自分が生き延びるようにはからうと同時に、部下や指揮下の生徒の死もできるだけ避けようと試みます。しかし、ねっちもさっちもゆかなくなった状況下においてはそのレベルでの抵抗ではもはや事態を動かすことはできないのです。
ネタバレになりますから詳論はしませんが、事態は次第に主人公を追い詰めてゆくこととなります。
改憲論者で安倍氏お気に入りの百田氏の原作とあって、戦争賛美への傾斜があるのではと気になるところでしたが、それはさほどないと思います。むしろ、見方によっては、この映画の戦争シーンはあるラブロマンスのための背景ともいえます。この映画にとって戦争はニュートラルなバックグラウンドであるのかもしれません(それはそれで問題なのですが)。
この映画の見所のひとつは、私にチケットをくれた人も関わったVFX (Visual Effects 視覚効果)にあるといえます。監督の山崎貴氏自身がそちらの方から映画に接近した人ということもあり、彼の映画ではそれが見逃せないのです。『ALWAYS 三丁目の夕日』でも、在りし日の東京の姿を郷愁をそそる映像として復活させていました。
今回の映画では、縦横に飛び交うゼロ戦とその戦闘シーン(とりわけ特攻攻撃で標的に辿りつけないまま、次々と撃墜されるゼロ戦の数々は圧巻)、それに空母「赤城」などに絶大な威力を発揮しているのですが、スタッフなどの談話を読むと、それら対象物の素材やその質量感の見せ方、空母など巨大なものを見せる場合の諸問題、ゼロ戦など音響を発するもののリアルな音の採集と編集など、ひとかたならぬ努力が、それもアヒルの水かきのように、ただ画面を見ている段にはわからない努力が傾注されているのだそうです。
それあってか映画を見ていても不自然な点はほとんどなく(あえていうと赤城の甲板に上空からカメラが迫る折、甲板上の人間がやや不自然)、逆に実写ではとても出せない迫力とスピード感ある画面、そして音響が実現しています。
当初のいささかぎこちなかったものに比べ、この分野は飛躍的に進歩しているようです。そしてこうした技術の進歩は、映画が表現できる時空の枠をうんと広げるのではないでしょうか。
無声映画からトーキーへ、そしてモノクロから天然色へ、そして3Dの映像や音響へというテクニカルな映画の進歩の中で、このVFXの技術もまた目が離せないものがあると思います。
キャストとしてはちょっと謎っぽい人物を演じる田中泯の存在感がなかなかのものでした。「メゾン・ド・ヒミコ」のあの役とはまた違って、とても面白いと思いました。
最後におまけのトリビア。
この映画の原作者百田尚樹氏は、現、NHK経営委員。
主演の岡田准一は来年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の主人公役。
この岡田の妻を演じた井上真央は再来年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、主人公として、吉田松陰の妹、文(ふみ)を演じることになっています。
なんだか、NHKづくしの感がありますね。
そうそう、言い忘れるところでした。
今年亡くなった夏八木勲氏がこの映画でも重要な役どころとして出演しています。彼の死後、画面でお目にかかるのは、『そして父になる』に次いで2作目ですが、どうやらこれが遺作のようです。その死後、出演映画を5本も残したというその役者魂に敬意を捧げ、併せてそのご冥福を祈ります。 合掌