友人から、岐阜の郊外にある岩井山延算寺に自分の永代供養納骨をしたいので下見に行く、ついては一緒に行ってくれないかという申し出があった。
永代供養納骨霊廟(納骨堂)とは何かというと、その寺のHPによれば、「自分の死後、供養をしてくれる子孫のない方のため、当山が後継者となって、寺に納骨をして頂き、寺が責任をもって永代に供養してゆく一種の墓地です」ということだ。
そうした抹香臭い話にはあまり興味はないのだが、先ごろ亡くなった我が同人誌の先達が、予め自分の墓所を定めていたという話を思い出したのと、上記の寺にはもうひとつ、私の興味を引くものがあるということで、同行というかアッシー君を引き受けることとした。
もう一つの興味というのは、その寺には、先頃までやっていた朝ドラ、「花子とアン」で、内容としても役どころとしても、完全に主役を食っていた(と私は思う)柳原白蓮の歌碑があるというのだ。もちろん、彼女がそこを訪れた折のものである。
その寺は岐阜市の北東部に位置し、したがって、この市の中心部を挟んで私の居住する地とはまったく対称的な方角にあるため、これまで行く機会に恵まれていなかったのだが、知る人ぞ知る名刹で、毎月8日の縁日には、岐阜のバスターミナルから無料バスが運行されるほどなのだ。
実際に行ってみるまで、これほどの古刹とは知らなかった。山懐に抱かれ、街の喧騒や車の音たちとは無縁の箇所にそれはあった。境内も自然の利を活かしてゆったりと穏やかで、惜しくも、創建時のものが消失し、1600年代に再建された本堂や鐘楼は県や市の指定重要文化財になっている。また、805年、伝教大師作といわれる木造薬師如来立像は国指定の重要文化財になっている。
寺そのものは815年の建立というから1,200年の歴史を誇る。
さて、白蓮の歌碑だが、それは境内の静謐な庭園の一角にあった。
自然石に掘られたそれは、昌泰年間(898年~901年)にこの地を訪れて皮膚病の治療をしたという小野小町を偲んだものだが、その折、小野小町はこの寺に7日間篭もり、その治癒を祈願したところ、夢で「東に霊水がある。その水を体にすり込むと良い。」とのお告げを聞き、その水をすり込むと完治したという。
古川柳のばれ句では、もっぱら「小町針」関連の下司な題材にされている彼女だが、一般的には往時を代表するどころか歴史に名だたる美女とあって、皮膚の病はさぞかし「ながめせし間に」容色を蝕む大敵であったことであろう。
そうした故事を踏まえて、大正三美人といわれた白蓮の歌は以下である。
「やまかげの清水にとへばいにしえの女のおもひかたりいずらく」
歌意はこんなことではないだろうか。「いにしえの女」とはもちろん小野小町のことで、末尾の「いずらく」は、「(清水が)語り出ることであろうことよのう」という詠嘆を含むのものだと思われる。ようするに、山陰の清水を眼前にして、かつての小野小町の思い(皮膚病を治したいという望みにとどまらず、小野小町という女性の全実存そのもの)が伝わってくるようだということではなかろうか。
これはもちろん、私のないに等しい古語の知識から類推したものにしかすぎないから、眉唾で読んでおいてほしい。
上村松園・画 柳原白蓮
なお、白蓮がこの地を訪れ、この歌を読んだのは1952(昭和27)年であり、またこの歌碑ができた57(昭和32)年にも再訪しているとのことである。白蓮60歳代後半と70歳代前半のことだが、現住職は子供の頃のその訪問を記憶していて、「なんというきれいなお婆さんだろう」と思ったという。
いずれにしても、ここのところちょっと沈んでいた私にとっては、秋晴れの一日、とてもいい散策になった。
同行した友人は、住職などの説明を聞き、世の喧騒から離れ、春は桜、秋は紅葉に包まれるこの地が気に入ったようで、ここを終の棲家、ではなく死後の棲家としたいようであった。
私のほうがもし長生きするようだったら、参詣に訪れてもいい場所だと思うし、その都度、ついでに白蓮や小町を偲ぶこともできるかもしれない。
しかし、蓮如の御文(おふみ)=白骨の御文章がいうがごとく、「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」だからそんな順番なんかあてにはならない。
無常観というよりも、ここには世の冷酷な事実があるのだが、こうした古刹のアウラはそれらを超越したかのような存在として、私を包み込んでいるのであった。一陣の風が近くの竹林の梢を少しざわつかせて渡っていった。
永代供養納骨霊廟(納骨堂)とは何かというと、その寺のHPによれば、「自分の死後、供養をしてくれる子孫のない方のため、当山が後継者となって、寺に納骨をして頂き、寺が責任をもって永代に供養してゆく一種の墓地です」ということだ。
そうした抹香臭い話にはあまり興味はないのだが、先ごろ亡くなった我が同人誌の先達が、予め自分の墓所を定めていたという話を思い出したのと、上記の寺にはもうひとつ、私の興味を引くものがあるということで、同行というかアッシー君を引き受けることとした。
もう一つの興味というのは、その寺には、先頃までやっていた朝ドラ、「花子とアン」で、内容としても役どころとしても、完全に主役を食っていた(と私は思う)柳原白蓮の歌碑があるというのだ。もちろん、彼女がそこを訪れた折のものである。
その寺は岐阜市の北東部に位置し、したがって、この市の中心部を挟んで私の居住する地とはまったく対称的な方角にあるため、これまで行く機会に恵まれていなかったのだが、知る人ぞ知る名刹で、毎月8日の縁日には、岐阜のバスターミナルから無料バスが運行されるほどなのだ。
実際に行ってみるまで、これほどの古刹とは知らなかった。山懐に抱かれ、街の喧騒や車の音たちとは無縁の箇所にそれはあった。境内も自然の利を活かしてゆったりと穏やかで、惜しくも、創建時のものが消失し、1600年代に再建された本堂や鐘楼は県や市の指定重要文化財になっている。また、805年、伝教大師作といわれる木造薬師如来立像は国指定の重要文化財になっている。
寺そのものは815年の建立というから1,200年の歴史を誇る。
さて、白蓮の歌碑だが、それは境内の静謐な庭園の一角にあった。
自然石に掘られたそれは、昌泰年間(898年~901年)にこの地を訪れて皮膚病の治療をしたという小野小町を偲んだものだが、その折、小野小町はこの寺に7日間篭もり、その治癒を祈願したところ、夢で「東に霊水がある。その水を体にすり込むと良い。」とのお告げを聞き、その水をすり込むと完治したという。
古川柳のばれ句では、もっぱら「小町針」関連の下司な題材にされている彼女だが、一般的には往時を代表するどころか歴史に名だたる美女とあって、皮膚の病はさぞかし「ながめせし間に」容色を蝕む大敵であったことであろう。
そうした故事を踏まえて、大正三美人といわれた白蓮の歌は以下である。
「やまかげの清水にとへばいにしえの女のおもひかたりいずらく」
歌意はこんなことではないだろうか。「いにしえの女」とはもちろん小野小町のことで、末尾の「いずらく」は、「(清水が)語り出ることであろうことよのう」という詠嘆を含むのものだと思われる。ようするに、山陰の清水を眼前にして、かつての小野小町の思い(皮膚病を治したいという望みにとどまらず、小野小町という女性の全実存そのもの)が伝わってくるようだということではなかろうか。
これはもちろん、私のないに等しい古語の知識から類推したものにしかすぎないから、眉唾で読んでおいてほしい。
上村松園・画 柳原白蓮
なお、白蓮がこの地を訪れ、この歌を読んだのは1952(昭和27)年であり、またこの歌碑ができた57(昭和32)年にも再訪しているとのことである。白蓮60歳代後半と70歳代前半のことだが、現住職は子供の頃のその訪問を記憶していて、「なんというきれいなお婆さんだろう」と思ったという。
いずれにしても、ここのところちょっと沈んでいた私にとっては、秋晴れの一日、とてもいい散策になった。
同行した友人は、住職などの説明を聞き、世の喧騒から離れ、春は桜、秋は紅葉に包まれるこの地が気に入ったようで、ここを終の棲家、ではなく死後の棲家としたいようであった。
私のほうがもし長生きするようだったら、参詣に訪れてもいい場所だと思うし、その都度、ついでに白蓮や小町を偲ぶこともできるかもしれない。
しかし、蓮如の御文(おふみ)=白骨の御文章がいうがごとく、「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」だからそんな順番なんかあてにはならない。
無常観というよりも、ここには世の冷酷な事実があるのだが、こうした古刹のアウラはそれらを超越したかのような存在として、私を包み込んでいるのであった。一陣の風が近くの竹林の梢を少しざわつかせて渡っていった。
欄を借用します。
同人雑誌原稿を数分前にあなたに送りました。
訂正、Editingはご自由になさってくだし。
Thomas