1960年、ひとりの作家が交通事故で他界した。
その3年前、44歳でノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミユである。
その遺作として、未完に終わった自伝的小説『最初の人間』が残された。
映画『最初の人間』はそれによるものである。したがってその主人公、ジャック・コルムリはほとんどカミユその人といってよい。
時代は錯綜しているが、ひとつは彼が自出の場であり、母の暮らすアルジェリアを訪れる1957年である。そしてもうひとつの時代は、そのアルジェリア訪問によって思い起こされる彼の少年時、1920年代の日々である。
フランス人の父が第一次世界大戦で戦死したため、1920年代の彼はアルジェリア人の母方の実家でその祖母や叔父などと暮らしている。
この20年代と57年の間にはもちろん連続性がある。
それらは、彼が自分の過去の痕跡を訪ね歩くことによって次第に明らかになってゆく。
少年の彼の才能を見出し、その進学を家族に説得してくれた恩師、やんちゃだったが誇り高かったアルジェリア人の少年とその息子、彼にタバコの吸い方からさまざまなことを教えてくれた明るい性格の叔父、などなどが決して過去への単なる回想ではなく、50年代半ばから始まったアルジェリアの独立戦争との継続のなかで、その不穏な空気をバックに辿られてゆく。
そこで彼が見出したものがなんであったのかは、ネタバレになるので控えるが、その、1957年のあの不穏な時代背景は、1962年のアルジェリア独立と同時に完全に終焉したのではなく、この現在とのつながりを持ってもいることを悲惨な事実としてつきつけたのが今回のイスラム武装勢力の攻撃であるといえる。
私がこの映画を観たのはもう数日前なのだが、ちょうどその頃に今回の事態が勃発したので、その趨勢を見るため、これまでは書くのを控えていた。どうやらそれは、多くの犠牲者を出す最悪の悲劇に終わったようだ。
発端はマリ共和国の内戦状態に関するかつての宗主国、フランスの軍事介入とそれへのイスラム勢力の反発である。とくにアルジェリアが、フランス軍の通行に便を図ったことにより、舞台がアルジェリアに移されたといわれているが、ただ、それだけではあるまい。
アフリカの地図を見る者はだれでも気づくのだが、旧植民地であり現在は独立した国々の国境線は定規で仕切ったように真っ直ぐである部分が多い。紛争地マリとアルジェリア、そしてマリと西隣のモーリタニアもそうである。
これは旧宗主国同士が、お互いの覇権が及ぶ地域を線引によって確定したことによる。
したがってそこには、民族や風習、言語について同一性をもった人々に対する暴力的分断の歴史がある。幸いにも日本の都道府県はそうではないが、人間は人為的に引かれた直線にそって生活しているわけではない。
したがって、そうした線引とはかかわりなく人々の行き来はあるし、現実にその線をまたいで人々は生活している。マリとアルジェリアの間でも、むろん然りである。
もうひとついうならば、今回の日本人の犠牲はあながち「無辜であったにもかかわらず」ということはできない。なぜなら、日本政府はフランスの進攻を支持するという公式声明を出している以上、イスラム武装勢力にとっては「敵」の一部なのだ。
もちろん、この事実の指摘はイスラム武装勢力の作戦を擁護するものではないし、その犠牲になった人々を突き放したりすることではない。
こんなことはあってはならないことは自明であることを確認した上での事実の指摘である。
日本が「平和ボケ」という指摘はある意味では当たっている。
世界の五分の一は何がしかの意味で戦場だといい、いう人にいわせれば、三分の一は潜在的戦場であるとしたら、企業進出にしろ、観光にしろそれをわきまえる必要があるということだろう。
そしてまた、グローバリズムの中で均質化されるのに抵抗する勢力がいるという事実に関していうならば、そのグローバリズムを享受している私たちは、決して外部の第三者ではいられないのだ。
映画から少なからず離れたが、その舞台を1957年とするこの映画は、欧州による過去の植民地支配とそれから脱する前夜の様相(それは、ほぼ世界同時的であったことを言い添えるべきだろう)を如実に示しているばかりか、それらの地域においてのその後の過程の中でも、なおかつ収まり切らなかった後遺症としての現代の諸問題を照射している点で、やはり観ておいたほうがいいだろう。
映画の出来栄えや登場人物の演技に触れることはなかったが、それらもまたなかなかのもので、その映像も美しく、いい映画に仕上がっていると思った。
文字の読み書きができない主人公の母が、こっそりと新聞を写してそれを学び、息子の作品を読もうと試みるシーンはジーンとくる。
このアルジェリア人の母の存在感は際立ち、要所要所で画面を締めているように思った。
蛇足ではあるが、アルジェリア出身で他に思い出すのは、哲学者のジャック・デリダ、デザイナーのイヴ・サンローラン、サッカーのジネディーヌ・ジダン、などである。
いささか、トレビアっぽいところでは、女優・沢尻エリカの母親は、やはりアルジェリアの出身だという。
その3年前、44歳でノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミユである。
その遺作として、未完に終わった自伝的小説『最初の人間』が残された。
映画『最初の人間』はそれによるものである。したがってその主人公、ジャック・コルムリはほとんどカミユその人といってよい。
時代は錯綜しているが、ひとつは彼が自出の場であり、母の暮らすアルジェリアを訪れる1957年である。そしてもうひとつの時代は、そのアルジェリア訪問によって思い起こされる彼の少年時、1920年代の日々である。
フランス人の父が第一次世界大戦で戦死したため、1920年代の彼はアルジェリア人の母方の実家でその祖母や叔父などと暮らしている。
この20年代と57年の間にはもちろん連続性がある。
それらは、彼が自分の過去の痕跡を訪ね歩くことによって次第に明らかになってゆく。
少年の彼の才能を見出し、その進学を家族に説得してくれた恩師、やんちゃだったが誇り高かったアルジェリア人の少年とその息子、彼にタバコの吸い方からさまざまなことを教えてくれた明るい性格の叔父、などなどが決して過去への単なる回想ではなく、50年代半ばから始まったアルジェリアの独立戦争との継続のなかで、その不穏な空気をバックに辿られてゆく。
そこで彼が見出したものがなんであったのかは、ネタバレになるので控えるが、その、1957年のあの不穏な時代背景は、1962年のアルジェリア独立と同時に完全に終焉したのではなく、この現在とのつながりを持ってもいることを悲惨な事実としてつきつけたのが今回のイスラム武装勢力の攻撃であるといえる。
私がこの映画を観たのはもう数日前なのだが、ちょうどその頃に今回の事態が勃発したので、その趨勢を見るため、これまでは書くのを控えていた。どうやらそれは、多くの犠牲者を出す最悪の悲劇に終わったようだ。
発端はマリ共和国の内戦状態に関するかつての宗主国、フランスの軍事介入とそれへのイスラム勢力の反発である。とくにアルジェリアが、フランス軍の通行に便を図ったことにより、舞台がアルジェリアに移されたといわれているが、ただ、それだけではあるまい。
アフリカの地図を見る者はだれでも気づくのだが、旧植民地であり現在は独立した国々の国境線は定規で仕切ったように真っ直ぐである部分が多い。紛争地マリとアルジェリア、そしてマリと西隣のモーリタニアもそうである。
これは旧宗主国同士が、お互いの覇権が及ぶ地域を線引によって確定したことによる。
したがってそこには、民族や風習、言語について同一性をもった人々に対する暴力的分断の歴史がある。幸いにも日本の都道府県はそうではないが、人間は人為的に引かれた直線にそって生活しているわけではない。
したがって、そうした線引とはかかわりなく人々の行き来はあるし、現実にその線をまたいで人々は生活している。マリとアルジェリアの間でも、むろん然りである。
もうひとついうならば、今回の日本人の犠牲はあながち「無辜であったにもかかわらず」ということはできない。なぜなら、日本政府はフランスの進攻を支持するという公式声明を出している以上、イスラム武装勢力にとっては「敵」の一部なのだ。
もちろん、この事実の指摘はイスラム武装勢力の作戦を擁護するものではないし、その犠牲になった人々を突き放したりすることではない。
こんなことはあってはならないことは自明であることを確認した上での事実の指摘である。
日本が「平和ボケ」という指摘はある意味では当たっている。
世界の五分の一は何がしかの意味で戦場だといい、いう人にいわせれば、三分の一は潜在的戦場であるとしたら、企業進出にしろ、観光にしろそれをわきまえる必要があるということだろう。
そしてまた、グローバリズムの中で均質化されるのに抵抗する勢力がいるという事実に関していうならば、そのグローバリズムを享受している私たちは、決して外部の第三者ではいられないのだ。
映画から少なからず離れたが、その舞台を1957年とするこの映画は、欧州による過去の植民地支配とそれから脱する前夜の様相(それは、ほぼ世界同時的であったことを言い添えるべきだろう)を如実に示しているばかりか、それらの地域においてのその後の過程の中でも、なおかつ収まり切らなかった後遺症としての現代の諸問題を照射している点で、やはり観ておいたほうがいいだろう。
映画の出来栄えや登場人物の演技に触れることはなかったが、それらもまたなかなかのもので、その映像も美しく、いい映画に仕上がっていると思った。
文字の読み書きができない主人公の母が、こっそりと新聞を写してそれを学び、息子の作品を読もうと試みるシーンはジーンとくる。
このアルジェリア人の母の存在感は際立ち、要所要所で画面を締めているように思った。
蛇足ではあるが、アルジェリア出身で他に思い出すのは、哲学者のジャック・デリダ、デザイナーのイヴ・サンローラン、サッカーのジネディーヌ・ジダン、などである。
いささか、トレビアっぽいところでは、女優・沢尻エリカの母親は、やはりアルジェリアの出身だという。