我が輩は鳩である。
鳩は鳩でもその辺の神社仏閣や公園で群をなしている土鳩と一緒にして貰っては困る。
姿形はよく似ているが、一応、キジバトというれっきとした野鳥なのだ。
もっとも我が輩も、土鳩のために撒かれた餌にありつくため、時折はその群に混じっていることもあるので誤解されるのも無理はない。
彼らと我が輩の違いは、この高貴な紋様の羽根にもあるが、その巣を建造物ではなく、樹木に拵えるところにもある。
さて我が輩、ここのところ、いとしの彼女とつがいで、このブログとやらでちんけな文章を書き綴っている変なオッサンのところへ頻繁に現れているのだが、このオッサン、妙な期待でもって我が輩たちの方を見つめているのだ。
というのは、もう10年近く前、わが輩の先輩にあたるつがいが、この家のちっぽけな庭のモチノキに巣をかけたことがあるからなのだ。そして雛が生まれたのだが、この先輩たち、巣作りがよほど下手だったのか、ある雨の日、巣が崩れて雛が下へ落っこちてしまったのだ。
オッサンが慌ててその雛を拾い上げ、巣に戻したのだが、オッサンの嫌らしい匂いが付いてしまったのを嫌ってか、先輩たちはその巣を見放してしまったようだ。心配したオッサンが改めて巣を覗き込んだときには、もうその雛はミイラになってしまっていたらしい。
オッサンはその時のことを覚えていて、わが輩たちがその時のつがいではないかと疑ってさえいるのだ。年月からいってもそんなことはありえないのだが、どうも、今なお疑っているようだ。
まあ、それはともかく、もう一度巣をかけることを期待しているのは事実なのだ。
オッサンはそのために嫌らしい工作をし始めた。
まず第一は、食い物でわが輩たちを釣ろうという姑息な作戦だ。
それで、ベランダにクラッカーを砕いたものを撒いたりしはじめた。ただしそのクラッカー、賞味期限が切れて放ってあったものだというところがいじましい。
ある朝、寝坊のオッサンが起きたときには、そのかけらすらないほどにきれいに食べられていたので、しめたと思っているようだが、わが輩たちが食べたのか、早起きのスズメがついばんだのか、オッサンは知るよしもないだろう。
もうひとつの工作は、例のモチノキの枝に、巣箱ならぬ使い古しのざるを取り付けたことである。そこをわが輩たちの新居にという下心は見え見えなのだが、こちらにもいろいろ都合があろうというものだ。ましてや、そこに住まわせてじっくり観察してやろうなどという助平心が透けて見えるのに、おいそれとそれに乗るわけにはゆかないのだ。
そんなわけで、オッサンとわが輩たちの駆け引きはまだ継続中で、二、三日姿を見せないと変にやきもきしているのを見ると可哀相にもなるので、時折は来てはやるが、まだそこに住みつくとは決めていない。
今後どうなるにしろ、これだけはオッサンに言っておかねばならない。
本来、野生のものを、自分の都合のよい手元に置いて観察しようなどというのはある種の思い上がりではないか。それも、こっちの都合ではなく自分の恣意に依って観察の環境などを支配しようというのは、畏れ多い仕業というほかはない。オッサンのざるは、明らかにオッサンから見えやすいところに設置されているのだ。
自分も自然の一部である以上、オッサンも、様々な生の営みのある部分に参加させてもらっているのだという謙虚な気持ちを持つべきである。
もし、オッサンがそうした気持ちになって、相互に見たり見られたりが自然に出来るようになったら、そこへ巣を構えてやってもいいと思っている。
鳩は鳩でもその辺の神社仏閣や公園で群をなしている土鳩と一緒にして貰っては困る。
姿形はよく似ているが、一応、キジバトというれっきとした野鳥なのだ。
もっとも我が輩も、土鳩のために撒かれた餌にありつくため、時折はその群に混じっていることもあるので誤解されるのも無理はない。
彼らと我が輩の違いは、この高貴な紋様の羽根にもあるが、その巣を建造物ではなく、樹木に拵えるところにもある。
さて我が輩、ここのところ、いとしの彼女とつがいで、このブログとやらでちんけな文章を書き綴っている変なオッサンのところへ頻繁に現れているのだが、このオッサン、妙な期待でもって我が輩たちの方を見つめているのだ。
というのは、もう10年近く前、わが輩の先輩にあたるつがいが、この家のちっぽけな庭のモチノキに巣をかけたことがあるからなのだ。そして雛が生まれたのだが、この先輩たち、巣作りがよほど下手だったのか、ある雨の日、巣が崩れて雛が下へ落っこちてしまったのだ。
オッサンが慌ててその雛を拾い上げ、巣に戻したのだが、オッサンの嫌らしい匂いが付いてしまったのを嫌ってか、先輩たちはその巣を見放してしまったようだ。心配したオッサンが改めて巣を覗き込んだときには、もうその雛はミイラになってしまっていたらしい。
オッサンはその時のことを覚えていて、わが輩たちがその時のつがいではないかと疑ってさえいるのだ。年月からいってもそんなことはありえないのだが、どうも、今なお疑っているようだ。
まあ、それはともかく、もう一度巣をかけることを期待しているのは事実なのだ。
オッサンはそのために嫌らしい工作をし始めた。
まず第一は、食い物でわが輩たちを釣ろうという姑息な作戦だ。
それで、ベランダにクラッカーを砕いたものを撒いたりしはじめた。ただしそのクラッカー、賞味期限が切れて放ってあったものだというところがいじましい。
ある朝、寝坊のオッサンが起きたときには、そのかけらすらないほどにきれいに食べられていたので、しめたと思っているようだが、わが輩たちが食べたのか、早起きのスズメがついばんだのか、オッサンは知るよしもないだろう。
もうひとつの工作は、例のモチノキの枝に、巣箱ならぬ使い古しのざるを取り付けたことである。そこをわが輩たちの新居にという下心は見え見えなのだが、こちらにもいろいろ都合があろうというものだ。ましてや、そこに住まわせてじっくり観察してやろうなどという助平心が透けて見えるのに、おいそれとそれに乗るわけにはゆかないのだ。
そんなわけで、オッサンとわが輩たちの駆け引きはまだ継続中で、二、三日姿を見せないと変にやきもきしているのを見ると可哀相にもなるので、時折は来てはやるが、まだそこに住みつくとは決めていない。
今後どうなるにしろ、これだけはオッサンに言っておかねばならない。
本来、野生のものを、自分の都合のよい手元に置いて観察しようなどというのはある種の思い上がりではないか。それも、こっちの都合ではなく自分の恣意に依って観察の環境などを支配しようというのは、畏れ多い仕業というほかはない。オッサンのざるは、明らかにオッサンから見えやすいところに設置されているのだ。
自分も自然の一部である以上、オッサンも、様々な生の営みのある部分に参加させてもらっているのだという謙虚な気持ちを持つべきである。
もし、オッサンがそうした気持ちになって、相互に見たり見られたりが自然に出来るようになったら、そこへ巣を構えてやってもいいと思っている。
チェーホフの短編に描かれているのと、全く同じ事が起こったので、びっくりしたのを、覚えています。あの頃から、娘は野鳥に関心があったのかな。