ゴキブリが古くはゴキカブリといっていたというのは知っていた。
御器、つまり器をかぶる(=囓る)虫というわけだ。
古くは平安時代から使われていたらしい。
それが、今日のようにゴキブリと言われるようになったのは、どっかでなまったのだろうと思っていた。それでその旨をある知り合いの方の日記にコメントしたところ、なまったのではなく、脱字の誤植によってそうなったのだという指摘があった。
それによると、明治17年に出た日本初の生物学用語集『生物學語彙』で一箇所目はゴキカブリとルビが振られていたのに、二箇所目以降でゴキブリと誤ってルビが振られてしまったというのだ。
しかも、その本は初版しか出なかったため、その誤植が訂正されず、そのために、その五年後に作られた『中等教育動物学教科書』にもそのままゴキブリと記載されてしまったということだ。
それ以降、ずっとゴキブリで定着してしまって今日に至っているらしい。
ということは、私の母方の祖父は、確か明治のひと桁の生まれだから、彼は子供の頃はゴキカブリといっていたのだろうかと考えてしまう。
この話は同時に、言葉というものは、「否定的差異の体系」(ソシュール)であるということを立証しているようでもある。小難しい言葉を使ったが、要は、言葉というのは、何かと何かを区別さえ出来ればいいということである。
ちょっと乱暴は言い方をすると、明日から、林檎のことを梨といい、梨のことを林檎といおうということになっても、それが周知徹底すればいっこうに差し支えないということである。
言葉の話になったが、この前、知り合いの「りりこ@マタハリ」さんんのところへ「吉田隆一バリトンサックスソロ 」のライブに行った折(これは素晴らしかった)に、たまたま隣り合わせになった言語学者の方の話が面白かった。
吉田氏のバリトンサックス
この方、どちらかというと、人の言語習得の研究などをしていらっしゃるようなのだが、そのある実験例がとても面白かった。
一歳前後の、まだ言葉を習得していない赤ん坊が寝ているとき、その近くで何か物語か詩の朗読のようなものをテープ(ここが注目点なのだが、それは後述)で聞かせ、その脳波を測定すると、それに対して確実に反応するというのだ。
そしてまた、その物語や詩を、英語やその他の言語にしても確実に反応するというのだ。
ここまで読まれた方は、それはただ単に音や話し声に音として反応しただけだと思われるだろう。
ところがである、先ほどテープでといったが、そのテープを逆回転させて聞かせると赤ん坊はほとんど反応しないというのだ。
ここには二つの問題があるようだ。
ひとつは、赤ん坊は、有意味な言葉の流れには反応するが、その逆転(大人にとってもテープの逆回転は有意味ではない)には反応しないということ。
もう一つは、それが日本語であれ、英語であれ、有意味な言葉の連続に対しては反応するということ?ナある。
ここまでの私の聴き取りが正確であるかどうかはいささか怪しいが、まあ、正確に近いとして、話を進めよう。
ただしこれから先は、私の独断に過ぎない。
1)赤ん坊には、日本語であれ、何語であれ、言語体系に対して反応できる能力があること。
従って、赤ん坊は、その能力に従い、自分の育った環境での言葉を習得する。
2)赤ん坊は、音としての言葉に反応するのではなく、意味を持ったその系列に反応するのであり、ひよっとしたらここに、人間のみが狭義の言葉を持ちうる種であることの特殊性があるのではないか。
3)これは2)と関連するが、赤ん坊には、何語だとかどんな内容だとかという以前に、コミュニケーションへの渇望が内在しているのではないか(ある哲学者はこれに近いことを言っている。超越の可能性として)。
<photo src="5546246:1277511242">
以上が私のまとめであるが、ライブの会場で、その合間を見ての会話と言うことで、もっと突っ込んで聞けなかったのが悔やまれる。
さて、話はゴキブリに戻るが、どう呼ばれようが彼らはそれに関わりなく生きている。
いくぶん涼しくなった今、いささか活動力は鈍ったがまだまだ健在である。
私は別にゴキブリが好きではないが、ある種の人たちはそれに対して過剰に反応すると前々から思っている。「ギャー」とか「キャー」と言ってことさらに騒ぎ立てることが分からない。
確かに、衛生上の問題はあろうが、たかが昆虫ではないか。しかも、長年にわたって人類と共存してきた仲間ではないか。
蚊や蠅と同様駆除されるのは止む得ないとしても、「ギャーギャー」騒がれるいわれはあるまい。
これは少年時代、飛んでいたゴキブリを捕らえて昆虫採集の中に加えて家族の顰蹙をかった私の思いである。
ゴキブリでもゴキカブリでもいいが、それらが完全にいなくなる社会はかえって異常ではないか。
平安や江戸の昔、わがゴキブリは今ほど忌避されたろうか。
そこには、自分の気に入らない他者を過剰に抽出し、その絶滅を図る危うさがある。
ナチスがユダヤ人をそうしたように。
御器、つまり器をかぶる(=囓る)虫というわけだ。
古くは平安時代から使われていたらしい。
それが、今日のようにゴキブリと言われるようになったのは、どっかでなまったのだろうと思っていた。それでその旨をある知り合いの方の日記にコメントしたところ、なまったのではなく、脱字の誤植によってそうなったのだという指摘があった。
それによると、明治17年に出た日本初の生物学用語集『生物學語彙』で一箇所目はゴキカブリとルビが振られていたのに、二箇所目以降でゴキブリと誤ってルビが振られてしまったというのだ。
しかも、その本は初版しか出なかったため、その誤植が訂正されず、そのために、その五年後に作られた『中等教育動物学教科書』にもそのままゴキブリと記載されてしまったということだ。
それ以降、ずっとゴキブリで定着してしまって今日に至っているらしい。
ということは、私の母方の祖父は、確か明治のひと桁の生まれだから、彼は子供の頃はゴキカブリといっていたのだろうかと考えてしまう。
この話は同時に、言葉というものは、「否定的差異の体系」(ソシュール)であるということを立証しているようでもある。小難しい言葉を使ったが、要は、言葉というのは、何かと何かを区別さえ出来ればいいということである。
ちょっと乱暴は言い方をすると、明日から、林檎のことを梨といい、梨のことを林檎といおうということになっても、それが周知徹底すればいっこうに差し支えないということである。
言葉の話になったが、この前、知り合いの「りりこ@マタハリ」さんんのところへ「吉田隆一バリトンサックスソロ 」のライブに行った折(これは素晴らしかった)に、たまたま隣り合わせになった言語学者の方の話が面白かった。
吉田氏のバリトンサックス
この方、どちらかというと、人の言語習得の研究などをしていらっしゃるようなのだが、そのある実験例がとても面白かった。
一歳前後の、まだ言葉を習得していない赤ん坊が寝ているとき、その近くで何か物語か詩の朗読のようなものをテープ(ここが注目点なのだが、それは後述)で聞かせ、その脳波を測定すると、それに対して確実に反応するというのだ。
そしてまた、その物語や詩を、英語やその他の言語にしても確実に反応するというのだ。
ここまで読まれた方は、それはただ単に音や話し声に音として反応しただけだと思われるだろう。
ところがである、先ほどテープでといったが、そのテープを逆回転させて聞かせると赤ん坊はほとんど反応しないというのだ。
ここには二つの問題があるようだ。
ひとつは、赤ん坊は、有意味な言葉の流れには反応するが、その逆転(大人にとってもテープの逆回転は有意味ではない)には反応しないということ。
もう一つは、それが日本語であれ、英語であれ、有意味な言葉の連続に対しては反応するということ?ナある。
ここまでの私の聴き取りが正確であるかどうかはいささか怪しいが、まあ、正確に近いとして、話を進めよう。
ただしこれから先は、私の独断に過ぎない。
1)赤ん坊には、日本語であれ、何語であれ、言語体系に対して反応できる能力があること。
従って、赤ん坊は、その能力に従い、自分の育った環境での言葉を習得する。
2)赤ん坊は、音としての言葉に反応するのではなく、意味を持ったその系列に反応するのであり、ひよっとしたらここに、人間のみが狭義の言葉を持ちうる種であることの特殊性があるのではないか。
3)これは2)と関連するが、赤ん坊には、何語だとかどんな内容だとかという以前に、コミュニケーションへの渇望が内在しているのではないか(ある哲学者はこれに近いことを言っている。超越の可能性として)。
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以上が私のまとめであるが、ライブの会場で、その合間を見ての会話と言うことで、もっと突っ込んで聞けなかったのが悔やまれる。
さて、話はゴキブリに戻るが、どう呼ばれようが彼らはそれに関わりなく生きている。
いくぶん涼しくなった今、いささか活動力は鈍ったがまだまだ健在である。
私は別にゴキブリが好きではないが、ある種の人たちはそれに対して過剰に反応すると前々から思っている。「ギャー」とか「キャー」と言ってことさらに騒ぎ立てることが分からない。
確かに、衛生上の問題はあろうが、たかが昆虫ではないか。しかも、長年にわたって人類と共存してきた仲間ではないか。
蚊や蠅と同様駆除されるのは止む得ないとしても、「ギャーギャー」騒がれるいわれはあるまい。
これは少年時代、飛んでいたゴキブリを捕らえて昆虫採集の中に加えて家族の顰蹙をかった私の思いである。
ゴキブリでもゴキカブリでもいいが、それらが完全にいなくなる社会はかえって異常ではないか。
平安や江戸の昔、わがゴキブリは今ほど忌避されたろうか。
そこには、自分の気に入らない他者を過剰に抽出し、その絶滅を図る危うさがある。
ナチスがユダヤ人をそうしたように。