雪がちらつく寒い日、名古屋市は千種区の覚王山日泰寺界隈を散策した。
私が三十年ほど商売をしていた場所からさほど遠くはないが、とはいえ、あまり足を運んだ覚えはない。
覚王山日泰寺は珍しく無宗派の寺院である。正確に言えば十九ほどにも及ぶ各宗派が加入している寺院である。なぜそんな寺が出来たかというと、タイから仏舎利(お釈迦様のお骨)が贈られたのを記念して各宗派が合同でそれを祀ったことによるという。だから日泰寺というのは「日本とタイ」の寺という意味である。
近くの鉈薬師堂庭園にて
しかし、世界にも、日本のあちこちにも仏舎利塔が数多くあることから見るに、お釈迦様という人はよほど小骨が、失礼、お骨が多かった人のようだ。
同鉈薬師堂門前にて
無宗派の寺だといったが、もともと日本人は無宗派のようなもので、葬儀や法要の場合には、やれうちはお西だ 、お東だ、あるいは禅宗だなどと読経の仕方や作法にまでうるさいが、日常ではそんなことは一切関係なしに、どこかに古寺名刹があると聞くと観光バスで押しかけたりする。
同鉈薬師堂お百度石 これを起点に本堂まで百回お参りをすると願いが叶う
その観光バスに乗っている人たちの宗派がまたばらばらなのだから、呉越同舟ならぬ誤宗同車という次第になる。随分前だが、奈良の大仏様の前でお題目を称えているのを聞いたこともある。
まあ、どっかの国のように、同じ宗教のなかで、宗派が違うばかりに殺し合いにまで至るよりもは平和でいいのかもしれない。もっともこの殺し合いも、純粋に宗派の問題ではなく、うしろで糸ひく国際政治の影響が濃厚なのだが。
専修院にて
日本の話に戻ろう。日本での宗派意識が曖昧であるといったが、もともと歴史的にいってそうであったのではないかと思うのだ。というのは、日本の宗派分けは各個人がその宗教的信念に基づきそれを選んだのではなく、江戸時代の実質的な戸籍であった一定の寺の影響範囲にある者はすべてその寺の「宗門人別帳」に記入されたという事実によるものではないかと思うからだ。
同じく専修院
この人別帳に書かれなかったり、除外された者は、いわゆる無宿者であり、いまのネットカフェ住まいの人が就職などで差別をうけるのと同様、その市民権においての制限があったという。
ついでながら、国民総背番号制や住基ネットは現代版の人別帳ともいえる。
これも専修院
といったようなわけで、ほとんどの日本人の宗派意識はせいぜいのところ、お焼香のときにお香を何度摘むかぐらいの差異に解消される。
だから、大仏様の前で称名を称えて大仏様を面食らわせたり、天主堂でお念仏を称えてキリスト様を仰天させるぐらいは日常茶飯事なのである。
近くの茶店の入り口
私の母がそうであった。生家はお東、嫁いではお西であったが、神仏はむろんのこと、お狸様からお蛇様まで、あらゆるものを信仰し、それなりに寺銭、ではなくお布施を弾んでいた。万物に仏が宿るということならそれはそれでいいので、私は母は汎神論者だったと思う。
火除けの常夜灯
残念ながら母の死は、彼女が願ったようにポックリとはゆかなかったのだが、森羅万象に敬意を払っての往生だから、もし霊的な世界があるならば、あらゆる霊から優遇されているはずである。
日泰寺入り口付近の座像 白いのは雪
これまで書いてきたことから、私は日本人の宗教観念の曖昧さを揶揄したり批判したりしているとするのは誤解である。実は私は、それでいいと思っているのだ。宗教間の差異、宗派の差異などは実に些細なものである。ましてやそれで殺し合うようなものではないはずだ。
参道の石屋さん 小物も作っている
カントは「崇高」という言葉で、人間の想像を絶する巨大なもの、壮絶なものを現した。そこには当然、圧倒的に大いなるもの、人知を越えた圧倒的な力の作用が含まれるのであり、それが宗教観の根底にあるのだと思う。
この事実は、姑息な自力で己や世界を支配しようとする態度とは全く違うものがある。
参道で見つけた大粒の白南天
とはいえ、私は人間の努力を否定しようとは思わない。いな、むしろそれこそが人の生涯である。己の自由にはならぬ圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力のうちにありながら、なおかつ己のなし得ることに励む、それでいいのだと思う。
ただしそれは、常に真理は己のもとにあり、世の必然性が手中にあるとすることとは対極の態度である。そうした姑息な自力で己や世界を支配しようとする傲慢さはオウム真理教のそれであり、スターリニズムやナチズムのそれである。
私が三十年ほど商売をしていた場所からさほど遠くはないが、とはいえ、あまり足を運んだ覚えはない。
覚王山日泰寺は珍しく無宗派の寺院である。正確に言えば十九ほどにも及ぶ各宗派が加入している寺院である。なぜそんな寺が出来たかというと、タイから仏舎利(お釈迦様のお骨)が贈られたのを記念して各宗派が合同でそれを祀ったことによるという。だから日泰寺というのは「日本とタイ」の寺という意味である。
近くの鉈薬師堂庭園にて
しかし、世界にも、日本のあちこちにも仏舎利塔が数多くあることから見るに、お釈迦様という人はよほど小骨が、失礼、お骨が多かった人のようだ。
同鉈薬師堂門前にて
無宗派の寺だといったが、もともと日本人は無宗派のようなもので、葬儀や法要の場合には、やれうちはお西だ 、お東だ、あるいは禅宗だなどと読経の仕方や作法にまでうるさいが、日常ではそんなことは一切関係なしに、どこかに古寺名刹があると聞くと観光バスで押しかけたりする。
同鉈薬師堂お百度石 これを起点に本堂まで百回お参りをすると願いが叶う
その観光バスに乗っている人たちの宗派がまたばらばらなのだから、呉越同舟ならぬ誤宗同車という次第になる。随分前だが、奈良の大仏様の前でお題目を称えているのを聞いたこともある。
まあ、どっかの国のように、同じ宗教のなかで、宗派が違うばかりに殺し合いにまで至るよりもは平和でいいのかもしれない。もっともこの殺し合いも、純粋に宗派の問題ではなく、うしろで糸ひく国際政治の影響が濃厚なのだが。
専修院にて
日本の話に戻ろう。日本での宗派意識が曖昧であるといったが、もともと歴史的にいってそうであったのではないかと思うのだ。というのは、日本の宗派分けは各個人がその宗教的信念に基づきそれを選んだのではなく、江戸時代の実質的な戸籍であった一定の寺の影響範囲にある者はすべてその寺の「宗門人別帳」に記入されたという事実によるものではないかと思うからだ。
同じく専修院
この人別帳に書かれなかったり、除外された者は、いわゆる無宿者であり、いまのネットカフェ住まいの人が就職などで差別をうけるのと同様、その市民権においての制限があったという。
ついでながら、国民総背番号制や住基ネットは現代版の人別帳ともいえる。
これも専修院
といったようなわけで、ほとんどの日本人の宗派意識はせいぜいのところ、お焼香のときにお香を何度摘むかぐらいの差異に解消される。
だから、大仏様の前で称名を称えて大仏様を面食らわせたり、天主堂でお念仏を称えてキリスト様を仰天させるぐらいは日常茶飯事なのである。
近くの茶店の入り口
私の母がそうであった。生家はお東、嫁いではお西であったが、神仏はむろんのこと、お狸様からお蛇様まで、あらゆるものを信仰し、それなりに寺銭、ではなくお布施を弾んでいた。万物に仏が宿るということならそれはそれでいいので、私は母は汎神論者だったと思う。
火除けの常夜灯
残念ながら母の死は、彼女が願ったようにポックリとはゆかなかったのだが、森羅万象に敬意を払っての往生だから、もし霊的な世界があるならば、あらゆる霊から優遇されているはずである。
日泰寺入り口付近の座像 白いのは雪
これまで書いてきたことから、私は日本人の宗教観念の曖昧さを揶揄したり批判したりしているとするのは誤解である。実は私は、それでいいと思っているのだ。宗教間の差異、宗派の差異などは実に些細なものである。ましてやそれで殺し合うようなものではないはずだ。
参道の石屋さん 小物も作っている
カントは「崇高」という言葉で、人間の想像を絶する巨大なもの、壮絶なものを現した。そこには当然、圧倒的に大いなるもの、人知を越えた圧倒的な力の作用が含まれるのであり、それが宗教観の根底にあるのだと思う。
この事実は、姑息な自力で己や世界を支配しようとする態度とは全く違うものがある。
参道で見つけた大粒の白南天
とはいえ、私は人間の努力を否定しようとは思わない。いな、むしろそれこそが人の生涯である。己の自由にはならぬ圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力のうちにありながら、なおかつ己のなし得ることに励む、それでいいのだと思う。
ただしそれは、常に真理は己のもとにあり、世の必然性が手中にあるとすることとは対極の態度である。そうした姑息な自力で己や世界を支配しようとする傲慢さはオウム真理教のそれであり、スターリニズムやナチズムのそれである。
お詳しいと思ったらこの辺りでお育ちになったのですね。
私ももっと詳しくこのまわりを見たかったのですが、団体行動でゆっくりできませんでした。
次回行く機会には、りいらさんがお書きになったことなどを参考にもっとじっくり見てくるつもりです。
富士浅間神社、名古屋には大須と西区の文字通り浅間町とふたつありますが(両方とも木花開耶姫命を祀っている)、桜のお話しからすると西区の方でしょうか。
ここは店をやっている頃、岐阜への帰り道なので、花の時期には、立ち寄ったことがあります。
真夜中の、一人っきりの花見でしたが、思えばあれは、木花開耶姫とのデートだったのですね。
朝は全国から修行にきた若い僧たちが一斉に托鉢にでかけるさまはうつくしい・・
でも最近は住職は通いとなり、早く山門を閉めてしまうので寂しいと、近所のおじいさんが言っていました。お堂のなかにいろいろな自動販売機があるのはいかがなものでしょう?愛馬チュンパカとともに城を出る仏陀の高山辰夫さんの素晴らしい絵があり、母がいただいた複製も我が家にあります。
いろいろなフェアがあり、ホーミーや口琴、デジュリドウ(アボリジニ)の名手がきたりするので私もワークショップに参加したりしました。
ここと城山神社は小さいころの遊び場でした。ターザンごっこがどんなに楽しかったことでせう!
秘密ですが「ひょん」の木もありますよ。
私はいいかげんなカトリックですが、ロ短調の稽古場の近くに富士浅間神社があるのを見つけました。神主さんに聴くとご神体?はあの「この花咲くや姫」とのこと。すっかりうれしくなってお参りし、珍しい鏑矢のついたものや、西陣に注文したというくっきりと桜が織りだされた御守りまでもとめました。
皇室や名古屋城と深くかかわりっています。
おりから青白く悩み深そうな受験生がひっきりなしに訪れます。境内には桜の古木が15本もあるそうで楽しみ。
私も日本人らしい人間ということでしょうね
名古屋モスクの御祝いには招待していただきますし、インドでヒンドウーの寺院に参ることも喜びです。
ロ短調はまだまだですが、たまに天から楽の神がふってきてくださったと思う瞬間があります。
ドストエフスキーの古い訳に「彼はなんまいだぶと言って十字を切った」というくだりがありますが、傑作だと思います(笑)
先般も、自治体が特定の宗派に土地を提供しているのは憲法違反だとの判決があり、それはその通りで、地代を払うなり何なりで法的な合理性を整えるべきでしょうが、若干気になるのは、特定の宗派の場であると同時に、冠山さんがおっしゃるように地域のコミュニティとしての機能を持っていることですね。
特に地方へ行くほど、伝統行事やお囃子などの伝統芸能の継承の役割を持っていたりしますから、一線を画すのは難しいですね。
>N響大好き。さん
あ、そうですか、タイでも日泰寺のことは知られているのですね。
「そうよ、名古屋の生まれよ。日泰寺近くで産湯を使ったチャキチャキの名古屋っ子だぃ」といったら厚遇されるかも。
>さんこさん
今池にいる頃、この参道筋の発展会の青年部の人と話したことがあります。いろいろイベントを企画したり、空き家の借り手を見つけたりと努力を重ねているようですが、やはり、21日のみの賑わいというのはつらいものがあるといっていました。
私の行った日は土曜日でしたが、私たち一行のほかには二桁に満たない人たちしか見かけませんでした。
縁日が、ごった返して、面白いですね。他ではもう売っていない下駄の鼻緒や、股引なども有って。その宣伝文句が、読んでいくと面白いのです。
酒かすやマムシ酒などもお目にかかれるし。
でも、だんだん参道脇のお店が、代替わりして、なくなってゆきます。寂しいですが。代わりに、若いアーチストたちの店が出来たりして、時代の変遷を、感じます。
タイの人は、日泰寺のことを、小乗仏教のお寺だと思っているようです。
今年は町内の係のひとつでお宮係です。近所のお宮の祭礼日には幟立てたりの手伝いをします。同じ町内であっても見知らぬ人と話しするまたとない機会と考えています。
日泰寺はいてですね。毎年一回行きます。門前の街並みはたのしいお店がありますね。