東西ともにフクロウは知恵の象徴のようです。
西洋のフクロウでは、ヘーゲルという哲学者が、その著『法哲学概論』に「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」と述べたものが有名です。
もともとフクロウは西洋では賢い鳥というイメージがあり、ローマ神話の戦いと知性の女神ミネルヴァ(ギリシア神話ではアテナ)の知恵を現す使いとされています。
で、どうしてそのフクロウが黄昏にならないと飛びたたないかというと、哲学や思想などというのは偉そうにいっていても、事態のまっただ中ではそれがどんな事態かをちゃんと知ることは出来ないということなのです。
それを知ることが出来るのは、その事態が収まってから、つまり黄昏時なのだというわけです。この辺はフクロウの夜行性をも踏まえていますね。
ところで、日本でもフクロウは民話や童話の中で、森の賢者の役を与えられています。先般、知多半田へ行った折に通りかかった寺院には上の写真のようなお地蔵様まがいの石像があって、「智慧福郎」の札がかかっていました。
そのせいかなんだか賢そうに見えますね。
ところで、あまり賢いともいえない私は、黄昏ではなく、暮れになってからの勉強会に参加して来ました。
私以外は若い人ばかりです。
テキストは西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』並びにそれを足がかりにした西田哲学全般でした。
最後はこんなことに・・・
やはり、私はミネルヴァのフクロウのようにはゆかず、あちこちの木々や枝にぶつかっての迷走しかできませんでした。
でも、多少は勉強になりましたし、それに参加するまでの予習に意味があったように思います。
次回は来年三月頃にと約束して別れました。
西洋のフクロウでは、ヘーゲルという哲学者が、その著『法哲学概論』に「ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ」と述べたものが有名です。
もともとフクロウは西洋では賢い鳥というイメージがあり、ローマ神話の戦いと知性の女神ミネルヴァ(ギリシア神話ではアテナ)の知恵を現す使いとされています。
で、どうしてそのフクロウが黄昏にならないと飛びたたないかというと、哲学や思想などというのは偉そうにいっていても、事態のまっただ中ではそれがどんな事態かをちゃんと知ることは出来ないということなのです。
それを知ることが出来るのは、その事態が収まってから、つまり黄昏時なのだというわけです。この辺はフクロウの夜行性をも踏まえていますね。
ところで、日本でもフクロウは民話や童話の中で、森の賢者の役を与えられています。先般、知多半田へ行った折に通りかかった寺院には上の写真のようなお地蔵様まがいの石像があって、「智慧福郎」の札がかかっていました。
そのせいかなんだか賢そうに見えますね。
ところで、あまり賢いともいえない私は、黄昏ではなく、暮れになってからの勉強会に参加して来ました。
私以外は若い人ばかりです。
テキストは西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』並びにそれを足がかりにした西田哲学全般でした。
最後はこんなことに・・・
やはり、私はミネルヴァのフクロウのようにはゆかず、あちこちの木々や枝にぶつかっての迷走しかできませんでした。
でも、多少は勉強になりましたし、それに参加するまでの予習に意味があったように思います。
次回は来年三月頃にと約束して別れました。
そうでしたか。
毛沢東がマオ・ツォートンなので、何か「毛」に関するものかなぁと勝手に考えていましたが、違っていました。
そうすると、猫はmaoで、頭がtou、そしてyingが鷹ということですね。
maotouyingさんは、棗の村のミネルヴァのフクロウなんだ。
納得!
「猫頭をした鷹」って、中国語はわかりやすいですね。