飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

横断歩道を渡りましょう 大人の問題

2024年08月27日 04時59分30秒 | 教育論
交通道徳という言葉があるが、本当に道徳なんてものなのだろうか。
交通に関するルールは便宜上人間が決めた規則にすぎないもので、道徳という人間的な普遍性をもった問題ではない。
所変われば、ルールもいとも簡単に変わる。
時代の価値観とともに変更されていく。
もっと言えば、世の中に絶対的なルールはなく、その時代や社会に中で人間が安心安全に暮らしていく配慮、気配りみたいなもの。
よく子供が「なぜ、◯◯しちゃいけないの。」と質問してくる。
大人は真面目に答えようとするが、本当の意味での答えがないのが現実だ。
「絶対にしちゃいけないことなんてほとんどない。
 けど、人間が社会という中で生きていったり、集団で生きていったりするためには、一定のルールが必要なんだ。
 だから、ルールを作り守ったほうが生活しやすいからだよ。」
くらいの答えしか、今の私にはできない。

子どもたちに「横断歩道を渡るルール」を教えるときに教師はどんな指導をするだろう。
「安全のために横断歩道を渡りましょう」と教えるのだろうか。
もちろんこれは正しい。
しかし、横断歩道を渡ってさえいれば安全だと子どもたちは勘違いしないだろうか。
五味太郎さんの「大人の問題」にこんな記述がある。

以下引用。

「横断歩道を渡りましょう」と言われて、言われるがままにまじめに渡ってて車に轢かれてしまった子供って、ほんとに気の毒です。
自分で普通の道を横断して、失敗して轢かれてしまった人より気の毒です。
自分で失敗した人はそれなりの納得がありますが、「横断歩道で轢かれた」では、文化というやつに裏切られた気がするに違いありません。
ですから、横断歩道というのは命の保障のゾーンじゃない、横断歩道を渡るときも普通の道とおんなじように緊張しなくちゃいけない、なにしろあそこは信号の点滅で歩道になったり車道のなったりするという不思議な空間で、一応安全の確率が高いということになっているわけで、そう信用しないでね、ぐらいは伝えておく必要があるのです。
 ルールの本質をもっとオープンに伝えてゆく努力を担当者はすべきです。
そして、それ以上の責任を背負い込むこともまた必要ないのです。あとはそれについて各自が責任をもってやってゆくというのが原則です。

引用終わり。

横断歩道を渡るときは、横断歩道ではないときと同じくらいの注意を払う必要がある。
決して安心安全な場所ではないことを強調して教える必要がある。

saitani

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