飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

積小為大

2006年09月29日 23時27分42秒 | 人生論
最近はあまり学校で目にしなくなった二宮金次郎の像。
現在、勤務している学校にはないが前任校にはあった。
積小為代とはこの二宮金次郎の言葉である。
二宮金次郎は、内村鑑三が書いた「代表的日本人」という本の中でも紹介されているように典型的な日本人のモデルとして長く日本人に親しまれてきた。

積小為大の意味とは、そのまま意味を訳せば小を積めば大になるということである。さらに詳しく言うと、「目の前の小さなことを積み重ねていけば、それは大きなものに変わる。」と言うこと。
このことを逆説的に言えば、「いきなり成功は得られない、、まず、自分にできることを実行に移すことが大事だ」ということになるだろう。

目標を達成するには、目の前の小さな事を克服していく以外に道はないのである。
継続は力なりということばあるように、根気と強い意志も必要になってくる。
自分の意思を継続させることも不可欠になる。
多くの場合は努力してすぐに目に見える結果を期待してしまう。
無駄な努力、目標は達成できそうもない。
こんな気持ちが心を支配しがちである。
そこを踏みとどまり、継続的に一歩一歩前進していく。
そういう心構えを育てる必要がある。

自分の力を信じ、人間の努力によって運命を変え、道を切り開いていく精神の継続事こそ重要と積小為大の言葉は教えているように思う。

(saitani)

真の団結

2006年09月28日 22時17分59秒 | 授業論
運動会も終わり、もうすぐ折り返し地点を迎える。
運動会という学級にとっては最大のイベントを経て、集団は大きく変化し、成長する。
何度も書いたが、何かを学ぶ、成長するとは変化することである。
考え方が変わる。
行動が変わる。
ものの見方が変わる。
様々な変化があるだろう。

成長をとげた学級はしっとりとした雰囲気があり、あたたかな空気が流れる。
そうした中で、子どもたちは今後はゴールへ向かって走り続け、さらにステップアップするのである。

様々な学級を考えてみる。
変化をとげた学級とは反対に以前としてこれまでと同じ問題を抱えている学級があるかも知れない。
その原因は何にあるのだろう。

自分は思う、集団を育てるとき個をどうみているか。
行事に取り組むとき、団結を重要視する。
それはどの学級も同じである。
しかし、ただ団結という言葉だけを並べてみても真の団結など夢のまた夢である。
大切なのは、振り返ってみて個人を育てたかと言うことである。
一人一人の成長なくして団結はありえない。
人が集まれば団結できるわけではない。
それは単なる群れである。

自立していない人間が集まると団結どころか、深刻な問題が発生する。
さらには勇気をもって前進しよう、力を伸ばしていこうとする人間のやる気さえ奪うというマイナスのパワーが支配するようになる。

今一度自分の学級集団を注意深くみる。
そして、一人一人の人間がどれだけ自立し、自分自身で前向きに行動しているかをみるべきだ。

いい方を変えれば、自分一人でも目標に向かって突き進んでいくという気持ちがあるのか確かめてみるべきだ。
この自立したやる気さえ育っていれば、あとのことは身につく。
自立した人間が集まったとき初めて真実の団結が生まれる。

本当の団結は、自立の中にだけありうる。
(ジョセ・バーガミン)

運動会の危機管理3

2006年09月19日 13時47分01秒 | 体育科
必要な配慮とは何か。
練習に参加できないとき、きちんと友達に理由を説明することである。
きちんと自分の気持ちを伝え、本当は練習に参加したいのだけれども、できなくて申し訳ないという気持ちを率直に伝えればよほど日常の人間関係に問題がなければ認めてもらえる。
なぜらなら、誰でも、同じような経験をしているからである。
現在の子どもたちの生活は、われわれが過ごしてきた時代とはちがう。
誰でも忙しいのである。

大事なのはあくまでも、みんなに迷惑をかけてすまないという気持ちを忘れてはいけないということである。

事情をきちんと説明せず、「用事があるから帰る」程度では仲間の不信感をかうことは避けられない。
きちんと事情を説明することの重要性は常日頃から教育しておくべきである。
これは自己弁護する言い訳とは異なるものだという認識も必要だろう。

塾があってやむを得ず帰宅することはなんら非がある行為ではない。
だから謝らなくてもいいと考える子も最近は多い。
ごめんねと言えると言うことは、自分に非があるかどうかの問題ではなく、人間関係を円滑にしていく配慮をもった人間かどうかの問題である。

どんなにきちんと説明してもやはり全員で練習したいのが子どもたちの本音である。
そこで、次の朝、もう一度昨日のことを謝り、人一倍練習をがんばる姿があればその子への信頼も厚くなり、まったく逆のよい結果が生まれる。

このような指導も学級では必要だと私は思う。

(saitani)

ポジティブな環境

2006年09月18日 23時49分37秒 | 授業論
人間は環境に大きく左右される。
生活する環境、自分の身をおく環境によって成長も決まり、やるべき方向性も決まってくる。
中田英寿が引退のインタビューに答えてこう言っていたことがある。
「あなたにとって一番大切なこと何ですか。」
と聞かれて、
「人との出会いです。だから、これからも出会いを大切にしたい。」
どんな人に出会うか、それは人生を大きく左右させる。
自分自身もあの出会いがなかったら全くちがった道を歩いていたかもしれないと思うことがたくさんある。

しかし、出会いは大切だが誰とでも出会えばいいわけではない。
世の中には、自分によい影響を及ぼす人と残念ながらそうでない人がいる。
思考でいうと、ポジティブな人とネガティブな人である。

自分で考えたことは何らかの形で行動に表れる。
思考は現実化するという言葉もある。
ネガティブな環境の中で、ネガティブな言葉ばかり聞いていれば自然と思考もマイナス方向へといく。
「そんなことはできない。」
「そんなことはやる必要ない。」
「無理しなくてもいい。」

これに対して、実現不可能な夢を話したとき、
「ひっとしてできるかもしれない。」
「きっと夢はかなうよ。」
とポジティブな言葉をかけられれば自信をもって努力できる。

まわりも巻き込み集団全体をポジティブにすることはしなければならない。
しかし、それは困難な道のりである。
ならば、ネガティブな環境を避け、まず自分自身をポジティブな人間関係の中におくことが前向きに努力することにつながっていくと思う。

(saitani)

運動会の危機管理2

2006年09月12日 00時00分11秒 | 体育科
運動会の練習はどこのクラスでも行われる。
勝ち負け以上のものを学ぶには、その過程においてベストを尽くさせることは不可欠なことだろう。
しかし、子どもたちは一生懸命なあまりに、不必要な人間間の軋轢を生むこともしばしばである。
これはこれで、人間関係をうまくやっていく勉強の場ではあるがほっておくと取りかえしのつかない状況になることも少なくない。

放課後クラスで練習をしようと言うことになった。
しかし、自分は塾がある。
道徳の教材にもこのような場面は多い。
少し疑問に思うのは、道徳の教材では全体を優先させる選択を選ぶ方を良い選択と考えられる結末で終わっていることが多い。
それは美しいことではあるが、現実的にはしっくりこない。
理想と現実にはギャップがあるのである。

練習に参加できる子と出来ない子がいる。
そして、問題が起きる。
帰ろうとする子を非協力的ととらえたり、自分勝手ととらえる子が多いからだ。
このような問題が起こる理由は二つあるように思う。
一つは、運動会への理取り組みに各個人に温度差があること。
もう一つは、人間関係を円滑に保つ配慮の仕方を子どもたちが知らないからである。

(saitani)

運動会の意義

2006年09月08日 23時15分43秒 | 体育科
運動会に向けて、どのクラスも気持ちを高め、クラスが一致団結したムードで本番を迎えることでしょう。
これまで教師は子どもたちに目標を与え、努力することを望んできたと思います。

そして、結果がでます。
先生方はその結果に対して、どのような語りかけを子どもたちにするのでしょうか。
運動会という成長の場は、どのクラスにも与えられているのにこの行事から多くのことを学ぶクラスとそうでないクラスがあります。
それは、すべて教師の姿勢にあると思います。

自分は時に子どもたちに次のように聞きます。
成功とはどういう意味か。
自分たちが運動会で成功したかどうかどうすればわかるのか。

一位をとること。
自分たちが勝ったという気持ちになること。
賞状がもらえること。
クラスがまとまること。
体力を伸びること。
精神的に成長すること。
上級生として下級生の手本になること。
人として思いやりの心がもてること。
我慢する心がもてること。

一般的に成長とは、これらの組み合わせなのかもしれません。
しかし、この中でどれが自分のクラスにとって一番重要かを決めるのは、そのクラスの子どもたちです。
更に言えば、人間は成長するにつれて成功に意味が変わってきます。
人間として、学級として学んで成長するにつれて、成功の意味は変わり、学級にとって重要なことは変わってきます。
成功することを子どもたちがどうとらえるかによって、運動会を通しての子どもたちの変化がわかります。

だから運動会が終わって教室にもどってきた子どもたちに私はいつもこう尋ねていました。

私たちのクラスにとって成功とはどういう意味か。

運動会の危機管理

2006年09月07日 23時46分38秒 | 体育科
運動会は1年の行事のうちで唯一学級集団が無条件に同一の価値観で、同一方向を向いてエネルギーを集約できる行事である。
この運動会をどう意義付けをし、どんなふうに子どもたちを鍛えていくかで後半戦の方向性が決まってくる。

どのクラスも朝練や休み時間の練習を始める。
出来る限りの努力をさせることは当然のことであり、このことによって運動会の本当の意義を学ぶことができる。
しかし、注意しなければならないこともある。
それは危機管理についてである。
危機管理とは子どもたちにけがをさせないように危険予知をすることはもちろんである。
この危険予知に関しては、経験の豊富が必要になる。
もうひとつ精神的な危機管理も必要である。
人間的な精神的な軋轢をうむのもこの時期なのである。
小さなほころびがやがて大きな人間関係のひずみをうむようになる。

今日も、職員室に入ってきた子が担任に訴えていた。
「先生、誰も練習に出てきてくれません。
 私は何度もみんなに呼びかけました。
 みんなは口だけです。」
こんな子どもの訴えに教師はなんと答えるべきだろう。

また、こんな場面も必ずある。
団体競技のクラス練習をしている。
練習では隣のクラスに負けてしまった。
急遽、放課後自主練習をすることになった。
「みんなクラスの練習なんだから、残れるよね。」
リーダーが言う。
しかし、その日は塾や習い事がある日であることもある。
その場合、その子はどのような行動をとるべきか。

学級の練習は個人の都合よりも優先すべきだから、塾を休み練習に参加する。

練習は突然のことであり、塾は以前から決まっていたこと。
だから練習に参加するのは無理と判断し、塾へ行く。

塾に遅れてもいいので、少しでも練習に参加してから塾に向かう。

このようなとき二者択一的な判断は避けるべきである。
見識の狭い、価値判断をする習慣がついてしまう。
現実にはベストの選択はなく、ベターの選択があるだけだ。

クラスの練習を優先させ、塾を休む気持ちは素晴らしいと思う。
しかし、一般にいって先に入っている予定を優先することは当然のことである。
そのときの状況にもよるが、家庭にはそれぞれ予定があり、計画がある。
したがって、練習をやすんだからといって自分勝手とは一概に言えない。

難しい選択を迫られたとき、中庸の思考をすることは大事なことである。
できるだけ練習に参加して、塾にいくというのが現実的かもしれない。

だが、もう一つ落としてはならない指導がある。
このことを担任がきちんと子どもたちに指導しているかどうかで人間関係が豊かになるか、貧しくなるか決定する。

(saitani)


チームのために3

2006年09月06日 23時33分11秒 | 授業論
チームスピリットを態度で示すとはどういうことか。

一つめは、ミスや失敗したときに、顔を伏せない。
常にルックアップである。
通常失敗すると落胆し、次の行動を起こそうとしない。
愚かなミスをした上に、そのミスを取り戻そうとしない怠け者のミスを繰り返すのである。
二重のミスを普通、人間はおかす。
行動とは常にミスをおかすものである。
ミスは、行動したことの証しでもある。
意味ある行動をした代償なのだ。
問題は、ミスを取り戻す努力をすることと、ミスを最大限に抑えることである。

二つめは、チームメイトを励まし続けること。
リーダーは時に意図的に叱ることもある。
しかし、チームメイトはミスした選手を励まし、次のプレーへつなげるような気持ちの切り替えをさせるような声かけが必要だ。

三つめは、自分がうまくいったとき、仲間に感謝の気持ちをきちんと伝えること。
どんなに活躍する選手でも、感謝の気持ちを忘れたら誰も仲間とは認めない。
それはチームを第一に考えていないことにもなるからだ。
自分が良いプレーができたのは多くの仲間の励ましや助けがあったからである。
そのことは一流であればあるほど痛感する事実である。

運動会の練習も来週1週間が勝負である。
子どもたちのモチベーションをあげ、保ち続けることはリーダーの役割である。

(saitani)



チームのために2

2006年09月04日 00時39分01秒 | バスケットボール
子どもたちにチームとは何か、学級とは何かを話す。
それは集団が同じ価値観をもり、同一の方向性をもつためには不可欠なことだ。

TEAMにはIという文字は存在しない。
極論かもしれないがチームに私は存在しない。
あるのは我々だ。

よくチームワークと言うが、具体的にどんな意味をもつのか。
チームワークを二つに分けて考える。
チームとは、自己犠牲の上に成り立っている。
ただし、この自己犠牲はただ単に自我を押し込め、我慢するという意味だけではない。
自分のもてる力を最大限発揮し、チームのために、全体のためにベストを尽くす。
その結果がチームの勝利、チームの成長につながるという自己犠牲だ。
ある場面においては、シュートを選択するよりもパスの方を多く選択しなければならないこともある。
また、ある時は恐怖心に打ち克ち、前進しなければならないこともある。

ワークとは、誠心誠意みんなのために働くと言うことである。
リレーの選手のように目立つところで活躍する選手ばかりではない。
裏方で、声を出しみんなを励ます選手。
練習道具を準備する選手。
練習で汚れた場所をきちんと片付ける選手。
どれも大切な役割である。
一生懸命働くと言うことは、仲間によい影響を与える。
チームを前向きにするのである。
堅いチームスピリットは強い集団の不可欠の要素である。

では、このチームのために、チームスピリットをもって戦っている状態とはどういう態度を言うのだろう。

(saitani)

チームのために1

2006年09月02日 17時25分57秒 | バスケットボール
多くの学校でこの9月の中旬に運動会が行われる。
おそらく来週あたりから、朝の時間帯にクラス毎の自主練習がみられることだろう。
指導しているミニバスも来月には秋のカップ戦が始まる。
この大会をめざしてどこのチームも夏の厳しい練習に耐えてきた。
厳しい練習に耐えられるのは、心通じる仲間がいるからだ。
一人ではとても苦しくてつい逃げたくなるような練習も仲間とならがんばれるから不思議だ。
もう一つ厳しさに耐えられる要因は個人レベルできちんとした目的意識をもっているかということだ。
目的が明確でない選手は常に受け身で、やらされているという感覚から脱却できない。
受動的な練習は効果は薄く、身に付くものも少ない。

この目的意識や精神的な方向性を形作るのもリーダーの仕事である。
ただ、ここで問題になるのは現実のチームでおこるできごとは教科書にでてくるような決まったことではなく、変化にとみ、その都度臨機応変な対応が必要になってくることである。
指導が一貫性をもち、臨機応変な対応をしていくには指導者の哲学が必要である。
いったん迷いや方向性を間違えるとチームや集団はまとまりを欠き、急速にモチベーションを下げていく。
いったん方向性やまとまりを失った集団をもとに戻すことは簡単ではない。
学級崩壊したクラスを立て直すのには莫大な労力を必要とするのと同じである。

担任だったときいつも子どもたちに話していたことがある。
それは、チームとは何かと言うことだ。
ミニバスの子どもたちにも話す。
このことを話すことによって自分のすべき事が分かり、仲間が一つにまとまっていくのある。

(saitani)