飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

勝利への旅立ち

2006年07月30日 20時49分30秒 | 授業論


高校野球も県決勝が行われ、甲子園へとこまを進める高校が決定した。
その試合を見ていて気がついたことがある。
それは選手に笑顔が多く、非常にリラックスしているように思えることだ。
この笑顔は、緊張感のないよどんだ空気を生み出すような表情ではなく、心の底から野球を楽しんでいるという心が伝わってくるような表情に見える。
一昔前までは、試合中に笑うと言うことは許されなかった。
どんな理由であれ、笑うという行為は緊張感のない不真面目な行動とされた。
しかし、今は違う。
むしろ緊張はほぐすためには意識して笑顔になった方がいいとも言われている。

「勝利への旅立ち」という映画がある。
原題はフージャーズ(HOOSIERS)という名前がついている。
これはインディアナ州の住人の俗称だそうだ。
内容は、田舎町のバスケット・チームが州選手権の決勝まで勝ち進むというサクセスストーリーだ。
この映画のシーンにさまざま指導者として選手に対してどうあるべきか考えさせられる場面がある。
例えば、地元の狭い体育館で練習を積んできた選手たちが、決勝試合の行われるスタジアムに最初に入ったときに、ジーン・ハックマン扮するノーマンコーチが、メジャーで選手たちにゴールポストまでの距離と高さを測らせるというエピソードがでてくる。
当然、その値はいつもの体育館のものと変わらないわけだが、初めての大スタジアムに圧倒され、自分達を小さく感じがちの選手たちに、いつもの自分達のまま臨めばいいことを無言で伝えるシーンである。
選手に「緊張するな。いつも通りにやれ。」と言っても全く意味のない指示である。
指導者ならば、具体的行動で選手に自分の意図を伝えなければならない。
理念や目的をそのまま言葉だけで伝えようとする指導者はアマである。

試合前のロッカールーム。
コーチは、選手にこの数ヶ月自分についてきてくれたことを感謝した。
そして、「何か言いたいことは?」と選手に問う。
ある選手は、地方高のプライドをかけて戦うと言った。
また、ある選手は「父親のために戦う。」と答えた。
そして、全員一致した考えはコーチのために戦うという気持ちだった。

州大会決勝ラストゲーム。
試合のこり時間はあと19秒。
マイボールの場面。
コーチは、作戦を告げる。
それまで得点のほとんどを入れてきたビリーをダミーにして、他の選手に決めのシュートを打たせるというものだ。
これは作戦としては正しいだろう。
しかし、それまで素直にコーチの指示にしたがってきた選手達は返事をしない。
その表情は反抗的なものではなく、何かをコーチに訴えかけているようだった。
最後の大事な場面では自分たちに判断をまかせてほしい。
ビリーに最後のシュートは打たせたいと誰もが考えていた。
ビリーも自ら「自分がやります。」と言った。
自分たちで決めて、自分たちで責任をとる。
そういうチームになったからこそ、在校生64名の高校が、2800名もいる高校に勝つことができたのだと私は思う。

教えるべきことを教えた後は、選手に任せる。
そういうチームこそ本当の強さを発揮する。

(saitani)

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国語の常識に対する疑問

2006年07月04日 22時27分26秒 | 国語科
小学校の教科において一番大切なものは何かと問われれば、多くの人は国語だと答えるだろう。
私もそう考えている。
国語はすべての教科の基礎基本と言ってもいい。
母国語を理解するというのは、その国の文化を理解すると言うことにもなる。
まず、他国の文化を学ぶ前に、国語の学習に重点をおくことは基本だろう。
算数や社会、理科などの研修をしていても、基礎的な部分では国語力が必要だという話題がよくでる。
そして、国語の力の中でもとくに重要視されるのが、読解力と言われる力である。

では読解力をつけるにはどうしたらよいのか。
一般によく言われるのが、本をたくさん読めば、読解力がつくという言葉である。
これはまったくの誤りではないが、必要条件であり、十分条件ではない。
心情豊かに読み取ったり、解釈の部分では力は確かにつく。
しかし、国語の中の設問を分析をしてみるとわかることだが、心情豊かに読み取ると出題者の思惑にはまり、誤答を選択することが多い。
テストで必要とされる読解力は、読書では必ずしも身に付けられないという現実がある。
自分自身もそのことに気づいたのは予備校の授業だった。

文章の読解には、文学的なセンスが必要である。
これも真実だろうか。
もしこれが真実だとしたら、学習はあまり意味をもたなくなる。
しかもセンスほどあいまいなものはない。
言葉で論理的に説明できないとき、センスという言葉をつかうことが多い。
センスがなくとも文章読解は出来るのである。

続く。

SCENE195(saitani)

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定義と論理

2006年07月01日 18時44分02秒 | 授業論
ミニバスを指導していて感じる。
確固たる哲学や信条をもって指導しているコーチとそうでないコーチ。
それは試合の采配や選手への指示を見ていても感じることができる。
指導するときには、物事の定義や論理なくして指導できはずはない。
そのことが分かっているのかどうか疑問に思うことがある。

仮にその論理が一般論から多少ずれていても、自分の中にある論理にしたがって導き出されたものであれば、選手やチームが混乱することはない。
指導者が複数いて、たとえ全員が優秀だったとしてもチームは強くなるとは限らない。
なぜならそのような状況の場合、個々がいっていることは素晴らしくても一定のルールに則って指針を示していないため、チームに混乱が生じるのである。

明確なビジョンと方針をもって指導していれば、たとえ失敗しても成長の糧を得ることができる。
指導者が明確な指示を出せないというのは、たとえその指示が適切ではなかったとしても出さないよりは優れていることは経験から分かる。
間違ったら修正すればいいのである。
行動なきところに失敗はなく、失敗なきところに成長はないのである。

教師の中での全く同じだと思う。
思いつき指導が多すぎる。
だた、思いつきにも二種類ある。
きちんとした哲学に基づいた取捨選択のある思いつきとノンポリな思いつき。
後者の場合は、子どもだけでなく周りの仲間にも迷惑を及ぼす。

ミニバスでは、ゾーンディフェンスやゾーンプレスは子どもたちの将来を考えると好ましくないという風潮がある。
しかし、ゾーンディフェンスを論理的に正しく指導できない指導者は、当然ゾーンに対する攻撃方法も指導できない。
自分たちがやってみて、初めてメリット、デメリットが生きた形で分かってくるのである。

まず、教育の世界でも教師が理論的に物事を学び、子どもたちにも論理的に教え、正しくわかりやすく整理していくことも重要である。

SCENE193(saitani)

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