飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

ぼくがつくった砂の汽車は その3

2005年06月30日 20時32分42秒 | 国語科
1995年10月24日 FUTURE NO.104

「話者に見えているものをすべて書きなさい。」
この聞き方をしたのは初めてだったので、とまどった子が2,3人いた。
この質問も詩の言葉を注意深く見ていかなければ答えられないものだ。

夜光虫のシグナル 夕暮れの浜辺
白い貝殻  砂の汽車

以上四つがでた。
何か言いたそうな子がいる。
「そう、それが大切なんだよ。」
と思いながら再度たずねた。
「この四つは話者に見えていますね。」
「あっ!」
という顔だ。
指名した。
「砂の汽車は見えていないと考えます。
 それは『もう見えない』と書かれているからです。」
ここで討論をしてみるのも面白かったが先に進んだ。
3人の子が「見えている。」と言った。
詩は難しい。
解釈と読解がごっちゃになるからだ。

「四つのことがらから、イメージ、想像できる色は何ですか。」

夜光虫のシグナル ←→ 夕暮れ浜辺
(青白い。黄緑)    (黒・茶色・赤・オレンジ)

白い貝殻     ←→ 砂の汽車
(白)         (グレー・黒)

見えているものと見えていないものの対比。
そして、その中での対比。
明るいものと暗いものとの暗示があるような気がする。
しかし、ここまでいくと解釈なので、説明するにとどめた。

SCENE50(saitani)



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ぼくのつくった砂の汽車は その2

2005年06月29日 01時02分29秒 | 国語科
FUTURE NO.103

子どもたちにたずねた。
「話者はだれですか。」
前回の詩でも復習したので、すぐに「ぼく」ということでまとまった。
「この詩をかいたのは、おとなですか。子どもですか。」
  大人  14名  子ども  18名

立場を発表してもらった。
「大人と考えている人は立ちなさい。
 理由を発表しなさい。」
次々に理由を発表するが、明確なものは出てこない。
「作者が子どもの頃を思い出して書いている詩だから。」

というのが主なものである。
この意見を聞いて、多くの子が大人派へ移っていった。

話者と作者は違う。
話者とは、その作品を語っている人物である。
(人間とは限らない。)
「吾輩は猫である」を考えてみればすぐにわかる。
この詩の場合、話者は「子どもの男の子」。
作者は、35・6歳の男性。
日野生三さんである。
作者が、子どもの感性で詩を語っていることがわからないと正しい理解は出来ないのではないか。
もう少し、言葉にこだわった発言を期待したが、着目した子は少なかった。
私の指導力不足の結果である。

SCENE49(saitani)

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ぼくのつくった砂の汽車は その1

2005年06月27日 23時55分35秒 | 国語科
5年生国語下巻の巻頭詩。

教材文は次の通り。

ぼくのつくった砂の汽車は  日野生三

ぼくのつくった砂の汽車は
夕暮れの浜辺には
もう みえない

どこへ走りさったんだろう
白い貝殻をつんだぼくの汽車は

ー遠くに ぴかーっ
 夜光虫のシグナルがともっています

漢字熟語のフラッシュカードを学習部が終えたあと、視写させた。
「黒板の詩を視写しなさい。
 行と行の間は一行開けなさい。
 広く開いているところは二行あけなさい。」
子どもたちは書き始めた。
連をつめてしまう子が4名いた。
約100字として、3分弱で書き終えると予想した。
筆速(字を書く速さ)と学習の伸びとは密接な関係がある。(と私は思っている。)
余裕もっても4分だろう。
実際に全員が書き終えるまでに9分かかった。
このあたりも私にとっての今後の課題である。

「この詩を音読しなさい。
 わからない言葉はてきとうによみなさい。」
順番に5人の子に読ませた。
「一連だけを読みなさい。」
と言って、さらに3人の子に音読させた。
「おかしいところがあります。
 どこだと思いますか。」
10名ほどの子が挙手。
「一連の『もう みえない』は一字あいているので、間をあけないといけない考えます。」
こんな細かい所にも詩の場合、気をつける必要がある。
一字一字にこだわる。
その姿勢が正しい読み取りにつながっていく。
(続く)

FUTURE NO.102より

SCENE48(saitani)


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ある実習生からの手紙

2005年06月26日 01時39分14秒 | 教育論
10年前にある実習生から手紙をもらった。
要旨次のような内容だった。

2組のみなさん、毎日元気に頑張っていますか。
2組のみなさんとは1日しか一緒に過ごせませんでしたが、1組さんとはまた違った雰囲気でとても楽しい1日でした。
よく授業を見学させてもらいましたが、私が今まで受けてきた授業とは違うことばかりで、初めはとても驚きました。
アンケートを書いてもらったのはそんな2組さんに興味をもったからです。
「5年生になって変わったことは?」という質問に対して、言葉遣いが丁寧になった、暴力をふるわなくなった、クラスのみんなと仲良しになった、責任をもたなきゃと自覚が出てきた、勇気を出してなんでもできるようになった…などみんなの生き生きとした声をたくさん聞くことができました。
「自分のここが変わったんだ」と気づくことは、それだけまた一回り立派に成長した証しです。
みんな一人一人がそれぞれ違った自分らしい成長をしていますね。
(略)
話が長くなってしまいました。
私は小学生の頃、とてもこわい先生やお年寄りの先生ばかりが担任の先生だったので、2組のように若くて元気があって、楽しい男の先生が担任の先生でみんながうらやましいです。
担任の先生は何事にもみんなと楽しく挑戦していく気持ちを大切にしていらっしゃいます。
楽しいことはがんばっていく中で感じるものです。
日本一のクラスを目指す2組のみんなは今とても楽しいと思います。
先生と出逢えてよかったですね。
2組のみんなと出逢えてよかったですね。
とても楽しかったです。
ありがとう。

若いということは素晴らしいことだ。
「挑戦」していく勇気がわいてくる。
あの野茂投手も「若者へのメッセージ」をと言われて、「挑戦することが大切だ」と話していた。
実習生も「小学生の頃チャレンジしたことにとても深い意味がある」「経験が大切」「何事も自分の判断で動く」と書いている。
どれも重要なことだ。
私も多くのことを学ばせてもらった。

FUTURE NO.118

SCENE47(saitani)

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放課後の風景

2005年06月26日 00時07分44秒 | 学級経営
1995年12月16日。

今日はクラブ活動がない金曜日だった。
5時間目の授業が終わったあと、用事のある子は下校した。
2学期もあと1週間で終業式を迎える。
楽しい冬休みだ。
しかし、その前に乗り越えなければならない山がある。
今学期のまとめと総点検である。
計算ドリル、漢字ドリル、漢字スキル、作文、1枚新聞等。
計画的に進めている子にとってはなんて事ないことだ。
ところがチェックをしてないのでだいぶためている子は大変だ。
というわけで、しばらくは残って学習に取り組む姿がちらはら見られた。
1学期のときにも、未提出のまま夏休みに入った子が何人かいたので、その失敗を繰り返さないように言っておいた。
そのせいか、どの子も気合いが入っている。

ある子が私のところに来て言った。
「先生、今からハードルみてもらえませんか。」
突然である。
「そういえば、前から時間があったら、ハードルの練習を見てほしいといっていたなあ。」と思い出した。
あいにく今日はコンディションはよくなかった。
風は強いし、気温も低い。
「お願いします。」
熱意に打たれて、承諾する。

以前から、子どもたちは練習したいと言っていたができなかった。
教師がついていないと安全面の問題があるし、体育器具庫の用具も子どもたちが勝手に使えない約束になっている。
「練習しないと、再テストは受けさせない。」
と言っておいたが。
時間がないので一度だけタイムを計った。
風は向かい風で不利である。
それでも精一杯走っていた。
12人の子が参加した。
別に私に強制されたわけではない。
しかも、成績とはまったく関係なく、再挑戦したいと言ってきたのだ。
(子どもたちには評価結果は連絡してなかったので)
自分の結果に納得出来なかったのだろう。
「タイムがあがった。うれしい。」
と跳びあがって喜んでいた。
私は子どもたちの姿を見て嬉しかった。
子どもたちは変わってきた。
夕暮れの校庭に吹く風が、あたたかく感じられた。
放課後の風景だった。

FUTURE NO.145

SCENE46(saitani)

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アシスト その2

2005年06月19日 19時32分46秒 | 学級経営
私はおとなしいということは悪いことではないと思う。
個性を伸ばす、個性重視が叫ばれている昨今、おとなしいと言うことも立派な個性であることは認める。
しかし、学級総会において、一言も発言しないといういうことは、おとなしいと言うことでは片づけられないし、別の問題であると思う。
まだ、男子の批判は続いている。
女子がこれほどまでに寡黙になってしまったのはなぜだろう。
どの学校でも期待に胸をふくらませて入学する新入生は活発である。
教師が質問すると、「ハイ、ハイ。」と元気に発言したがる。
なのに高学年になるとなぜ黙ってしまうのか。

SCENE45(saitani)

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アシスト その1

2005年06月18日 23時59分24秒 | 学級経営
教師としての自分が、そのもてる力量の隅々まで、幹も枝も小枝も、そして葉っぱも、葉っぱについたちりくずまで、点検され問いつめられたことは今までなかった。

私はこの言葉の意味が理解できなかった。
何か読んでも長い間ピンとこなかったのである。
それが、どこに原因があるのか自分自身にはわからなかった。
しかし、ひとつのできごとを通して、この言葉のもつ重みが、わずかながらではあるがわかりかけたような気がした。
私は、子どもたちの中にある差別を徹底的に批判する。
ごまかそうとしても許さない。
ならば私もまた批判されるべきである。
それでなければ不公平である。
私は経験もなく、技量も未熟である。
ともすると独善に陥りがちである。
ならば、常に「公開」と「批判」が不可欠である。

それは金曜日の第5時、学級会でのできごとだった。
私は来客があり、少し遅れて教室へ向かった。
教室の前で立ち止まり、しばらく子どもたちの話し合いの様子を聞いていた。
議題は「1年生を迎える会」の出し物とプレゼントを何にするかである。
出し物は比較的速く決まったようであるが、プレゼントを文房具にするか否かで喧々囂々の議論が続いていた。
しかし、その進行は司会者を無視し、声の大きい子の意見が、また、元気のよい子の意見が優勢を占めていた。
教室に入り、椅子に腰掛けた。
しばらく鉛筆にどのような飾りをつけるかというような議論が続いた後、ある子が立って、意見を言った。
「さっきから女子は何も言わないけれど意見はないんですか。
 ぼくは女子の考えを聞きたい。」
この意見に続いて他の男子も女子に対する批判を始めた。
「黙っていると言うことは、プレゼントなんてどうでもいいと思っているんじゃないんですか。」
「いつもいつも男子が決めて、クラスの仲間だったらもっと発表すべきだ。」
完全に議論は女子が討議に関して、無関心であり、無責任である事への批判へ集中した。
(続く)

SCENE44(saitani)

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教師であること

2005年06月17日 01時02分26秒 | 教師論
私はなぜ教師になったのか。
子どもたちにもたずねられる。
若い頃はあまり考えもしないで、「子どもがすきだから。」「教えることが好きだから。」と答えていたように思う。
しかし、「それでいいのかな。」と思うようになった。
もちろん、私は、子どもが好きだし、教えると言うことも楽しい。
しかし、それだけで子どもたちの前に立ち、「先生」とよばれてもいいのかなと考えてしまうのである。

教師だったら、当たり前のことをことさらに口に出してしまうことに抵抗を感じるのだ。
以前話した手塚治虫の「ブラックジャック」。
あの漫画を読んでいて感じた。
子どもを愛するように、患者を愛するだけでは命は助けられない。
その愛を相手に伝える術をもたない人間は、それだけでは不十分ではないか。
何度も言うが心が大切であるし、優しさ、思いやりをもつということは、基本的なことであり、もっとも重要なことだ。
しかし、それを基にした確かなもの、教師として不可欠なものを身につけたいと思っている。

子どもの進歩は、ゆっくりとしたものだ。
しかもその一歩はささやかなものだ。
その一歩を進むのにも子どもたちは全力をかたむけ、全精神をすりへらしながら前進する。
私はこの1年間、こんなささやかな進歩をいくつも見てきた。
そして、その手助けをしたいと考え、努力してきた。
教師の力なんてたかがしれていると思う。
私は子どもたちとの生活の中で、そんなささやかな前進にすべてを傾ける職業を選んでよかった思っている。

SCENE43(saitani)


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クラスが成長すること

2005年06月12日 05時06分39秒 | 学級経営
1995年2月15日 BLIEVE 206号より

先日の土曜日。
児童集会のあとでの出来事である。
集会で行ったゲームが「みの虫になろう」という新聞紙を大量に使うものだった。
終了後の処理に手間取り、休み時間も終わろうとしていた。
3組の子たちだけは残り、後かたづけを手伝ってくれた。
子どもたちは運動場に散らばった紙片を拾い集めていた。
全校で活動した後は必ず、最後を確認する。
4月から言い続けてきたことの一つである。
これも最上級生の6年生としての責任である。
学習とは関係ないことかもしれないが、立派なことである。

時間も過ぎ、授業が始まりそうだったので、一人の子に全員教室にもどり、国語やっているように指示した。
学習部のシステムがあるのでとくに言わなくても、子どもたちが漢字練習や本読みを指示することはできるようになっていた。
5分後、一人の子が再び私の所に来て、
「先生、国語を討論して、授業を進めていてもいいですか。」
私は大きく頷いた。
知的好奇心を燃やし、論争したり、話し合ったりして知力を高めあうのが学級である。
4月に子どもたちに約束したことがある。
「私は、このクラスを君たちだけで討論によって授業できる学級にするよ。」
その約束がようやく実現できたと思った。
しかし、ここまでに11ヶ月という時間が必要だった。

SCENE42(saitani)

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正しい意見が通るように

2005年06月11日 06時43分28秒 | 授業論
私は討論の授業にあこがれる。
だから、子どもたちの発表にはこだわりをもつ。
子どもたちが自分の考えをもち、根拠の妥当性を検討しながら真実を見つけ出していく。
そんな知的な授業にあこがれる。
しかし、現実とのギャップに愕然とする。
自分の実践のみすぼらしさに反省する日々である。
理想は遠い夢のまた夢だ。
それでも、一歩一歩前進していきたい。
(心は子どもたちとまったく同じ)

討論とは新しい自己との出会いである。
最初考えていたことが、仲間の意見を聞いたり、反論されることにより変化していく。
そこには、それ以前にはまったく考えもしなかった新しい事物の認識生まれてくる。
これはただ単に、自分の考えが正しかったとか、間違っていたとかいう結論だけをみるだけでないもっと大切なものがある。
子どもと子どもが衝突を繰り返しいく。
その過程において、相手の考えを知り、様々考えに出会う。
討論の力とは、これから子どもたち出会うであろう場面で不可欠な力だと私は考えている。

しかし、討論の力をあまり協調しすぎると次のような批判が出てくる。
「相手の揚げ足をとったり、黒を白と言いくるめたりする方法を教えるのはよくない」
本当にそうなのだろうか。
「揚げ足をとったり、間違いを正しいというような議論では絶対に勝てない。
 正しいことを誠実に言う方が勝つ。」
こうでなければならない。
しかし、現実は違う。
正しいことを誠実に言っても、議論に勝てないこともたくさんある。
自分の方が正しいのだと思っていても、言い負かされてしまう。
討論の方法を身につけ、人と論を分けて考え、冷静に話し合うことの大切さを理解してほしいと思う。
やはり相手の立場を理解したり、物事を前向きに考えていく姿勢もこれからの子どもたちには大切だと考えている。
だから、正しい側でありながら、討論の力がなく、拙劣な方法が原因で負けたりすることがないようにしなければならない。
そのためにも討論の力は必要だと考えている。

SCENE41(saitani)


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