飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

借境調心

2020年08月30日 12時32分30秒 | 趣味
菜根譚(洪自誠)の言葉。

山林泉石の間に徜徉(しょうよう)して、塵心漸く息み、詩書図画の内に夷猶して、俗気潜かに消ゆ。
故に君子は物を玩びて志を喪わずと雖も、亦た常に境を借りて心を調う。(後集四五)

意味は次の通り。

山や林、泉や石といった自然の中を散歩して、世俗の塵にまみれた心はようやく消え去り、一方で、詩書や絵画といった趣味の中にゆったりと遊んで、世俗の気質も消えていく。
だから、君子たるものは、外物に気を取られて心を失ってはならないが、一方では、常に外境を借りて心を調える必要がある。

最近は、空前のキャンプばやりである。
アウトドア商品は売れ、You Tubeでもキャンプ動画は人気である。
人は何故、キャンプをするのだろう。
この言葉にあたったときに一つの考え方が浮かんだ。
人が旅行やキャンプいくときにはその多くは非日常性を求める事が多い。
そこには日常の人間関係の煩わしさもなく、時間的なしばりも誰からから呼び出されることもない。
こういった中で、精神が開放され、世俗の塵も僅かではあるが落とせると感じるのではないだろうか。

saitani

公と私

2020年08月30日 05時38分01秒 | 人生論
公私の別を考える。
教育の世界でも教師はよく口にする。
それは、子どもたちの立ち居振る舞いをみているとこの辺の区別がついていないと思うことが多くあるからだと思う。
公の立場や環境の中では、それを意識した言動が不可欠となる。
これを欠いてしますと人間関係に軋轢が生まれたり、個人の問題ならそれは改善はまだいいが、集団全体に波及していくと学級崩壊にもなりかねない。

全体のことを考えず、自分の利益になることだけを優先させたり、考えたりする子供が多い。
それは世の中や大人社会の反映とも言えるのだが。

そもそもこの公と私の漢字のなりたちはどうなっているのだろうか。
どちらの漢字にも「ム」という字が使われている。
「ム」には小さく取り囲むという意味がある。
私の禾は稲という意味である。
すなわち私とは、個人で稲を独り占めする状態を表している。

それに対して公。
この漢字の「八」の部分は、入り口をあけて開放するという意味なので、公は富を独り占めせず、みんなでわかちあっていこうとする状態を示していることになる。
自分だけの利益を考えるのではなく、みんなの得を考えないとこの世界を成り立たないということを教えている。
国や社会という大きな集団だけなく、学級や家族という小さな共同体も同じことである。
人と人が一緒に生活していくということは公の精神を持たなければならいことを漢字は教えている。

saitani


万里一空

2020年08月28日 10時38分35秒 | 人生論
「万理一空」は宮本武蔵の言葉である。
もともとは宮本武蔵の著した「五輪書」の「山水三千世界を万理一空に入れ、満天地ともまとめる」に由来する表現である。
意味は、「世界のすべては同じ一つの空の下にある、という見方を表す表現である。どこまで行っても同じ世界だと、冷静に物事を捉える精神的境地を示すとされる。転じて、どこまでも同じ一つの目標を見据え、たゆまず努力を続けるという心構えを表す」。

生きていれば様々な困難や悩みに突き当たる。
しかし、自分の生きている世界が昨日までと劇的に変化したとしても冷静に考えれば、なにも変わっている事はない。
変わってしまったと考えているのは、自分自身の心がそうしているだけなのだ。
だから、どこまでも自分の目標を見失うことなく先進努力することが重要である。

もっと考えれば、空も地上も別の世界ではなく一つにつながっている。
だから、たとえ故人となってもその存在や志はその人を覚えている人がいる限り生き続ける。
そう言う気持ちで、遺志をつないでいくことも大事な事だと思う。

宮本武蔵は、五輪書の中で拍子の重要性を説いている。
武蔵によれば、実際に敵と剣を交える場面において常に気にかけるべきものだと言う。
武蔵はこのキーワードを、説明する状況によって微妙に意味を換えているが、「リズム・タイミング」といったように現在では考えて良いと思う。
武蔵の生きた時代では、弓を射る・鉄砲を撃つ・馬に乗るといった動作には「拍子」つまりリズムが最も重要だと考えたのである。
転じて、現代に当てはめてみても「効率よい仕事の動き」とは、リズミカルなものである。

授業では、リズムとテンポが重要である。
これを意識していないと優れた授業は成立しない。
しかし、実際の授業後の検討会で、この点を指摘する人は少ない。
リズム、授業の流れの強弱。
テンポ、授業全体の流れの速さ。
一般的にみて、テンポは遅すぎる実践が多い。

万里一空の境地に至るには、鍛錬と工夫、吟味が必要。
単なる日々の授業を繰り返しているだけではプロへの道は遠のいて行くだけだ。
また、リズムとタイミングについても、拍子に背くことが一番まずい。
あたる拍子、間の拍子、背く拍子を概念化して捉え、習得しなければならない。

Saitani

勉強の黄金比

2020年08月28日 01時04分20秒 | 教育論
少なからず、また、好むと好まざるにかかわらず試験というものからは人は逃れられない。
いかなる職業であっても、昇進や能力アップやステイタスを上げていくためには試験は欠かせないのが現実である。
この試験を受けるとき、何も準備をしないで受ける人はいないだろう。
当然、試験勉強をする。
となると、できるだけ効率よく行いたいと考えるのが当然である。

勉強するときに必須となるのが、教科書と問題集。
この2つの使用頻度の割合は人によって異なるだろう。
教科書だけを読んでいてもだめだし、問題集ばかりをやっていても効率が悪い。
その黄金比率が、「暗記」3:「問題集」7だそうだ。
教科書で手順や定理を理解し、その上で問題集をといていく。
割合が7なので、できるだけ多くの問題集をとくというのがセオリーなのは言うまでもない。
問題をとくという行動によって、蓄えた知識を使う。
そのことによって定着がはかられるのである。
だれでも、経験的に考えれば頷ける考え方である。

ちなみに、インプットとアウトプットの黄金比も3対7。
学んだことの7割はアウトプットしないと意味がないということになる。

saitani


読書感想

2020年08月27日 10時45分47秒 | 仕事術
最近アウトプットの重要性を説いた本がたくさん出ている。
インプットは誰でもある程度はするが、アウトプットはなかなかできないのが現実である。
インプットは受動的だが、アウトプットは能動的であることも要因であるかもしれない。

読書のメリットはなんだろう。
次のような考え方があるという。

1 結晶化された知識を得られる
2 時間を獲得できる
3 仕事力がアップする
4 健康になる
5 頭がよくなる
6 人生が劇的に変化する
7 飛躍的に成長できる
8 楽しい

本を読んでいて残念なことは、読み終わったあとその殆どを覚えていないということだ。
最近はそんなものだと思うようにしているのだが、残念な気持ちを残る。
これはいくらかでも改善するのが、意図的なアウトプットである。

そのアウトプットの一つの手立てとして読書感想を勧めている方もいる。
そのメリットして上げている点は次のとおりである。

1 本の内容が、圧倒的に記憶として定着する
2 本の内容を、より深く理解することができる
3 本の内容が整理される
4 文章力がアップする
5 思考力、考える力がアップする
6 自己洞察が進む
7 飛躍的に自己成長ができる

読書感想はこのような効果があるだという。
書き方の手順はいたってシンプルである。

構造はいたって簡単、ビフォー+アフター。
ビフォー この本を読む前の私は○○でした。
気付き この本を読んで私は、△△について気付きました。
TO DO 今後、☓☓を実行していこうと思います。

余裕があればこれに肉付けをしていく。

これは、感想文を書くことに困っている子どもたちにも応用できるかもしれない。
構造がシンプルなだけに、わかりやすい。

saitani

この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草取るなり

2020年08月24日 11時47分22秒 | 人生論
この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草取るなり 二宮尊徳

人はどうにもならない未来に対して根拠のない不安や恐れを感じる。
心配しても仕方のないことと分かっていても悪ことを考えてしまうのは人間が人間である所以とも言える。
しかし、未来を案じることなく今を大切に生きる事が大切であることをこの言葉は教えてくれる。
未来も過去も存在せず、あるのは今現在だけ。
現在の連続が人生なのである。
今できることに全力をつくす、このことが実り多い人生にもつながっていくのである。

Saitani

発問の生産性

2020年08月23日 10時35分11秒 | 授業論
優れた発問とはなんだろう。
次のように言うことができる。
「優れた発問とは、子供の思考を広げ、深め、高めるのに大きな貢献をしている発問」
さらには、問われて気づく、問われて初めて見えてくる発問である。
通読しただけは通常子どもたちは印象批評しかもつことができない。
まあ、そうとう読書好きで、様々な経験をしている子は別だが。

この印象批評を、分析批評し、思索批評にまで高めるのが教師の役目であり、技量のなせる技である。
倉沢栄吉の「読解指導」の中に次のような実践がある。
教材は、アンデルセンの「裸の王様」である。
このお話の発問を考えるとどうなるか。
倉沢は「このお話の中で一番愚かな者は誰か」と問うた。
当然、多くの子供達は「王様である」ということになるだろう。
そこで、教師は「本当にそうだろうか」と問う・
そうすると「王様が一番愚かだ」と言っていた子どもたちは、王様には王様の立場や状況というものがあり、無理もないことだったと理解する。

そこで、二回目に同じ発問する。
「では、一番愚かな者は一体誰なのか」
そこで取り巻きの大臣だという意見が出てくるだろう。
では、なぜ大臣は見えもしないものを見えると言ったのか。
そこで、また気づくのである。
大臣の気持ちや状況、無理からぬ理由や心情を理解する。

さらに、子どもたちに問う。
「一番愚かな者は一体誰だろう」
残るは民衆である。
民衆には失うべき地位や名誉もない。
にも関わらず「裸だ」といえない。
これが一番愚かだという考えを持つ子もいるだろう。
一読しただけでは気が付かないことに気づいていく。
読みを深めるとは多様な価値観が理解でき、多面的に物事をみられるということだ。
その点では、日常生活に通ずる部分が大きい。

最終的は、本当のことを言ったのはあどけない一人の子供。
そこで、本当の主題に気づくのである。
純粋さの畏敬に。

このような発問を考えるということが発問の生産性だということだ。

saitani

引用の仕方

2020年08月22日 09時52分18秒 | 授業論
資料文を読んで作文をするときは、必ず資料文からの引用をしなければならない。
他人の文章を使って論ずるのに、証拠を示さないのは不公平である。

引用の仕方。

〇〇氏は言う。
「言ったことを引用する」
……か。(疑問文による問題提起)
……である。(問題に対する答え)
その理由は次の三点である。
一、……
二、……
三、……

まず、材料(データ)となる事実を示す。
次にこの事実についての問題提起がなされる。
事実を解釈して、この問題に対する答えを出す。
この答えの理由を示す。

saitani

作文教育について

2020年08月22日 09時39分52秒 | 教育論
様々なことを気づかせてくれる言葉。

作文教育は、「何故、何を書かせるか」ではなく、単に「どのように書かせるか」とい矮小な技術主義になってしまっている。
「上手なうまい作文」が重視されている。
内容は自分個人の生活の報告になる。

自分の思想を自由に書かせる。
そのためには、学習者が比較・疑問・批判の思考をするように刺激し促さねばならない。
比較・疑問・批判の書き方を教えねばならない。

作文教育には、自由・文化の空気が要る。

自分の意見を書く作文によって自己は成長する。
自分と他人との異同・関係の意識が発達するのである。

自分の意見を書く学力を個々人に保障しなければ、民主主義社会は成り立たない。
作文教育の内容の主流は、意見文であるべきである。

「おとな」とはどんな、おのか。
自分の思想を持ち、それを表現し得る人である。
表現によって他者に影響しようとするのである。

「思想」とは、複数の状況を通じて働き続ける総括的・一般的な観念である。
おとなは、そのような観念を持つ。

saitani