飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

叱られ方

2015年01月24日 16時49分28秒 | 教育論
以前も書いたが、子供たちと接して叱られ方を指導されたことがないことがほとんどだと感じる。
人間、何かを行動すれば必ず失敗する。
うまくいかないことの方が多い。
自己完結するような問題であればいいのだが、多くは少なからず人に迷惑をかける結果となる。
最近は、人に迷惑をかけていることにも気がつかない人も多いが。

その場合、叱られたり、注意をうけることとなるが、この時の考え方次第で大きく成長の度合いは変わってくる。
素直な気持ちで受け入れれば、その失敗は単なる失敗ではなく、うまくいかない意義ある経験となるが、問題の本質である原因を責任転嫁することに終始すれば、周りの人間から見放され、成長はストップする。

では、どのような気持ちで受け入れればいいのか。
ここに一つにモデルがある。

注意を与える側も、怒るのではなく、叱るという意識が重要である。

注意を受ける側のステップ。

1 受容 受け入れる。
2 反省 行いを振り返り、良いか悪いかを考えること。
3 謝罪 あやまちを謝ること。
4 改善 悪いことを改めてよくすること。
5 感謝 してもらったこと、叱られたことにありがたいと思うこと。

この気持ちをきちんともてれば、たとえ遅々たる歩みであっても人間的に成長できる。

saitani

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群れと集団

2015年01月24日 16時48分48秒 | 学級経営
群れと姑団の違い。
最近の学級は集団ではなく、群れという傾向が強い。

個人が自分らしさを発揮して自立しているグループが集団。
個人の考えよりもその場になんとなく流れる空気、特にマイナスの空気が勝るのが群れ。

例えば、教室から特別教室への移動の際、おしゃべりを友達としたあとようやく並ぶのは群れ。
すっと列をつくることに協力できるのは集団。

休み時間のトイレ、べつに行きたくもないのに、友達がいくからと一緒にいくのは群れ。
行きたいときに一人でも行くのは集団。

一人が美しいという価値観をもつことも集団として大事なこと。

saitani

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価値語

2015年01月24日 16時48分04秒 | 学級経営
最近読んだ菊池省三氏の本の中に登場する言葉、価値語である。
この価値語を意識して指導している先生はどれくらいいるだどう。
一見すると普通の言葉だが、その単純な言葉には、その学級独特の文化や隠れ指示が含まれている。
その言葉を発すれば、多くの付加価値まで理解できる言葉である。

たとえばこんな言葉である。

公の言葉を使いなさい。
話は一回で聴くのです。
素直な人は伸びる人です。
あふれさせたい言葉、無くしたい言葉を意識しなさい。
はきはきと美しい日本語で。
質よりも量を求めなさい。
世のため人のために何をしていますか。
当たり前のことを当たり前にするのです。
言動に主語をいれなさい。
もっと簡潔に話しなさい。
昨日よりも成長したことを言いなさい。
恥ずかしいと言ってなにもしないのが恥ずかしいのです。
もてる力を発揮しなさい。


理由のない意見はいじめと同じ。
朝と帰りのあいさつはきちんとします。
話を聞かない人と一緒にいると時間のむだです。
君が悪いのではない、君のその行為が悪いのです。
その行為や言葉の周りへの影響を考えなさい。
あなたらしだいきていますか。
誰とでも仲良くします、できますか。
あいさつや掃除もできないで他に何ができますか。

できないのですか、しないのですか。
基準はあなたではなく常識です。
それは去年と同じではないですか。
幼稚園のこどものような理由はいなわいように、
常識です。

saitani

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暗記学習

2015年01月10日 16時25分12秒 | 授業論
子供たちの創造性の話がよく話題になる。
創造性を育てることに異論はないが、ではその方法論についてはどうだろう。
暗記学習に関して否定的な見解をもっている教師は多い。
詰め込み学習はよくない。

ある面では、正しいのかもしれないが、本質の部分では間違っていると思う。
暗記学習こそが、学習の基本であり、出発点である。
担任時代は、学年にかかわらず暗証を子供たちにかした。
学年終了時までに覚えるべき、名文、古文など50あまり。
そして、百人一首は100首である。
全員とまではいかないが、多くの子供たちがそれをクリアして進級していった。
さらに、意外だったのは子供たちが意欲的に進んで取り組んでいたことだ。
おそらく自分の進歩が目に見える形あらわれることと、暗唱を繰り返すことにより、発想が豊かになることを実感していたからだと想像する。

理解と暗記は人間の意識に関係しているという。
人間の脳には、表層の意識と深層の意識が有り、人間を動かしているのは深層の意識が大きいという。
理解は、表層に関わり、暗記は深層に関わる。
深層部分を鍛えるには、理解を中心とした学習ではなく、暗記を中心とした活動が不可欠である。
しかも、ハードな記憶訓練である。
このハードな記憶の重要性は、世界的にも広くスタンダードとなっている事実である。

現在の日本は、学級崩壊や学校崩壊が日常茶飯事の出来事として取り上げられる。
この原因は複合的ではあるが、この暗記学習も関係している。
学級崩壊している学級は、規律や秩序がない。
道徳観や本来見に付けるべき礼儀がわかっていない。
それも言葉としてしっているだけで、大事な価値観を体得できていないからだ。

逆に、規律ある誰もが成長できている学級は、何らかの形で暗唱が行われていること多い。
それは、口で唱えたことはやがて、行動に移され、一人ひとりの正しい道徳観を形成していくからである。

年代や単語を暗記することも大切だが、暗記そのものが質の良い頭や記録力をつくっていくことを忘れてはならない。

明治の教育は、そのこと徹底され強制的に行われてきた。
そのおかげで、日本は欧米列強に追いつき、経済発展をとげることができたのである。
また、現在でも世界的に賞賛される日本人の道徳感の高さは、江戸時代から脈々と受け継がれてきた日本人の四書五経に代表される道徳感が、伝統として引き継がれてきたからに他ならない。

いきなり創作をさせることの無意味さを考え、今一度、習作から創作へという広瀬淡窓の言葉を考えてみるべきである。

saitani

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内容は正しくても、説得力はない

2015年01月10日 14時14分18秒 | 教育論
教師という仕事はアドバイスや助言をすすことが多々ある。
基本的は子供が多いが、保護者にすることもある。
では、その助言がそのまま自分に返ってきたらどうなるかと考えると恐ろしくなる。
そんな畏れをもつのは私だけで、多くの教師は素晴らしい方々なので、そんな心配はいらないのかもしれないが。

アドバイスほど安易なものはないということは肝に銘じておいたがいい。
自分のことはまったくできないのに、人の世話を熱心に焼く子が教室にはいる。
その理由は何か。
それは単純明快、人の世話を焼くほうが自分のことをするよりも楽だからである。
身の回りの整理整頓ができない子が、隣の子に「かたづけないとだめだよ」なんていっている場面をよく見る。
言葉と実態が伴わないのである。

教師にもよくある。
事実はおなじであっても、放任に過ぎないものを個性尊重と言う。
統率力のない状態を、自主性の尊重などと言う。
美しく、批判できない言葉で責任逃れをするのである。
言葉にはそういう恐ろしい面がある。

言葉が人を動かすのでなく、人が人を動かすのである。

本来自分に言うべきことを、自分を棚に上げて他人言ってはならない。

このことも忘れてはならない。

自分が自ら実行している人、もしくはできなくてもきちんと失敗から学んで行動しようとしている人の言葉には多みがある。

saitani

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言葉と生き様

2015年01月10日 13時52分02秒 | 教師論
教師の言葉は、子供にとって大きな意味をもつ。
その言葉は、学級の方向性を決めるものであり、規律を確立させるものだからだ。
よく若いころに言われた、教師は本来独立していなくてはならない三権をすべて掌握している専制(先生)君主なのだと。
その自覚と覚悟がないと道を大きくあやまる。
朝令暮改のような発言をしていたり、率先垂範を旨として行動していないようなリーダーには誰もついてこないし、集団が乱れるのは当然である。

自分が発する一言一言の重みを自覚して、その言葉に意味付け、価値付けすることも教師は忘れてはならない。
今まで自分がどんな生き方をしてきたのか、どんな人生哲学をもって行動してきたのか、熱くいきるような経験をしてきたのか、その事実が言葉に重みをもたせる。
人間的に未熟な子供たちであっても、その部分を見抜く力は大人以上にするどい。

こんな言葉がある。

すべての言葉は、それを語った人間の、骨肉を備えた個人の、そのいきてきた時間の厚みによって説得力をもったり、持たなかったりする。正しかったり、正しくなかったりする。
「誰が語っても真実であるような言葉」というのももちろんありますでしょう。でも、それは「昨日南の風が吹いて、雨がふりました」というようなストレートニュースだけです。少しでも価値判断を含むものは、政治記事にしても、経済記事にしても、そのコンテンツの重みや深みは、固有名詞を持った個人が担保する他ないと僕は思うのです。  内田樹「街場のメディア論」(光文社新書)

saitani

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教室の文化

2015年01月10日 12時48分03秒 | 学級経営
私はよく本屋と同時に文具店に行く。
大型の店舗には、ペンひとつにしても多くの種類がそろっている。
字を書いたり、色をぬるだけならどんなペンであろうと十分にその役目を果たす。
しかし、なぜかこだわる。
それは、それを教室に持ち込んだ時に、子供たちの目に触れ、子供たちの話題になるからだ。
そのささいな感情は教師への親近感であったり、あこがれにつながっていく。
子供たちは、今、自分が夢中になっていることを先生にも知っていてほしいのだ。
そして、同じ気持になって話をしたい、そう思っている。
だから、時代の先端の情報を教師を常に学んでいなければならない。

昔、学校は文化や情報の発信基地だった。
学校にいけば何でもわかったし、新しい機器なども学校にまず最初に導入された。
その機器を使いこなす教師には、羨望の眼差しが注がれた。
しかし、現在は学校は時代の流れに取り残され、前世紀の遺物的なものがたくさんある。
「まだ、これを使っているんですか」
保護者から言われることがある。
ブラウン管のテレビがある場所は、今は学校くらいなものだろう。

教室の中には時代の文化が必要である。
その発信は、教師がすべきである。
授業の本質はことなるが、教師が学級の文化をつくっていく上では非常に重要な要素である。
よれよれのジャージとくたびれたスリッパで授業をする教師には現代の子供たちはあこがれない。

時代にながれというのはそういうものだ。

saitani

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