飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

親切とは

2017年06月30日 08時37分34秒 | 人生論
仕事柄、親切とは何かを考えることが多い。
授業を組み立てたり、子どもたちに人間としても行動の在り方を話したりすることが多いからだ。
あまり、説教じみたことは言いたくないのだが、親切とは何かを考えることは日常生活でもままある。

親切と相対にある考え方にお節介という考えがある。
よく、小さな親切、大きなお節介などと言われる。
これは、親切だと思ってやっていることが、相手にしてみればお節介になっているということである。
人に親切にするときに、相手のことを思って実行することは当たり前の感情である。
ここまではよい。
しかし、この先、見返りを求めたり、相手のことをよく考えずにしたりすることは、本当の親切にならないと感じる・

親切は、人のためにするのではなく、自分のためにすると考えておいた方がいい。
情けは人のためならずという諺もある。
自分は自分の信念に基づいて正しいことをしているだけというくらいが本質に近いのではないか。

海外にはペイフォワードという考え方もある。
ペイバックしている限り、親切の輪は広がっていかない。
しかし、日常生活ではペイバックしないと感情を害することもままある。
それは、これだけ親切にしているのにお礼一つしないと怒りが根底にある。
人に親切にした時点で、親切の本質は終了しているのである。

親切心から、何かものを貸して、戻ってこなかったり、破損してしまった場合も、戻ってこないのがいやなら最初から貸さないことである。
親切とはそういうものである。

本当に親切な人はむやみ人助けをしないのではないか。
困っている人を助けることは大事なことだし、そうすべきであることは間違いない。
しかし、自分の力でなんとかしようとしている人には見守ることも必要である。
人は自分から学ぼうとするときに本当に成長するし、失敗や困難から学ぶことも不可欠なのだから。

saitani


特別の教科 道徳 どのような発問をすべきか

2017年06月27日 11時25分47秒 | 道徳科
前のブログで、「質の高い多様な指導法」として三つの学習形態を学習指導要領より整理した。
さらに、その三つの学習形態での具体的な発問を考えてみる。

「自我関与が中心の学習」の発問例
・もしあたなが、「わたし」だったら、○○したときどんなことを考えますか
・あなたが「わたし」の立場だったら、このあとどうしますか

「問題解決的な学習」の発問例
・ここでは何が問題になっていますか
・何と何で迷っているのですか
・同じような場面に出会ったら、自分ならどう行動するでしょうか
・よりよい解決方法にはどのようなものが考えられるでしょうか

「道徳的行為に関する体験的な学習」の発問例
・この場面であなたらどう声かけをしますか。実際にやってみましょう。
・(ハンディキャップ・福祉を経験)このような体験をしたときに感想はどうですか。

さらに中心発問では、二種類のもの意識して使い分ける必要もある。

ひとつは、登場人物の心情判断や行為の理由を問う「場面発問」。
もうひとつは、個人の価値判断名や生活経験を導く、「テーマ発問」。
今後は、個人的には後者の発問が重視されるべきだと考えられる。

先日、研修で訪れた学校では、問題解決的な学習として、資料を読んだあと、この資料から「考えたいこと」「問題にしたいこと」というように大きく問う発問からグループで議論する授業形態もあった。

道徳的諸価値を理解する面も三つある。
1 価値理解…価値そのものを理解する
2 人間理解…人物そのものを理解する
3 他者理解…相手や周りにいる人物の価値判断も理解する

saitani

特別の教科 道徳 道徳科の目標

2017年06月27日 11時11分00秒 | 道徳科
研究を進めるときに言葉の定義や理解は不要不可欠である。
研究を進める教師が、一つ一つの言葉をどのように理解しているかは、同じ土俵にたって議論するという点でも必要である。

道徳科の目標である「自己の生き方についての考えを深める」とはどういうことか。

1 自分自身の問題として受け止める
2 多様な考え方や感じ方を知り、集団の中の自分をみつめる
3 これからの自己の生き方を考える

このような終末になれば、この目標は達成できたといえるだろう。

さらに具体的に考える。
この考えを道徳的な実践意欲や態度につなげるには「これから自分には何ができるだろうか」「今、自分には、何が足りないのか」という考えをもてるようにしたい。

saitani

特別の教科 道徳 道徳教育の現状

2017年06月26日 15時02分50秒 | 道徳科
現在の行われている道徳の授業の現状はどうであるのか。

1 主題やねらいの設定が不十分のまま「基本型」に過度の固執している。
  「基本型」以外、認めない風潮も強い。

2 指導過程を「型」どおりに実践していればよいとする姿勢が強い。本来の道徳の目標を達成するための方法論は多様であるべきなのに画一的な指導が大勢を占めている。

3 指導が固定化、形骸化している。価値の方向付け、展開前段(資料の読み取り)、展開後段(価値の一般化、主体的自覚)終末等の流れを基本としているところがあり、子供たちは先が予想できてしまい自由な発想を妨げている。

4 登場人物の心情の読み取りのみに偏っている。大きく考えると心情を問うのは国語科の目標であり、道徳では行動を問う必要がある。行動の裏には心情があり、その部分の理解は必要だが、国語科的な心情読み取りは時間的にも難しい。

5 望ましいと思われることを言わせたり、書かせたりする指導に終始している。決意表明をしても何も変わらす、道徳科本来のねらいとも異なる。

saitani

特別の教科 道徳 質の高い多様な指導法

2017年06月26日 14時42分32秒 | 道徳科
道徳科の指導方法はどのように変わるのか。
学習指導要領の解説書の中に、「質の高い多様な指導法」を用いることが望ましいと書かれている。
これまでの基本型と言われるものをもとにしながらも新しいと授業展開を模索する必要性を説いている。

本来、道徳の目標は「道徳性を養う」ことが究極の目標である。
この道徳性とは、「道徳的諸価値の理解(=理解)」と「自己の(人間としての)生き方についての考え(=思考)」から成り立っている。
道徳科の学習で育てる資質・能力とは、自立した人間として他者と共によりよく生きることを意味している。

では、このような道徳性や目標を達成するために考える授業が「質の高い太陽奈指導法」ということになるだろう。

例示として次の三つがあがっている。

1 読み物教材の登場人物への自我関与が中心の学習(自我関与)
2 問題解決的な学習(問題解決)
3 道徳的行為に関する体験的な学習(体験的)

具体的にどのような発問や投げかけを子どもたちにするのか。

◎自我関与…もし、あなたが○○ならどうしますか。学級の解決策を考える。単なる方法論だけにならない注意が必要

◎問題解決的…どこに問題があったのだろうか。どうすればトラブルにならずにすんだのだろうか。自分ならどのように問題を解決しますか。

◎体験的…従来からあるロールプレイや役割演技

saitani



「いま、ここ」

2017年06月25日 09時13分48秒 | 人生論
あまりに先のことを考えすぎてしまうことがある。
生きるということは今の連続であることは確かであるが、つい線で考えてしまう。
アドラー心理学では次のように考える。

人生全体にうすらぼんやりとした光をあてているからこそ、過去や未来がみえてしまう。
いや、見えるような気がしてしまう。
しかし、もしも、「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなる。
われわれは、もっと「いま」だけを真剣に生きるべきなのだ。
過去がみえるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣にいきておらず、うすらぼんやりとした光の中に生きていいる証である。
人生は連続する刹那である。
過去も未来も存在しない。
人は過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。
過去にどんなことがあったかなど、「いま、ここ」にはなんにも関係のないこと。
未来がどうであるかなど、「いま、ここ」で考える問題ではない。
「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉は出てこない。

「いま、ここ」にスポットライトを当てるというのは、いまできることを真剣かつ丁寧にやっていくこでもある。
しみじみと考えさせられる。

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