飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

プロアクティブの原則

2007年02月20日 22時56分54秒 | 授業論
本年度は気候的には穏やかな1年であったように思う。
休校にするようなこともなかった、授業を打ち切りにして早めに下校させると言うこともなかった。
子どもたちの安全を確保し、命を預かっている学校としてはほっとしている。

しかし、今の時代、自然災害以外にも様々な危機管理が必要とされている。
この危機管理の中でも、意思決定に関することは非常に難しい。
なぜなら、決定する本人は先のことを推測して判断し、批判する人は結果をみて判断しているからである。
野球に例えると、監督はいつも批判され、野球解説者は批判されることはないのと同じである。

危機管理の意思決定に関して次のような原則がある。
プロアクティブの原則。
1 疑わしいときには行動せよ
2 最悪事態を想定して行動せよ
3 空振りは許されるが見逃しは許されない

大した災害でもないのに、学校を休校にすることがある。
時には保護者から過剰対応ではないかと批判されることもある。
気持ちは分かるが、命に関する危機管理においては過剰な対応をして結果、大したことがなければそれで良しとするべきだと思う。

個人の責任で状況判断できる場合はともかく、人の命を預かる機関としては、慎重過ぎるくらいの対応でよいと思う。
なぜなら、空振りは災害対応の場合においては必要な無駄であると思うからである。

saitnai

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自分の学級経営

2007年02月18日 00時18分22秒 | 学級経営
ある先生から、「先生はいつから自分の学級経営思いついたのですか。」と聞かれた。
すぐには答えられなかった。

それは本から学んだこともあり、尊敬する先輩から学んだこともある。
また、講座で学び、友人との何気ない会話に中からヒントを得たこともある。

しかし、技術と同時に教師には哲学が必要だ。
この個人がもつ教師哲学がない教師は一貫した指導ができない。
一貫した指導ができないということは教室の価値判断がぶれ、集団を統率を乱す。

この教師哲学とはその教師の生き様である。
教室で自分の生き様が語れるか。
自分のしてきたことを意義付けして話すことができるか。

それはどれだけ自分の可能性にチャレンジし、どれだけ努力してきたかによる。


授業とは芸術なり。
授業は個性なり。
授業は科学なり。
授業はその人の影の投影であって、他の模倣すべからざるものをもっている。
故に授業者の個性が輝き、創意が輝き、科学的思考が輝く。
つまり人格が輝く。
そのとき「教育」ということが生きる。

saitani

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対立関係をおそれない

2007年02月15日 23時58分49秒 | 授業論
教師と子どもは対等な立場。
友達みたいな先生が理想。
子どもが教育の中心。
どれも美しい言葉だ。
また、間違っているとも思わない。
しかし、誤解される怖れはあると思う。

カリスマ教師と言われた原田隆史さんの言葉だ。
「頑張ったらすぐ成果が出るという正比例のグラフでは、物事は進まない。
 最初はやってもやってもダメだから途中であきらめるけど、もうちょっとがんばったたら、ぐーんと伸びるようになっている。だから、部下育成は忍耐強く。」
「ここに川があるとして、一緒に渡っていこうというのが先輩と後輩の関係。でも、上司と部下は分かれている。川の向こうに上司がいて、こっち側に部下がいる。部下を渡ってこさせるために、厳しく言うのだ。本当に能力を高めてやろうと思ったら、上司と部下、川のこっち側と向こう側での対立関係をおそれずにやるべき。そのためには、評価するときにもずばずば欠点をついていかないと。」
かかわりを多くもつ中で、厳しい指導た重要だと思う。

saitani

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「かくありたい」と願う哲学

2007年02月14日 22時01分38秒 | 授業論
桜井真一郎ときいてピンと来る人は車が好きな人だろう。
桜井真一郎さんはあのスカイラインを生み出した伝説のエンジニアである。
東京オリンピックが開催された1964年、驚くべき事起こったという。
それは第2回日本グランプリで、ポルシェを国産車が抜いたのだ。
たった一周だけだったが、当時の力からすればそれは画期的な出来事だった。

桜井さんは今は、日産を退社したあとは新会社をつくった。
そこでのテーマは環境問題。
これまでのことに対して世の中にお詫びをしたいのだという。
一つに事に打ち込み、結果出した人間はいつも同じ思想をもつような気がする。
成功者のほとんどが同じ結論を言っているからだ。
世のため、人のためになる活動を。

桜井さんの言葉。
「スカイラインを開発しているときも、周りからかなりいろいろなことを言われたが、それを蹴散らしてやってきた。」
「今の若い人には信念をもってほしい。」
「技術者は、自分でターゲットをきちっともって、いろんな障害があってもしゃむに挑戦していくもの。かくありたいという哲学がないといけない。」
信念と哲学をもった技術者こそが日本の製造業の未来を左右すると、伝説のエンジニアは考えている。

saitani

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学習活動

2007年02月12日 09時44分25秒 | 授業論
授業の中には様々な行為が存在し、名前がついている。
その一つ一つを定義付けし、説明ができる必要がある。
それは一般的な意味を覚えると言うことではなく、自分自身がその言葉をどう理解しているかという問題だ。
言葉にこだわると自分の授業も細部にこだわるようになる。

活動と学習活動とはどう違うのか。
ふつうの活動が活動で、学習中行われる活動が学習活動。
その程度ではなく、もう少し細かく限定する。
国語の場合、指示された内容を目的意識もなくやるのが活動。
課題解決のために目的をもって行うことが学習活動である。
したがって45分の授業はつねに目的意識があって、意図的活動でなければならない。
教師は自分がしている行為、子どもにさせている活動の意味が説明できる必要がある。

saitani

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言葉にこだわる

2007年02月11日 11時05分24秒 | 授業論
国語指導における基本とは何だろう。
様々な表現があると思うが、一番大切なことは言葉にこだわるということだろう。
国語が言語教育であることは誰も否定しないだろう。
にもかかわらず、言葉をあいまいにつかい、こだわらない実践が多すぎるように思う。
言葉から、文章から離れて国語教育と言えるのだろうか。
その大原則さえふまえていない。
国語の問題にも正しい答えと間違った答えがあるのである。
もう少し細かく考えると、算数の答えが点あるのに対して、国語の答えは面である。
さらにその面をできるだけ狭い面で一致させるのが国語の答えであり、その過程が討論である。

子どもの発言を聞き流し、音読や朗読を読み流す、それで良い指導ができるのだろうか。
自分も最近、そのあたりが曖昧になってきている。
望ましい言語環境や確かな国語力とは言葉に徹底的にこだわるところから始まる。

saitani

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教師の原点

2007年02月10日 23時21分35秒 | 授業論
今日は久しぶりに講座に出かけた。
家を5時半に出て、始発で埼玉へ。
一人で講座に出かけるのは何年ぶりだろう。
早起きしたにもかかわらず、全く眠くならなかったのは自分が期待したものがそこにあったからだと思う。
実践をくぐらせた理論には説得力があった。
もちろんハウツーは大事だし、方法論も不可欠である。
自分の反省も込めて考えれば、追試だけでは技量は上達しない。
そこに自分なりの経験則に裏打ちされたシステムアップがなければならない。

自分はなぜ講座料の何倍もの費用をつかい、足を運んだのかと考える。
そこには20年前の自分を忘れないための原点があったような気がする。
講座での先生は、何年たっても切れ味鋭い明快な主張をされていた。
どんな非難があってもぶれることのない教育観があった。
そのことに影響をうけた20年前の自分がいた。

会場にあつまった人たちはほとんど自分よりも年下である。
採用試験をめざしている方もたくさんいた。
休日返上で、身銭を切って学ぶ教師は必ず子どもたちの期待にこたえる教師になれると思う。
学び続ける教師のみが、子どもたちを教えるに値する教師になれる。

ほとんど授業することのない国語の研修会であったが新鮮な感動があった。
そして、多くの若い先生方に20年前に自分の姿を見たような気がした。

saitani

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