飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

成形の功徳

2024年08月13日 07時11分55秒 | 教育論
学校生活の中には、ふだん当たり前のようにやっているが、その意味や効果、教育的価値を考えずに行っていることが多い。
忙しい活動の中で教師はその意味を考えることなく、前例踏襲的におこなっていることがほとんどだ。
去年の学年もそうしていたからうやりましょう、そんな考えで様々な教育的活動が行われていく。
別に悪いこととも思わないと、行っている教師が何も考えなくても何らかの効果はあるのかもしれない。

例えば、小学校というところは多くの校外学習に出かける。
年間を通すと、学年にもよるが10回近く出かけるところもある。
そのときに多くの場合感謝の気持ちを伝える手紙なりメッセージを書かせて、お世話になった見学場所に送らせてもらう。
このことはいいことだと思う。
でも、この行為になんの意味があるのかは考えなければならない。

今読んでいる本にこんな言葉が出てきた。
恥ずかしながら初めて聞く言葉だった。
それは「成形の功徳」。
意味は、すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現れないということ。
同時にまた、仮に一応なりとも形をまとめておけば、もしそれがどんなにつまらぬと思われるようなものでも、それ相応に効用はあるということ。

先に述べた、見学施設への感謝の手紙について。
これは、一つの成形の功徳にあたる。
例えばこんな考え方もあるだろう。
見学が終われば、子どもたち全員を整列させて「ありがとうございました」と感謝の気持ちを伝える。
これをしない担任はいない。
きちんと感謝の気持ちを伝えているのだから、これで終わりでいいという考え方もある。

また、感謝の手紙も様々な形がある。
一枚一枚飾り罫のついた用紙に書かせる担任もいる。
簡単な小さなカードに書かせる担任もいる。
さらにその用紙やカードもわざわざ上質紙を使う人もいれば通常に印刷紙を使う人もいる。
書かれている文面は同じである。
何が違うのかと言うと成形が異なるのである。

成形の功徳ということを知らなくても、内容としてはおなじものでありながら、しかもそれに形を与えるか否かによって、その物のもつ力に非常な相違がでてくることを知っている教師は、こだわるのである。

この日々記録している飛耳長目もいつからか製本して保存するようになった。
blogに残っているのだから、別に高いお金を払って製本する必要もないのではという考えもあったが、ネット上に残すことと製本して紙媒体で残すことは全く意味がことなることも理解できる。
担任になってから、ずっと書いてきた学級通信も製本してあるから現在も残っているし、少しは他の先生方の役にたてるのだと感じる。

本に関しても同じことを思う。
一時期は書棚が何台もあって、いろんな部屋を占領していた。
当然、書斎の床まで高く本が積まれ、デスクに到達するまでに随分苦労するような時期もあった。
現在は、だいぶ整理されて、書斎の本棚に収まるくらいの量になってきた。
この段階になってやっとどの本がどのあたりにあるかがわかるようになった。
このようなことも成形の功徳の一つだと思う。

教育の世界では、物に形を与え、物をとりまとめておくことがいかに大いなる意味をもつのかを忘れてはいけないのである。

saitani


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