飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

討論的授業の構想

2005年04月30日 15時46分19秒 | 国語科
授業形態は三つの方法に大別されるという。
一つは、講義的授業。
これは一般的には一斉授業と言われているものである。
ある種の文化を子どもたちに伝達するときに行われる。
子どもの思考を、教師の思考に合わせる形で授業はすすむ。
思考のラインは単線型である。

二つめは、対話的授業。
個別授業と言い換えてもいい。
一斉授業のラインからはみ出てしまった子どもたちをラインにのせるために行われる。
教師の思考を更に個々において具現化するために行われる。
思考のラインは単線型も見られるが、多くは個々の子どもに合わせて複線型がとられる。

三つ目は、討論的授業。
討論はあくまでも一人一人の考えに立脚している。
相互の意見交換によって、考えが深まっていく。

この討論的授業の前提は何か。
以下の三つが考えられる。
①討論が可能な発達段階にみあった学年であること。
②日頃の学習の中で討論のやり方を経験していること。
③何を言ってもよいという、失敗をおそれない自由な空気が教室にあること。
これら三つのことを、日頃の教育活動の中で意図的計画的に培っていくことが必要条件である。

授業の中で子どもたちの意見を組織化して授業として成立させるための要件。
①子どもたちの意見を対立する二つの意見に整理すること。
②対立した二つの意見が、1時間の授業を支えるだけの価値があること。
 本質的な内容を含んでいること。

ただ子どもたちのすべて任せるのではなく、当然教師が出る場面も必要になってくる。SCENE16(saitani)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事実から出発すると言うこと

2005年04月30日 00時07分14秒 | 教育論
よくこんな言葉を耳にする。
「子ども一人一人を見ることは大切だ。」
その通りだと思う。
しかし、この言葉を自分のものとし、実践することは容易なことではない。
そのことを自覚した上で、この言葉を使っている教師が何人いるだろうか。

とかくスローガンやレッテルで、人や物事を見る人が多い。
しかし、自分は「事実から出発する」ということを教師の原点と考えていた。
「こうあるべきだ」という所から出発しないということでもある。
まず、事実を正確にみるということである。
言葉にすればごく当たり前のことである。

本を5冊、10冊読んで得る物もある。
世の中には本を読んでわかることも多い。
それが50冊、100冊と読めば、さらに分かることもあるだろう。
しかし、それだけで、人間の生きる姿勢は作られない。
生まれた時からその時までの、長い時間の経過の中で作られるものだ。
だから、人それぞれである。
人それぞれであるべきだ。
自分自身の中に作られたゆるぎない物の上に教師の道は作られる。
ときに誹謗中傷受けても、なおも価値ある物に向かって進み続ける歩みの中で教師の仕事は作られる。
その原点が、自分にとっては「事実から出発する」と言うことであった。

10年前に読んだ本の一節。
「事実から出発する」と言うことは。
一つは、子どもとの一つ一つのかかわりを、具体的に再現できること。
一日の生活でも、授業中のことでも、細かく正確に再現できること。
二つめは、子どもが変化するする言葉、変化する指導方法を探すこと。
決して口当たりのいい、常識的な言葉にごまかされないこと。
変化することは、変化する指導方法を身につけてこそできる。

自分は教師の仕事、教師の任務を真っ直ぐに追いかけて行きたいと思う。SCENE15(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平等

2005年04月28日 01時13分06秒 | 人生論
ある女優の言葉である。
「人間にはもって生まれた福分ー運という物がある」とその女優の母から言われたことがあると言う。
これは誰もが勉強ができるものではないし、誰もが金持ちになるわけでもないが、それぞれに福分があるということである。
こういう考え方に対して、多くの人は「すべての人は平等である」という原理を拡大解釈して、人間には平等の素質・能力があるとして「努力すれば誰でも成功できる」と教える。
小学校2年生の時、全甲の通信簿を「ほら見て。」と見せても、「へ、そうかい」とだけ振り向いてもくれず、算術ができなくて先生に叱られた友達の話をすると、「つまらないことをお言いでないよ。人間、学校の勉強ができれば、それだけでいいってわけではないよ。人それぞれにみんないいところがあつからね。」と、その友達の日常のやさしく親切なことをほめたという。
彼女が社会から白い目で見られたときにも、母親は「お前のしたことは決して恥ずかしいことではない」と励ましたという。

彼女の波瀾万丈の人生を振り返って、
「いろいろと苦労をしてきたけど、したいことをして苦労するのは当たり前だからね。そりゃあ覚悟していたから、なんてことはない。」
と語った。(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇跡の指先

2005年04月26日 22時18分05秒 | 人生論
本屋に行くと、教育書はもちろん見るが、そのほかの本にも目を通す。
ビジネス書、歴史小説、コーチ論、児童書などいろんな分野。
その中で今週購入した本にこんなものがある。

福島孝徳氏、脳外科医である。
彼の手は、奇跡の指先と言われる。
彼の手術によって救われた命は20,000人。
脳外科手術は、ミリ単位の技ではないという。
より微細なマイクロ単位の「技」と、超人的な「集中力」を必要とする。
彼の生き方が書かれた本である。
彼の言葉より。

「すべては患者さんのために」
「リスクがまったくないわけではありませんが、今までこのくらいの大きさの腫瘍で、とれなかった ことは一度もありませんから、大丈夫だと思います。」
「『とても難しい手術でしたが、T先生と二人で頑張って、腫瘍は全部取りましたよ。』先生は、手 術はあくまでもT先生の協力があったからうまく言ったのだと、と協調していらっしゃいました。 さらに、部屋を出てからもT先生に、『ありがとう、本当にありがとう』とおっしゃっていまし  た。」
「長く外科医をやってきて、つくづく思うのは、毎日が勉強だということだ。」
「誰よりもたくさんの手術を経験して、誰よりも手術がうまくなりたい。」

患者さんからの手紙。
「あれは手術を受ける2週間ほど前のことでした。
 私は、朝の八時半頃に先生の病院に伺いましたが、すでに脳外科の廊下は、診察の順番を待つ人た ちで一杯でした。
 私が先生の診察室に呼ばれたのは午後の4時過ぎのことでした。
 先生はお疲れの様子もなく、問診した上で、誰の紹介もなく飛び込んだ私のために、ご親切にもす ぐに入院の手続きをしてくださいました。
 私にとってはまさに夢を見ているような感じでございました。
 手術の前日、先生はわざわざ病室に私を訪ねてくださり、こうおっしゃいました。
 『僕が、きっと直してあげるから、安心していなさい』と。」

自分もプロならば、同じ境地に立ってみたい心から思う。SCENE14(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サークル論

2005年04月26日 00時03分19秒 | 教師論
伸びよう、伸びたいと思うならば、伸びる環境を作らなければならない。
人から与えられるものを待っていたのでは、いつ出来るか分からない。
永久に伸びる環境は与えられないかもしれない。
だから、怠惰な自分を意味のある束縛に委ねようと考えた。
こうして3人で立ち上げたのが現在のサークルである。

サークルを作ると言うのは、勉強しなくてはならない環境を自ら作ると言うことである。
自ら伸びる環境を作るといってもいい。

有田和正先生のエピソードである。
有田先生のところにある教師が尋ねてきて、「研究授業をしなくてはならないので教えてほしい」といった。
尋ねてみると、有田先生の著書を一冊も読んでいない。
雑誌一冊もとっていないという。
尋ねてきた内容については、著書に書いてあるので、それを読めばすぐ分かるはずである。
「案もない、本も読まないで教えてくれはムシがよすぎる。教えることはやぶさかではないが、今後のことを考えると、教えない方が君のためだと思う。仲間をさそって勉強してからもう一度きてほしい。」ときびしいけど教えなかったそうだ。

サークルで学んでいるといつも考えることがある。
それはこんな考えである。

本当に一人一人を具体的に見ているのか。
どこでつまずいているか分かっているのか。
そのつまずきを克服する努力をしたか。
本を読み、人に聞いて、よりよい方法を求めたか。
それでもなおできない箇所を精一杯追求しているか。
出来ない子の心の痛みを自分のものとしているか。
出来ない子、失敗した子をしかるようなことはなかったか。
以上のような努力を、努力と意識することなくやり続けているか。
そして、なお、多くの人に謙虚であり続けているか。

教育に対する謙虚さを忘れずにいさせてくれるものは、教室の子どもたちの事実であり、サークルでの学びだった。
仲間の優れた実践を知るたびに、自分の実践のみすぼらしさを知った。
そして、その気持ちは次のよりよい実践への礎となった。

人目を気にせず、気負うことなく、ただただ教師の仕事をまっすぐに追いかける場がサークルである。
サークルで学ぶことによって、すぐれた教育技術を身につけ、それを使いこなし、新しい問題にも立ち向かい、優れた実践を作り出すことができる。
私はそう考えている。(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

審判にみる教育的共通性

2005年04月24日 23時07分54秒 | バスケットボール
ミニバスの指導をするようになり、必然的に審判をするようになった。
ルールを知り、プレイヤーとして試合ができることと審判とはまったく別の次元だと感じる。
選手に要求される資質と審判が要求される資質は根本的にことなる。

今日も、一日笛を吹いてきた。
審判をしていて感じることは非常に的確な状況判断力を必要とする立場であるということである。
また、その適正な判断を瞬時に行う必要がある。
バスケットボールはテニスやバレーボールと違い、身体接触を伴うスポーツだけに判定には非常に難しい点がある。
完璧に笛をふいて当たり前、一つでもミスがあれば非難の声が聞こえる。
そういった状況のなかでも、だれかが引き受けなければ、ゲームはなりたたない。
重要な役割ではあるが、責任は重い。

バスケットボールの審判には三つの原則がある。
一つめは、スペースウオッチ。
ミスジャッジや見落としのほとんどの原因はこれである。
オフェンスとディフェンスが重なるよう位置に審判がいては、ブラインドが多すぎてプレーそのものがみえない。
当然そうなれば正確に判定はできない。
二人の間にあるスペースをみるような位置をとる必要がある。
人間関係をみるときにも、二人の様子がみえる位置できちんと把握することが大事だろう。

二つめは、オールウェイズ・ムービング。
審判はゲーム中、動きをとめることなくベストポジションをとる必要がある。

三つ目は、ボクシング・イン・
通常審判はリードとトレイルと呼ばれる二人で行う。
この二人でコート内にいるプレイーヤー10人を挟み込むようにして、全体を把握する必要がある。

四つ目は、ペネトレイト。
判定を下すときには一歩前に踏み出して、自信をもって判定する。

これらの原則を学級担任にあてはめると重要点がかさなってみえる。

他にも何点か、重要なポイントがある。

一番重要なことは、判定の一貫性を保ち続けること。
先入観をもってゲームに臨んではいけない。
ボールのないところのプレーに注目し、あるいはプレーを予測する。

審判の印象は、その審判の評価につながる大切なものである。
それぞれの審判の人格、性格が笛に表れる。
では、印象の悪い審判について国際審判員の方々はどのように考えているのだろう。
以下の18項目をあげている。

 1 服装にしまりがない。
 2 プレーのスピードについていけない。
 3 コートの端から端まで走ろうとしない。
 4 重箱のすみをつつくような判定をする。
 5 自分のカンだけで笛を鳴らす。
 6 一生懸命さがでていない。
 7 笛の鳴らし方が弱々しい。
 8 発声が小さく、よく聞こえない。
 9 判定に対して不服をとなえ手も、少しも注意しない。
10 テクニカル・ファウルを堂々と取り上げられない。
11 横柄な態度をとる。
12 誤った判定を下したとき、はっきりと「いまのは審判のミス」と謙虚に訂正しない。
13 「穴埋め」的な判定をする。
14 一方のコーチとだけ親しげに話をする。
15 ユーモアに欠ける。
16 問題があってもきちと報告せずにうやむやのうちに試合を再開してしまう。
17 得点が競り合ってきたとき、平静さを失ってしまう。
18 不正に対して、心から怒る「勇気」がない。

バスケットボールにおける審判と教師、似ている点が多くある。

できれば公認もとりたいが仕事とのかねあいもあり難しい。(saitani)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロ論2

2005年04月24日 00時22分34秒 | 教師論
平尾誠二氏

はじめてすぐ、ラグビーに強い手応えをかんじまして。
だから好きになったし、うまくなりたいと思った。
中学の頃から毎日、決められた練習の後にも一人で練習していました。
好きこそものの上手なれと言うんですか。
嫌いなのに気がついたらうまくなっているなんてあり得ないですからね。
好きだからこそ、上を目指そうとする意欲がわくんです。

神戸製鋼での日本選手権の7連覇中は、いつも前にやってきたことを全否定することから始めました。
去年は全部間違っていたと。
それができるのは勝った側だけなんです。
負けた方がやったら負け惜しみになります。
だから、勝った瞬間から、もっといい方法がきっとあるはずだと考えていました。

今日もバスケットボールの夜間練習に高校に進学したあの子たちが参加している。
今は高校も本格的に練習が始まり、インターハイの地区予選に向けて練習にも熱が入っている。
1年生も練習で疲れているにもかかわらず、中学1年から始めたこの練習を今も続けているのである。
メンバーは4人と少ないが、本当に彼らはバスケットが好きなんだとつくづく思う。
今は、試合にも出られないので、基本的な指導しかしないが素直にアドバイスを聞き入れる。
「目標は何?」
と聞くと、
「インターハイ出場。」
とこたえる子どもたち。
バスケットが好きな彼らだから、技術的にもさらにのびるだろう。
それにしても、自分の体力の衰えは著しいものがある。
現実はきびしい。

最後で平尾氏はこのような言葉で文をしめくくっている。

時間って命の一部なんですよ。
今の時間を大切にできない人は、未来の時間もきっと大事にできない。
ここで自分らしく生きることが出来ない人には、次なる道は開けない気がするんです。
今そういう感覚を大事にしなければならない時期にきていると思います。

未来ではなく、今の自分がどうなのかと考えてみることも必要だと思う。(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロ論

2005年04月23日 09時24分52秒 | 教師論
最近売れている本に「プロ論」がある。
この本の帯には次のように書かれている。
「仕事が楽しくなる50人のコトバ」「仕事、好きですか」。
各界のプロが、自分の仕事に対する考え方を語った本である。
その中からいくつか紹介する。

斎藤孝氏
仕事が出来る人の共通点。
それは、まねる力、段取り力、コメント力だと言う。
実際に、この三つの力を身につければどんな時代に放り出されても、やっていけると彼は考える。
さらに、優れたビジネスパーソンになるために、特に若い世代は、どんな意識を持つべきか。

一つめは、スピードを意識すること。
仕事が出来る人は、仕事が早い。
逆に、仕事が出来ない人は先送りしがちである。
会議で「それは難しい」と口にする人は駄目だと言う。
そういえば「難しい」と口にする大人もいるが子どももいる。
しかし、よく考えてみると「難しい」とその人が言うことは単に「めんどうなこと」を言い換えて逃げているだけじゃないかと思えることがある。
子どもたちにもよく言う。
「めんどうなこと」を「難しい」と言い換えて逃げては駄目だよ。

二つめは、とにかく仕事量をこなすこと。
どんな仕事でも絶対に断らない。
素早く仕上げようとこころがける。
改善方法を考え、工夫しながら仕事を進める。
そうすれば、必ず次の仕事につながる。

三つめは、読書をすること。
大量の読書をしない人には未来はない。
思考能力は読書によって鍛えられる。
読書をしない人には、思考能力に決定的な差がつく。
読書で得られるのは、情報だけではない。
人間性、感情、論理性、想像力、そういうものも鍛えられる。

自分も最近は本に投資する金額が若い頃に比べると随分減った。
月15000円程度だろう。
独身の頃は、月に50000円は本代につかった。
本の買い方も今考えると尋常ではない。
本の最後を開いてそこに載っているシリーズ本はすべて頼んだし、一度本屋にいくと本を抱えてレジに行くほどだった。
出入りの本屋さんの方が心配して、「いま担任している学年ではない本は、買うのは来年でもいいじゃないですか」と言われたこともある。
昨日も本屋に行きたくなり、(必要な本もあったのだが)閉店で店内が暗くなるまで居てしまった。

かろうじて三つ目の条件だけはクリアできそうだが、あと二つは全く駄目である。
私は優秀なビジネスパーソンにはなれそうもない。(saitani)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きびしさを欠いたやさしさはない

2005年04月22日 23時56分45秒 | 学級経営
「きびしさを欠いたやさしさはない」これは林竹二の言葉である。
どんな授業がよい授業かと子どもたちに問えば、「おもしろい授業」とこたえるだろう。
しかし、林竹二は言う。
教師は「すこしの嘘も、いいかげんなことも見逃さない、許さないで、とことん追いつめる力」をもたねばならないと。
その点で、林の授業は教師の力量を厳しく問うものだったという。
私のように、冗談やダジャレで子どもを笑わせるなど、問題外である。

林の授業記録を読んでみると、この言葉とは正反対の印象がある。
子どもに対する林の声かけはひじょうにやさしい。
にもかかわらず、彼の追求はねばり強く、どんな子どもも授業に引き込んだという。
その理由は、人にやさしく、授業のねらいはきびしく迫ろうとする彼に姿勢にある。
よくある、点数やシールで子どもを競争させるような志の低さはない。
また、罰やノルマで子どもにプレッシャーを与えるようなこともない。
間違ってもいいんだよと子どもの発言を促す。
その中から子どもの状態や発言の根拠を的確に判断する能力を自己に課していた。
その意味で、つねに子どもから学ぼうとするきびしさを忘れない教師であった。
教師もまた、子どもから教えてもらって力量を形成する。
だから、子どもに優しくなるのは必然とも言える。

自己へのきびしさを持つものだけが相手に優しくなれる。
自ら学び続ける教師のみが、子どもを教えることができるのである。
教師である自分が子どもと過ごす時間の中で、自己に甘く子どもにきびしくしてはいないか、自戒しなければと反省する。(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様がくれた8秒

2005年04月21日 21時26分35秒 | バスケットボール
私は子どもたちに「努力は報われないこともある」と教える。
なぜ、一件矛盾したようなことを教えるのか。
それは、努力しても思うような結果がでるとは限らないだ。
「努力は報われる」という言葉の「報われる」イコール「目標は達成できる」と考えたらどうだろう。
思うような結果でなかったときに、「努力は無駄だ。報われない。」とマイナス思考にならないだろうか。
物事は結果がすべてではない。
本気で努力すれば、目標達成よりももっと素晴らしいプレゼントが手に入る。
いろんなことを犠牲にしても、それでも前にと努力をすれば必ず、自分の成長につながる。
そんな風に考えてほしいからだ。
成功することは素晴らしいことだ。
でも、努力することはもっと素晴らしいことだと子どもたちには考えてもらいたい。

でも、子どもたちには「努力は報われる」という経験もしてもらいたい。
そんなエピソード。

2004年7月18日(日)。
中学校体育館。
中体連バスケットボール男子予選リーグ。
こちらも相手も一勝一敗同士で迎えた第3戦。
この試合に勝った方が、決勝トーナメントに進むことができる。
そんな大事な一戦だった。

両者互角に戦いで、前半終了した時点でこちらが2点のリードだった。
最終第4クウォーター、一時は9点リードしていたが相手のプレスにより徐々に追いつかれ、逆転を許してしまった。
そして、ゲームはクライマックスへ……

体育館全体が揺れるような歓声につつまれた。
体育館にいる誰もがゴールに釘付けになった。
「神様はいるんだなぁ。
 ちゃんと努力した人間を見ていて、最後に背中を押してくれる。」
そんなことを感じさせる一瞬だった。

第4ピリオド残り35秒を残しボールは相手チームがコントロールしていた。
得点は59対60、こちらの1点ビハインドである。
1点リードしている相手は24秒一杯をつかってシュートを決める作戦に出た。
もしそのシュートが決まれば万事休す。
ストーリングでパスをまわす。
ゾーンで守っているこちらはボールに行くことができない。
冷静さを失っているし、どうしていいかわからないからだ。
今まで、こんな場面で試合をしたこともないし、おそらく練習でもシミュレーションしていない。
なぜなら、試合をしても一方的な展開ばかりだったからだ。

私やベンチが叫ぶ。
「ボールにいけ!」
ようやくボールにプレッシャーをかける選手達。
チームファールは5個でファールをすれば相手にツースローが与えられ、これも終わりだ。
そんな切羽つまった状態だった。

時計は刻々と時を刻んでいく。
24秒ぎりぎりで相手チームがシュートを放つ。
そのプレイヤーは逆転を含め土壇場でスリーポイントを2本決めている選手だった。
ボールは弧をえがき、ゴールに向かう。
それまで機械のように正確にシュートを決めていたシューターのボールはリングにもふれず、ボードに直接あたり落ちた。
今回の試合にはいくつかの奇跡と思える出来事が重なった。

相手が放ったボールはスクリーンアウトしている味方選手の手の中に落ちてきた。
これが一つめの奇跡。
この時点で残り8秒。
相手チームはリバウンダーにプレッシャーをかける。
ボールをガードにパスを渡す。
マークマンは二人ついている。
ドリブルでフロントコートへボールを運ぶ。
ガードのプレースタイルはカットインを得意としている。
ときに強引と思えるほど切れ込んでいくプレーをする。
当然、シュートファールをもらうためにいつもようにドリブルカットインねらうと思った。
しかし、この時だけは中にはいかずに、右コーナースリーポイントラインの外側で待っていたシューターにパスを出した。
これが二つめの奇跡。

パスをもらったシューターに3人のディフェンスがついた。
のこり4秒。
ここは絶対にシュートである。
だれがみても99%シュートである。
彼はスリーポイントシューターで今大会も絶好調であった。
3人に囲まれボールを構えた瞬間、1人のディフェンスがシュートチェックにきた。
そのプレーヤーは前に跳んだため、バランスを崩し倒れた。
そして一瞬パスコースがあいた。
彼はシュートを打たなかった。
咄嗟に判断した。
「自分にマークが3人いるということは誰かがノーマークになっているはずだ。
 逆サイドを味方プレイヤーが走ってきているはずだ。」
この子たちには、いやというほどスリーメンの速攻練習をやらせてきた。
時には、10往復連続なんてこともあった。
それが少しは役にたったのかもしれない。
これが3つ目の奇跡。

残り1%の出来事。
彼はゴール下に矢のようなパスを出した。
「誰にパスしたんだ。」
会場の誰もの目がボールをもっていた彼に注がれていた。
逆サイドを風のような速さで走っていた選手がいたことに誰も気がついていなかった。
気がついていたのは彼1人だったかもしれない。

ゴール下に入り込んだ選手。
ボールをキャッチした彼は、ノーマークでゴール下シュート。
残り1秒。
手から離れたボールは右リングにのって一瞬止まった。
ここで試合終了のブザーが鳴った。
しかし、その音は悲鳴もにた歓声でかき消された。
次の瞬間、会場の時が止まったように静まりかえった。
ボールはリングの中へ落ちた。
審判がオフィシャル席へ駆け寄り、タイマーに何度も終了前かどうかを確認する。
「バスケットカウント!!バスケットカウント!!」
体育館に声が響いた。
地響きのような悲鳴と歓声が起こった。
選手達は万歳をしながらベンチに向かって走ってくる。
その傍らには、体育館に膝をおとし、頭を抱えてうずくまる相手の選手達がいた。
勝者と敗者とはこういうものだと思った。
勝負というのはつくづく冷酷だと思った。

選手の目には涙があふれていた。
これまで一度も見たことのない感激の涙だった。
応援に来ていた保護者も泣いていた。
「努力は報われる」そう思えた。
公式戦一度も勝利したことのないチームが2勝1敗で決勝トーナメントに進む。
そんなことを誰が予想しただろう。

ある子が言った。
「放ったボールが、リング上で止まったとき神様がきっとちょっとゴールの方へ押してくれたんだね。」
ミニバス経験もなく、ずばぬけた能力をもった選手もいない。
通常ならばリバウンドさえとれないような身長。
いわば「雑草チーム」。
ミニバスの経験がないというのは致命的な遅れである。
その遅れを3年間の猛練習で追いつき、追い越した。
その子ども達が「努力」だけでつかんだ勝利である。

最初は自分のことだけしか考えない選手ばかりだった。
ミスを相手のせいにし、ファールをされるとそれだけで集中力を切らし、ゲームにならなかった。
友達と言い争いになって練習を途中で投げ出し、帰ってしまう子もいた。
何時になっても練習を始めない子ども達にあきれて私が帰ってしまったこともあった。
その子ども達が3年間でみごとなプレーヤーに成長した。
技術的な面はもちろんのこと、心の成長、チームとしての成長が今回の結果の要因だと思う。

「スラムダンク」の湘北対山王線を思わせる激闘であった。
その試合を見せてくれた子ども達に感謝したい。
一生に一度あるかないかのナイスゲームだった。
子ども達も一生忘れない試合だと思うがこれまでずっと彼らを見守ってきた監督、コーチ、保護者の方にとっても宝となる出来事だったと思う。
人生で一番熱く燃えた中体連だった。(saitani)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする