飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

教室での音読

2005年07月31日 01時07分24秒 | 国語科
教室での音読の基礎を考えてみる。
まず、最高の読み方をするというプレッシャーもある程度は必要だろう。
キーワードは大きく読む。
このとき張った声でないとわざとらしく聞こえる。
協調したい部分の前で立ち止まる。
つかえないこと。
間違えないこと。
句読点を意識すること。

基礎1 きちんとした口形を身につける。
基礎2 善意の理解をしない。
    例えば、waとaの発音の違いを明確にする。
基礎3 waという発音は口を開けつつ出す。
基礎4 文節末を弱く読む。

SCENE71(saitani)

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範読

2005年07月30日 00時14分55秒 | 国語科
教室で教師が子どもたちに対して模範として音読することを範読という。
この何気なく行っている範読にもメリットとデメリットがあることを意識する必要がある。
この点を押さえるとどの場面でどのように範読をするかも重要な意味をもつようになる。
教室で行われる教師の行為はすべて意図的な行為である。
意味のない行為は一つもないのである。
このことをきちんと考えている教師も少ないが。

範読のメリットをあげてみる。
1 手本がきちんと示されるため、子どもたちが内容をイメージしやすい。
2 鑑賞を助け、どう読むべきかという技術的な手本が示される。

範読のデメリット
1 子どもに委ねるべき解釈、子どもにさせるべき解釈を教師が示してしまう。
2 上手に読むと読んで分かるのではなく、聞いてわかってしまう。
  読解力ではなく、聴解力をそだてることになってしまう。

では、範読をどのように示すのか。
一つは、十分に話し合った後で完成のレベルを示す表現方法として行う。
学習の成果として手本を見せるときに行う。
二つめは、聞かせることにより、子どもの鑑賞能力を向上させる。
鑑賞の総仕上げとして行う。
一般には、教師の範読は最初に行わずに、途中または終盤で見せた方がよいとするのが自分の考えである。

SCENE71(saitani)

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2005年07月29日 12時45分19秒 | 授業論
ある先生からうかがった話で心に残っているものがある。
その先生は、離任式の日に子どもたちにこんな話をしたそうだ。

みんなこんな糸を知っていますか。
それは目には見えない糸です。
そして一度つながるとどんなに遠くても、ずっと切れることのない糸です。
さあ、どんな糸かな。

答えは「心の糸」です。
聞いたことがありますか。
この糸は先ほども言ったように目には見えないし、さわっても感じることはできません。
どんなに遠くても、時間が過ぎてもつながっています。
この心の糸は誰でももっているし、誰にでもつくれます。

心の糸を難しい言葉でいうと、信頼関係といいます。
この人なら信用できるな、大切な人だと思う気持ちのことです。
一緒に勉強したり、真剣に行事に取り組んだり、時には本気で話し合ったり、遊んだり、こうやって少しずつ、心の糸は太くなっていきます。
この糸は魔法のように急に太くすることはできません。
毎日少しずつ、太くしていくしか方法はありません。
私たちも、そうやって心の糸を太くしてきました。

心の糸を漢字で書くと「絆」と書きます。
この字が読めますか。
きずなと読みます。
この字をよく見てください。
糸が半分とかいてありますね。
そう、糸は互いに半分ずつもつのです。
自分から半分、相手から半分。
ちょうど真ん中で結ぶのです。
自分の糸で相手をしばってもいけないし、相手にしばられてもいけません。
お互いが平等の立場で助け合ったり、理解したりするとき絆は生まれます。
君たちとの日々は絆を結ぶに値する価値ある日々でした。
私は、新しい環境で、新しい仲間と、新しい心の糸を結ぼうと思っています。
でも、みんなと結んだ心の糸は、いつまでたってもどこへいっても切れません。
いつまでも忘れないよ。
今まで本当にありがとう。
最高の日々でした。

SCENE70(saitani)

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若き教師への私信

2005年07月28日 21時10分03秒 | 教師論
若い先生から「卒業する子どもたちへどんなメッセージを贈ったらいいのか」と質問を受けた。
そのメールへの返信。

メールどうもありがとう。
先生が担任していたあの子たちももう卒業なんですね。
月日の流れるのは早いものです。
卒業に際しては、どんな言葉を贈るのか迷うものです。
それは教師が子どもたちに贈る最後のメッセージだからです。
故事名言を引用するのもいいと思いますが、それでは平凡です。
自分の考えていることをいくつか書かせてもらいます。

一つめは、その子たちと自分とのエピソードを語ることです。
先生とその子たちとの間にしかない具体的なエピソードを語ることです。
だから、担任は他のクラスにはないイベントなり、山を意識してつくる必要があります。
ありきたりの毎日からは、何も生まれず、人の成長もありえませんから。
感動もきっと淡いものになってしまうでしょう。

二つめは、端的に人生成功のこつを語ることです。
たとえば、仕事で成功している人は決して相手を呼び捨てにしない。
きちんと「さん」をつける。
人は自分の名前をきちんと呼んでくれる人に好意をもつ。
社会人としての第一歩は、お客様の名前を覚えることだというように。

三つ目は、成長の糧となるような言葉を伝えることです。
「チャンスの女神には前髪しかない」という話を子どもたちによくします。
誰も平等にチャンスが目の前にあります。
しかし、それを生かせる人間とそうでない人間がいます。
良いことと分かっていながら、恥ずかしいとか、やったことがないから、大変だからという理由で一瞬躊躇します。
ほんの一瞬躊躇します。
しかし、そのときにはもうチャンスの女神は自分の横を通り過ぎてしまっています。
あとになってチャンスをつかもうとしてもすでに遅いのです。
なぜなら、チャンスの女神には前髪しかないのですから。
後ろからではつかめないのです。
しかも、チャンスの女神はちょっと意地悪で「もうだめかな」と思うそのほんのちょっと先に成功の二文字を用意しておいてくれます。
だから、あきらめてはいけません。
最後まで、夢を追い続けるのです。

ざっとこんな感じです。
常日頃から、やはりいろんな言葉をストックしておくことが必要かなと思います。
自分の気持ちや思いを端的に伝えられる言葉を。
私もいろいろと迷うことばかりです。

年度末、子どもたちとの別れの準備をしなければならないのですが、成績がおわりほっとして寝てしまいました。
それでは、また。

1999年3月16日 もうすぐ卒業式

SCENE69(saitani)

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僕は今考える

2005年07月27日 22時59分47秒 | 授業論
子どもたちにバスケットボールを教える。
スポーツはすべて同じだが、教えられてすぐに出来ることは少ない。
その場ではできたとしても、試合となるとまったくできない。
だから、バスケットボールはハビットスポーツと言われるのである。
自分が教えるようになって、一番最初に子どもたちに言ったことは二つ。
一つは、何か指示を出したり、プレーを教えたときには必ずはっきりとした声で返事をすること。
二つめは、集合の声がかかったら全速力で走ってくること。
その理由も説明する。
返事がすぐにできるということは、コーチの指示をきちんときいているということ。
バスケットボールは組織プレーである。
試合に出ている5人をふくめてベンチ全員が指示を正確に受け取る必要がある。
一人でも、フォーメーション通りに動かなければ、組織は機能しない。
指示の徹底はチームにとって不可欠な要素である。
全力で集まれるというのは動作が機敏であるあるということ。
バスケットは機敏さや敏捷性が要求される。
自分がマークするオフェンスに抜かれた選手がもし全力で追いかけてカバーしなかったら、その選手はどんなに優秀でも試合で使わない。

自分がバスケットボールに夢中になっていた頃、好きだったことがある。
それはモップがけである。
今日も、練習がおわり子どもたちとモップを体育館にかけた。
そのときふと思い出した。

大学時代の自分。
きびしい練習で疲れ果てる。
合宿ともなれば、一日10時間は練習する。
いくら好きなバスケットボールとはいえ、体、精神的にも疲れ果てる。
練習が終わり、全員で挨拶をする。
「あー終わった。」と実感する。
そのあとモップを手にして、床をきれいにする。
そのとき誰もが無言だ。
安堵感に浸る瞬間である。
もし、全然疲れもしない練習だったら、こんな気持ちになるだろうか。
きっと、階段も上れないくらい疲れ果てて、もう何もできないという状態だったから、モップがけが好きだったに違いない。

今日、そのことを思い出し、昔のことを考えてみた。
あのときの気持ちに今なれるだろうか。
それは難しい。
あの時とは違った充実感はあるが、選手の頃とは違う。
そして、あの時のように胸に響くものはない。
そこにあるのは歯がゆさともどかしさだった。

SCENE68(saitani)

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主題に至るまでの手順

2005年07月26日 21時49分57秒 | 授業論
「分析批評」と「分析批評による授業」とは異なる。
本来の分析批評は、主想がどう効果的に表現されているかを知るために視点や対比など用語を使う読み方をさす。
それに対して、分析批評による授業とは、記号の解釈、主想の解釈をするために視点や対比などの用語を使う読み方である。

分析批評の授業では、直感だけをたよりに主題をみつけることはせず、理詰めによって主題にいくつくことを方法論として教える。

自分がまず教材分析をする際にとる手順を示す。

1 設定をあきらかにする。
2 中心人物を決める。この時対役も決める。
3 クライマックスのピナクルを決める。作品によってピナクルの数はいろいろである。
4 最高ピナクルを決める。
5 ①最高ピナクルに至るまで、中心人物がこだわり続けたものを探す。
  ②作品によっては最高ピナクル以降中心人物が新たにこだわり始めたものも探す。(例)葛藤し続ける=求め続ける=耐え続ける=我慢し続ける
①と②が主材となる。
6 主材に対して中心人物はどのような価値を付加しているかを探るーこれが主想となる。
この価値とは、中心人物が主材に対してどのような価値を感じているのかという意味。(例)すばらしい、愚劣なことだ
中心人物は、時に話者、作者、読者と置き換えることもできる。この場合当然主想も変わる。

1989年 授業の構想ノートより

SCENE67(saitani)

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ディベートの基本ルール

2005年07月25日 22時24分26秒 | 国語科
討論の力をつけるときディベートは有効な手段となる。
しかし、きちんとした討論する力をつけるにはステップを意識した指導が必要になる。
ただ子どもたちがその意図を理解することなく、ディベートをしても力にはなっていかない。

まず子どもたちが意識しなければならないことは、「ディベートの基本ルール」である。
ディベートとは次のように定義付けされる。

ある一つの論題について、肯定側と否定側に分かれ、一定のルールに従って行われ、最後の審判によって勝敗が下される知的格闘技。

守るべき基本ルールは次の通り。

 1 非礼な行為は慎む。
 2 主張はジャッジに伝えなければならない。
 3 時間を守らなければならない。
 4 主張には根拠がなければならない。
 5 相手に主張に反論しなければならない。
 6 反論は主張の直後にしなければならない。
 7 証拠資料は第3者が入手可能なもの。
 8 証拠資料は、主張の要件をみたすもの。
 9 証拠をねつ造してはならない。
10 相手の議論を意図的に曲解してはならない。
11 反駁で新しい議論を持ち出してはならない。
12 反対尋問の内容は反駁に反映すること。

通常の討論でも留意することがらでもある。

SCENE66(saitani)


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教育の構想ノート

2005年07月24日 20時08分36秒 | 授業論
毎年、年度が新しくなると「教育の構想」と名付けたノートをつくる。
教師になって10年くらいは、教科ごとにノートを作っていたが、カテゴリーに分ける手間と後日の検索を考えると時系列で整理していった方が能率的と考えて、現在の形になった。

あれから十数年たった今、書斎の本棚には50冊近いノートが並んでいる。
教師になった頃、常に新しい実践を求めて、本を読み、研究会に出かけた。
すべてが新鮮で、役に立つものばかりだった。
現在のようにインターネットが普及していたわけではなく、最先端の授業実践を知るには自分の足で出かけていくほかに手だてはなかった。
教室で勉強が苦手であったり、できないことで劣等感を持っていたりする子どもたちの力になるには教師自らの技量をあげるしか方法はなかった。

学んだことはすぐに記憶の彼方に消え去ってしまいがちだった。
大事なことを忘れないようにととにかく記録し、ノートにとり、学級通信を書いた。
その記録のノートが教育の構想である。

多くは、その時々の先行実践を整理したものだが、あらためてみると現在の自分の実践の原点はここにあったのだと思えるものばかりだ。
多くの先生方からいただいた手紙、保護者からいただいた励ましの手紙…
数え切れないほどの数である。
今振り返ってみると、本当に多くの方々に支えられて今日まで教師を続けてきたことがよくわかる。
その時々の実践に対する理論付け、反省と展望が思いつくままに綴られている。
その文章を今読んでみると捨ててしまいたいくらい恥ずかしいものもあるが、純粋な情熱は感じる。

「知的なたくましさとは、何者もおそれない強い思考力で創造的なアイディアを創 り出し、人を説得していく力である。
 同時に自分の持つ偏見を打ち破り、公正に考え、虚心に多くの知識と献言を受け 入れる柔軟さでもある。
 また、どんなに環境が変わっても状況を新しく見直すことを恐れず適切に問題を 形成し、どんなに手段が不足しても、道を切り開いて行く工夫の精神である。
 何でも引き受け、何とかやってのける。
 泥臭い手法もきらわず、へこたれず、おじけぬ態度である。
 それは多数の人の常識や先入観にうちかって勝利と成功をもたらすだろう。」

SCENE65(saitani)


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教師の視線

2005年07月23日 23時11分24秒 | 教師論
教師が授業をするとき視線はどこにあるか。
それは当然、子どもたちに注がれるべきである。
発問をし、子どもたちが挙手をする。
教師が指名し、起立する。
ここで教師は発言する子どもをみて、内容を注意深く聞き取ろうとする。
発言の中にある、子どもの意図、さらには発言間にある、「ずれ」をもとにその後の展開をしてくこともある。
では、発言者だけを見ていればいいのか。
いや、そうではない。
教師は、発言者に注意をはらいつつも教室内の子どもたち全員に意識を向けなければならない。
そうしないと1対1の対応になり、他の子どもたちの緊張感を切らす原因となる。
発言中の教師の視線は、発言者7割、他の子どもに3割というところだろうか。

授業を進める教師の視線はどこにあるか。
多くの場合、子どもたちに注がれる。
しかし、時に指導案をみることもある。
教育実習生だったとき、指導の先生から言われたことがある。
「指導案は見ない方がいいね。
 子どもたちが不安になって、安心して授業に集中できないから。」
いまだにこの言葉を守れないでいる。
プロとしての自覚が足りないと言うことだ。

教師の技量は、授業を5分見ればわかるという。
よい授業はどこをきりとっても良いのであり、悪い授業はどこを切り取っても悪いのである。
したがって、良い部分と悪い部分が混在する授業はありえないということにある。
悪い授業はすべてに問題があるのである。
とくに導入の開始5分の部分はとくに重要である。
これまでは導入で、子どもたちの興味関心を引くような展開、ものを用意することが大事だと考えていた。
もちろんそういう場合もあるだろう。
しかし、もっと大事なことはチャイムと同時に授業を始めたり、開始直後にくどくど説明したり、前時に復習としてわかりきったことを聞いたりするのではなく、すっと本題に入っていく。
このことが一番重要である。

基本的なことがまだまだ出来ていないことに気づかせてくれた研修だった。

SCENE64

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教師の授業力

2005年07月22日 22時53分02秒 | 教師論
現在の教育界での話題は基礎基本の定着である。
この基礎学力を保証することが、学校や教師に期待されていることである。
基礎学力を定着させるためにどうしたらいいのか。
その答えはただ一つ、教師の授業力を高めることである。
どんなに口先でうまいことを言っても、子どもたちの事実が違っていれば授業力は不足していると言うことになる。

誰でも、志があれば子どもたちにとっていい教師にはなれる。
しかし、それには努力が必要だ。
努力なくして、進歩はない。
人から見たら、ちょっと無理しすぎだと思えるような印象受けるほどの時期が当然あっていいと思う。
本を年収の5%以上費やし、日々実践を積み、わからないことは人に頭を下げてたずね、身銭をきって研修会に出かける。
それを5年、10年と続けて初めて、自分が目指した教師となれる。
それでも満足することなく、学び続ける。
日々の努力。
それは自分の習い事と比較してみれば、重さがわかる。
テニススクールに週1回通う。
習字の教室に週2回通う。
それだけで人に教えらる技術と技能が身に付くだろうか。
答えはノーである。
教師の授業力向上とは、これらとは比較にならないものである。

今回参加した研修から学んだことを思いつくままに書いてみる。
一つめは、自分も不十分だと感じている子どもたちへの視線の配り方である。
30人の教室なら、30人の子どもたちが今現在どういう状態にあるのかを常に把握しておく必要がある。
一人の見落としがあってもいけない。
その点で、子どもたちの姿を具体的に見る力が必要になってくる。

保護者へのアドバイスは具体的に。
子どもの学習の協力を家庭にお願いすることがある。
そのときにも、漢字練習をさせてください、本読みをさせてください、計算練習をさせてくださいでは抽象的すぎる。
漢字練習ならば、その学年が学習すべき漢字の数はいくつで、家庭生活のどの場面でどのような方法で練習させるのかを具体的にアドバイスすることがプロの教師のすべきことである。

SCENE63(saitani)





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