飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

ぼんやりみることの大切さ

2023年07月31日 08時11分10秒 | 教育論
教師は、子供た発言しているときにどこを見ているだろう。
若い先生に多いが、発言者の方を向いて、必死になって発言内容を理解しようとしている。
子供の発言を目を見て、真剣に聞く姿勢はとてもよいことだ。
まったく目もあわせず、横を向いて子供の話をきくことは誠実は態度とは言わない。
しかし、発言者だけをみていることも問題はある。
そもそも、発言している子供の視線はどこにあるかといことも問題だ。
多くの場合は、教師に向けられている。
教師からの発問や質問に対して答えているのだから、当然と言えば当然なことだ。
しかし、発言者の内容を一番聞かなければならないのは、その他の子どもたちである。
発言者は、聴衆に対して、自分の意見を主張しているのだ。
だから、子どもたちは発言が終ると「いいです」と返事することが多い。
自分はさせないが。
機械的な音声による是非は問わないが、挙手によって賛成か反対かを問うことは多々ある。
聴衆が「いいです」と言っている以上、発言者は他の子供達に聞かせていることになる。
しかし、実際は教師だけに話しかけているのだ。
そのことは、発言する子供は、教師の方に体を向けて、話していることがほとんどだ。
「みんなの方を向いて発言してください」
と教師が投げかけている学級は、子供たちの方を向くこともある。

発言者は、教師に話しかけているので、こんなふうに指導することもある。
「発言する人は、聞いている人の方を向いて話します。
 できれば、自分から一番遠いところのいる人に説明するような気持ちで話します。
 そして、自分の話を全員がきいているか注意します。
 もし、聞いていない人がいたら『◯◯さん、私の話をきいてください』と言います。
 場合によっては、発言のあと『◯◯さん、私の意見をどう思いますか?』とその人に聞いてみてください。」
このような緊張感が教室にあれば、子どもたちは友だちを意見を真剣に聞くようになる。

若い先生に多いのだが、発言者の子供だけに注意をむけてしまうことが多い。
その子だけに注意をむけて、それ以外に子どもたち視線が配られない。
発言者以外のこどもは、手いたずらやよそ見、窓の外をぼんやり眺めていても、教師は気が付かないのである。
この状態がずっと続くと、教室内に私語が始まり、学級の統率が乱れていく。
見落とし見逃しを、教師を日常的にしてしまうからだ。
だから意識を変える必要がある。

バスケットボールは、攻守が一瞬にして切り替わるスポーツだ。
オフェンスとディフェンスの切り替え。
この時、経験の浅い選手は、オフェンス時には自分についている相手だけを見て、ディフェンスのときにも自分のマークマンだけを見てしまう。
人間は意識しなければそうなるのが自然なことでもある。
ディフェンスの時には、自分のマークマンから目を離さないことが大原則であるので、それでいい。
しかし、オフェンスの場合は、それではだめだ。
自分についている選手だけを凝視するような攻撃の仕方は得点にはつながらない。
ならばどうするか。
バスケットボールコート全体をぼんやり見るのである。
ぼんやり見るから、全体が把握できる。
ディフェンスの守備配置がどうなっているか、スペースがどこにあいているか、味方の選手がどこにいて何を次にしようとしているか、ぼんやりみているからわかる。
よく、ノールックパスというのをする選手がいる。
それはなぜ、できる選手とできない選手がいるかと言えば、オフェンスの時に、ぼんやりと見る習慣がついている選手とそうでない選手の差だ。
ノールックのパスは、パスを出すずっと前から、仲間の走る位置やプレーの予測しているからできることで、直前に判断しているのはない。

教師も同じこと。
若い先生はディフェンス的な視点でこどもをみてしまっている。
意識して、オフェンス的視点、ぼんやりと発言者以外をみることを意識する必要がある。
発言者の発言内容は、ずっと見ていなくても教師の頭に入ってくる。

saitnai





命ってなんだろう

2023年07月30日 08時51分25秒 | 道徳科
命とはいったいなんだろう。
学校教育においては、たびたび話題になる。
道徳の授業の価値項目にも、生命尊重がある。
命の大切さを子どもたちに考えさせるのである。

しかし、ここで少し違和感を感じる。
一つは、命の大切さとは、考えさせたり、実感させたりするものだろうか。
この人間の根源におけるようなことは他者から強制的に教えられるものではなく、実生活の中で、自分が生きていく中で肌感覚で理解するものだなのだと思う。
だから、命の大切さとは、自分で考えるものであり、実感するものだと考える。
学校教育は、そのきっかけを提示するに過ぎない。

もう一つは、もし、学校教育で命の大切さが教えられるなら、社会全体がもっと命を大切になるようになるのではないか。
少なくとも、9年間の義務教育の中で、道徳や教育課程全般で、誰でもが身につけられる素養ならば、多くは義務教育課程を修了しているわけだから、現実的な姿として現れてもいいはずだ。
しかし、実際は命が粗末にされ、悲しむべき事件を多く起こる。
やはり、生命尊重は学校ではなく、家庭教育で育むものだと強く思う。
家庭に新しい命が誕生し、互いに人として尊重され、大事に育てられれば、学校で教えられなくても、自分を大切にし、仲間を大切にするようになる。
義務教育は学習指導要領のもと、ある一定の水準の教育はされるシステムになっている。
だから、日本全国どこにいても平等な教育が受けられる。
教育の普遍性がある。
しかし、各家庭の教育の実態は多種多様だ。
高い教育力をもつ家庭もあり、逆に残念ながら未熟な教育力しかもたない家庭もある。
それは子供のせいではない。
すべて大人のせいだ。
貧しくても豊かな人間性をもつものもあるし、裕福な家庭でも、人間性は貧しい家もある。
今一度、このことを真剣に考える必要がある。

命とは何か。
辞書で調べてみる。

1 生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。「―にかかわる病気」「―をとりとめる」「―ある限り」
2 生きている間。生涯。一生。「短い―を終える」
3 寿命。「―が延びる」

こんなふうな意味になる。
しかし、本当の意味や解釈ができなければ、生命尊重の授業はできない。
道徳科の授業は、どんな価値でもそうだが、まず授業者が扱うべき価値をどう解釈するかを確定させないと授業を組み立てることができない。
解釈なので、間違っているとかあっているとかではなく、あくまでも授業者、一人の人間として、価値をどう説明するか。
たとば、正義とは何か?信頼友情とは何か?国際理解とは何か?こういったことを自分なりに端的に言えることが、道徳授業の第一歩だと考える。

では、命を考える時にポイントとなる一つの視点は、「どう解く?」(ポプラ社)という本の中にこんなふうに書かれている。
「標本って、昆虫で作られているものがおおいなぁ。
 蝶々を殺して、ネコを殺しちゃいけないのは、どうしてだろう?」
この子供の疑問に明確に答えられるだろうか。

命が大切だということは誰もが認めている。
「命が大切だと思う人は手をあげなさい。」
よっぽどのことがなければ、全員が手をあげる。

そして、子どもたちに問う。
「今日の食事はなんでしたか?」
・ご飯
・ラーメン
・そば、うどん
・さかな
・焼肉
・キャベツ
・ハンバーグ

「これらには、命はありますか?」
子どもたちは、「ある」と答えるだろう。
野菜や植物にも、生きている以上命は存在する。
「さきほど、君たちは命は大切だと言いました。
 でも、その大切な命を私達は奪っていることになりませんか?」
ここで自己矛盾が生じる。
光合成によって自ら栄養を作り出してる植物以外は、他の生き物の生命を奪って、自分の命を維持していることからは逃げられない。

厳しい見方をすれば、いくら人間が命が大切とか共生だと主張したところで、我々は他の生命を奪わずには生きていけないのも明白な事実なのだ。
またこのことは大自然の営みにおいて、生きもの同士の連鎖があるように、人間も生き物である以上、食物連鎖の中にあることは避けられない。
結局、都合のいいように人間のエゴの中で生きていることに気がつく。
家を建てたり、開発行為をするときには森を伐採し、山を削って整地する。
人間にとって都合の悪い虫や動物は害虫として駆除する。
ライオンが人を食べると人食いライオンと言われ、人がライオンを殺すとハンティングというスポーツになる。
自分勝手な論理の中で人間は生きている。
また、奪われる命のその痛みを本当は感じながら生きるべきなのに、ふだん意識することはない。

だからこそ、いろいろな生命の恵みによって生かされている、そのおかげをいただいているという感謝の心を持ち、そのような人間らしい反省の中から、私たちは謙虚にならなければならない。

教師自身が「命の大切さ」をどう思うかということが一番大事である。
「命の大切さ」というのは、人としての生き方そのものである。
教師自身が日頃どう生きているか、自分がどう生きているかを問いかけること、そのこと自体が命の大切さである。
命の大切さの教育は、教師自身がいきいきと生きていないと意味がない。

もう一つの命の捉え方。
子どもたちに問う。
「命とは◯◯だ」
この◯◯にはどんな言葉が入ると思いますか。
ノートに書いてもっていらっしゃい。

・大切だ
・かけがけのないもの
・ひとつのものだ
・平等だ
・尊いものだ
・弱いものだ

いろんな言葉を入れるだろう。
これにも正解はない。
自分の価値観の表れが言葉になる。

ある人はこんなふうに言っています。
「命とは時間だ」

命というものは目に見えない。
目に見えないものだけれど、君たちが使える時間こそが君たちの命なのです。
若くして死んでも本当に自分らしくその時間を使っていたら、その人は長生きしていると言える。
命を大切にするということは、ただ病気をせずに長生きするということではなく、どう自分らしく命を使うかなのだということだ。

このことを考えると必ず思い出す人物がいる。
吉田松陰である。
吉田松陰は、安政の大獄で捉えられ、「留魂録」を書き終えた日の翌日、1859(安政6)年10月27日、伝馬町牢屋敷にて即日処刑が行われた。
この時、松陰は30歳という若さだった。
享年30歳(満29歳没)直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」。
全十六節からなるこの留魂録は、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句を巻頭にして始まる。
その中の第八節は、「松陰」の死生観を語るものである。
彼は死生観について次のように言っている。

【第八節(現代語訳)】

一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

『星の王子様』の中にも「本当に大切なものは目には見えない」という一節がある。
目には見えない命の大切さを実感させるには、目に見える形でのモデル、つまり命を大切に使っているモデルを見せることも大事である。
いつの世も、人は人から学ぶのである。

さらに次のように子どもたちに伝える。
日野原重明氏の言葉だ。

「いのちは見えないもの。
 それは風のように,その影としての梢のゆらぎや,雲の流れていることの本体は頭では分かるが,その本体を心で感じることは難しいものです。
 しかし,いのちは君たちがいつも持っている,今も持っていて,そしてそれを自分のために使っているのではないかと。
 心臓はいのちを保つために,脳に酸素と栄養を血液によって送って人間が考えることができるようにさせ,同じく手足に血液を送って動かせるようにし
 ています。
 いのちを支えるのに心臓はポンプの働きをしています。
 しかし,心臓がいのちではありません。
 いのちは自分でどうにでも使える自分が持っている時間なのです。」

「はなぜ目に見えないか。
 それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
 死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
 どうか一度しか無い自分の時間、命をどのように使うか、しっかりと考えながら生きていってほしい。
 さらに言えば、その命を今度は 自分以外の何かのために使うことを学んだほしい。」
 日野原重明/医師

授業ではこんなふうに問いかけたらどうだろう。

発問 
「君たちは、今日は朝起きてから、今まで何をしてきましたか?」
 ノートに順番に、できるだけたくさん書きなさい。
 5つかけたら先生のところへ見せに来なさい。
 そのあとは席にもどりさらに続きを書きます。」

・ベッドから起きた
・顔を洗った
・歯を磨いた
・朝ごはんを食べた
・身支度を整えた
・窓をあけた
・歩いて登校した
・トイレに行った
・授業の準備をした

発問
今日君たちがしたことは、誰のためにしたことですか?

・自分のため

発問
君たちがしたことはすべて(ほとんど)自分のためにしたことです。
自分のために時間を使っています。
それでは尋ねます。
自分のために以外に時間を使ったことを書いてみてください。

※おそらく、ほとんどかけない。
 例えば、こんな意見はでるかもしれない。
 ・みんのために教室の窓をあけた
 ・教室のゴミを拾った
 ・給食当番をやった
 ・掃除をした

説明・発問
これらのことは仲間のため、友だちのためにやっていることで意味のあることです。
でも、厳密に言うと自分と仲間のためということになります。
厳密に、自分以外の人のために時間をつかって何かしたことはありますか。

まだ、経済的にも自立していない子どもたちが人のためだけにできることは限られている。
子どもたちは、時間の使い方を現実問題として考えるときにそれは全て自分のために使った時間で,自分のために勉強し,自分のために遊び,自分のために食べ,眠っているのではないか気づく。

少しむずかしいが、ここで子どもたちに作文を書いてもらう。
自分の持っている時間が,君たちのいのち,それをどう自分以外のために使うかを考えて作文にする。

このことによって子どもたちには時間としてのいのちが実感され,自分の命,他者の命、草木の命,動物の命を大切にして生きていくようになる。

「時間の使い方によって運命は決まってくる」

「時間だけは神様が平等に与えてくださった。
 これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ」
本田宗一郎

「君子に三惜(さんせき)ありこの生を学ばす、一に惜しむべきなりこの日間過(かんか)す、二に惜しむべきなりこの身一敗、三に惜しむべきなり」
意味は次のとおりとなる。

君子に三つの惜しむべきことがある。
一に折角人間に生まれて、どう生きるか学ぼうとしないこと。
二に毎日をだらだら過ごしてしまうこと。
三に自分の人生を自分で失敗に持っていってしまうこと。

自分で自分の人生を失敗に持っていくような愚かなことは避けたい。
「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」陸紹行(りくしょうこう)

saitani

良いことは広げる

2023年07月29日 08時22分49秒 | 学級経営
学級の子どもたちの様子を見てみる。
黙っていても自主的に学級のために活動する子がいる。
声をかければ率先して、仕事をする子がいる。
学級には波及効果があるが、善い行いも広がっていくこと多い。
しかし、それは教師が意図して声掛けをしたり、新しい価値観を示した時に起きる。
まず、大切なのは子供達自身が良いことを集団に広めていこうとする意識があるかどうかだ。
自分自身を成長させることはもちろん大切だが、将来的に考えれば、集団をよくしていくという視点も育てたほうがよい。
それが大人になったときに社会の一員としてよりよいコミュニティを作ろうという気持ちにもなっていく。

子供達に次のように問う。

アフリカのきれいな水が出ない国の人を助けたいと思います。
あなたなら、どのような行動をとりますか。
次の三つから選びます。

1 半年分のたくさんのきれいな水の入ったペットボトルをあげる。
2 井戸をほってあげる。
3 井戸の掘り方を教えてあげる。

選んだあとに、なぜその方法を選択したのか理由も問う。
多くの子が、3を選択するだろう。
その理由は将来性があるという点からだろう。
ペットボトルを渡したり、井戸を掘ってあげることは一時しのぎにはなるが、発展性がない。
しか、井戸の掘り方を教えれば自分の力で水を得られるようになる。
依存ではなく、自立ができるのだ。

さらに続ける。
ここからが本題だ。
良いことをしてる子が学級にいる。
それはどこの学級でも見られる風景だ。
さらに進んだ学級では、その善い行いを広げようとする意識がある。

子供達に話しかける。

皆さんは、井戸の掘り方を教えることが良い用法だと言いました。
私も、そのとおりだと思います。
でも、あるひとつの村に井戸の掘り方を教えても、その村だけが助かるだけです。
きれいな水が飲めなくて困っている村はたくさんあります。
小さな子どもが、何十キロも離れたところまで水をくみに行っている国もたくさんあります。
しかも、その水はきれいではありません。

さらに多くの村が幸せになるにはどうしたらよいと思いますか。
・たくさん井戸をほって、他の村に配る。
・水道管を通して、他の村にあげる。
・井戸の掘り方を他の村の人にも教える。

そうですね。
井戸の掘り方を学んだ人が、さらに他の人に掘り方を教えてあげれば幸せになっていく人が増えていきます。
「一人の人のよいことや頑張りは、他の人に伝わるとさらによくなる」
ということが大事だと思います。

例えば、毎日ゴミを拾う人がいるとします。
一人で一日に30このゴミを拾うとします。
このことは素晴らしいことです。
でも、3人の人が同じように行動すれば、90このゴミを拾うことができます。
本当のリーダーや、良い人、優しい人は、自分が頑張るだけでなく、広げていくという考えを持つことも時には大事です。

まず自分が行動することが最初です。
そして、自分が実行できたらその良いことを広げて行ってほしいと思います。
すると自分だけなく、周りの人もよくなり、そのクラス、グループ、集団はどんどんよくなります。

ひとつコツみたいなものを伝えておきます。
自分が良いことをしても、それを認めてくれる人と残念ながら認めてくれない人がいます。
良いことを広めていくことの大切さを全員が理解しているかと言うとそうではありません。
自分にそういう経験がない人は理解できないと思います。
そんなときには、一人でも二人でもいいので、一部の人と協力して始めることです。
一部の人が集団の核となって行動します。

バケツに水を入れて、細い棒でかき混ぜても最初は何も起こりません。
でも、諦めずに根気よく続けていくと小さな流れができます。
その小さな流れを大切にしながら、続けていくと渦巻きになり、やがて、大きな渦となります。
その第一歩の行動を起こし、そして、伝え広めていく人にみんなにはなって欲しいと思います。
それが、大人になってもみんなが幸せになれる社会を作っていく人になってほしいという私の願いです。

saitani


幸運を引き寄せる力

2023年07月28日 12時04分48秒 | 道徳科
道徳の時間。
人間関係や友情について授業する。
最後の場面で、教師の説話をすることが多い。

また、学級活動で生活のコツみたいなことを話すこともある。
そんな時にこんなふうに話をする。

アドラーは言っている。
人間の悩みごとの全ては、人間関係に起因する。
ならば、人間関係がうまくいけば悩みも軽減されることになる。
そんな生き方のコツを教えておくことは、学級経営上も揉め事の予防となる。
先手の指導をするのである。
だいたいの担任は後手にまわる。
いじめが起きてから、いじめの指導をする。
整理整頓ができなくなってから、整理整頓を指導する。
言葉遣いが気になってから、言葉遣いの指導をする。
学級経営は布石の連続なのである。

みなさんに幸運を引き寄せるコツを教えます。
今からヒントを言いますので、わかった人はノートに書いてみてください。
口に出してはいけません。

それでは、第一のヒント。
お金がかからない。しかも、効果は絶大。

第二ヒント。
人に与えても減ることはない。与えられた人は豊かな気持ちになる。

第三ヒント。
一瞬のあいだ見せれば、その記憶は永遠に続く。

第四ヒント。
どんなお金持ちでも、これなしでは暮らせない。どんなに貧しい人でもこれによって豊かになる。

第五ヒント。
家庭内を幸せにして、働いているにとってはお客さんに気に入られる。

第六ヒント。
友情の合言葉。

第七ヒント。
疲れた人にとっては休息になる。
気持ちが落ち込んでいる人にとっては、明るい光となる。
悲しい人にとっては、太陽となる。
悩んでいる人にとっては解決の糸口となる。

第八ヒント。
買うことも矯正することも盗むこともできないこと。
ただで人に与えて、初めて価値がある。

その答えは…
「笑顔」

良いことがあるから笑顔になるのではありません。
笑顔だから良いことが起きるのです。
だから、笑顔は素晴らしいのです。

saitani

教材研究とは

2023年07月27日 07時47分51秒 | 授業論
教師は授業を行うときに教材研究を行う。
教材研究と言えば、指導案をさくせいすることと同意義にも捉えられることも多い。
当然ながら、教材研究をしなければ授業案は書けないし、実践もできない。
このよく使われる教材研究とはいったいどういった概念を含むのか。
次のような考え方がある。

国語の教材研究は次の三つの過程でできている。

1 素材研究
その文学作品を教材としてではなく、一読者として、自らの読解力・鑑賞力の総力をあげて読むこと。

2 学習者研究
子どもたちの読みの傾向を分析し、その教材がどのように読まれる可能性があるか、どの程度の解釈分派が現れ得るかを想定する。

3 指導法研究
その教材を授業するにあたって、どのような学習活動が相応しいか、どのような指導言(発問・指示・説明)が相応しいか立案する。
先行実践の研究を含む。

この位の詳細さと分析は教材研究には最低限必要だろう。

saitani

交流活動をさせる時に必要な説明

2023年07月26日 10時27分42秒 | 授業論
協働的な学びが言われるようになってから、交流学習やグループ学習が頻繁に取り入れられるようになった。
このこと自体は喜ぶべきことだと考えるが、この活動をさせるときに教師はどのような説明や指示をしているだろうか。
「今から班で話し合います。机を指導して、自分の考えを発表しあいなさい。」
この程度の説明で終わっていないだろうか。

最低限の次のような説明は必要だ。
1 まず、全員が意見を言います。
2 その後、議論する。
3 合意形成を図る。
4 代表の発表者を決める。
この4段階の順序性は必要になってくる。

この項目を示しただけでは、子どもたちも迷う部分多い。
さらに詳細に説明を加える。

1 班のメンバーの番号をつけておいて、「今日は1番の人から発表します。」と指示する。
  そのあと、2番の人、3番の人……と言う順番で発表します。
  1人30秒以内で発表という時間制限も加える。
  一回り発表が終わるまでは、質問や反論はしません。
  このときに質問や反論内容を忘れないようにメモをとらせていく。

2 班のメンバ-の発表が終わると、他の人に意見を言いたくなるのでその気持ちを大切にして議論する
  バリエーションとして、メンバーを入れ替えたり、班を越えた交流も許可することもある。
  ブレスト的はアイディアをたくさん出すことが目的なら、班で10個以上の考えを出しますという目標も事前に告げる。
  深めるタイプの話し合いなら、最終的に班員全員が納得するような合意形成を目指すこともある。
  また、主題の読み取りのように、1人1人の思考が深まることをゴールにすることもある。
  班での話し合いの時間も制限する。
  通常で8分、長くても10分以内。
  
3 合意形成を図るのであれば、妥当性の検討が中心となる。
  国語であれば、文章表現を詳細に検討し、読解の正確性をみる。
  
4 発表者を決めるときにも、いつも決まった班長を指名することはしない。
  もちろん配慮を必要とする子が負担にならなようにすることは前提だが、一部偏ることがないように教師が事前に指名したり、「誰が       指名されても大丈夫なように準備します」という道筋を示しておく。

saitani



  

挨拶のレベル

2023年07月25日 08時13分53秒 | 学級経営
挨拶にはレベルがあるという。
ある先生の実践。

レベル1
挨拶ができないことが多い。
こちらからしても返ってこない。

レベル2
言われば自分からできる。
こちらからすれば返ってくる。
声は小さい。

レベル3
自分からできる場合もある。
決まった場面ならできる。
張りのある元気な声ではできない。

レベル4 
いつでもどこでも自分からできる。
注意を促せば、張りのある元気な声でできる。

レベル5
いつでもどこでも自分からできる。
常に張りのある元気な声でできる。

挨拶をしっかいさせる。
これは廊下は走らないと同じくらい永遠の学校の課題だ。
廊下を走らないということも、年間でみると数件起きる深刻な事故のことを考えると放置する訳にもいかない。
挨拶も人間社会で気持ちのよい生活をするには絶対欠かすことのできない週間である。
挨拶一つできないようでは、独り立ちさえできない。

では、挨拶を学校レベル、学級レベルで徹底させるにはどうしたらよいか。
この先生は、次のことが大事と言っている。

1 自分たちのレベルを知ること
2 目標のレベルを見据えること
3 到達するための方法を知ること
4 できるまでチャレンジすること

このことが不徹底なのが要因だが、一番大事なことは、挨拶を良くしようと強く思わないことが理由だと言う。
何事も最終的には気持ちの問題ということだろうか。

でも、上記のことを意識して取り組めば改善は見込める。

saitani


名言

2023年07月24日 14時01分42秒 | 人生論
人生を変える十の秘訣

1 「一日」は「早起」から
2 「挨拶」は「自分」から
3 「会話」は「傾聴」から
4 「説明」は「結論」から
5 「自信」は「姿勢」から
6 「知識」は「学習」から
7 「技術」は「マネ」から
8 「努力」は「目標」から
9 「経験」は「挑戦」から
10 「行動」は「いま」から

「己の怠惰な無知と無学はゆくゆくひがみや妬みに姿を変える。
 低層を輪廻し続ける妖怪のようなものとなる。
 対して、知識や博学は己を守る術となる。
 自分を守るために勉強しなさい」

自分を大切にする七つの言霊

1 私はよく頑張っている
2 私は私のままで素晴らしい
3 誰に何を言われても私の価値は変わらない
4 私は私のことを信じる
5 私の一番の味方は私
6 私は私らしく自分の人生を生きる
7 私はこれからもっとよくなる

何度も振り返りたい8つの教え

1 感謝は無料でできるgive
2 使う言葉が自分をつくる
3 迷ったときは進めのサイン
4 身近な5人の平均が自分になる
5 プライドは何の役にも立たない
6 壁は乗り越えられる人にしか現れない
7 あなたの悩みはすでに誰かが解決している
8 挑戦するのに1番良いタイミングは今

よく「やまない雨はない」と言いますが、
人生はだいたい雨が降っています。
だから、「雨の中でも楽しく踊ろう」が正解ではないでしょうか。
悩みはぜんぜん解決しないけれど、楽しく踊りましょう。

運命というのは努力した人に偶然という橋をかけてくれる

後悔は「過去」を変えようとすること
反省は「未来」を変えようとすること

子どもたちに伝えたいこと

1 人生は思い通りではなくやったとおりになる
2 比べるのは他人ではなく昨日の自分
3 夢中になれることは幸せでコツコツ継続が何より大切
4 あなたにしかできないことがある。
  あなたにしかない価値がある。
5 人の時間は限られている
6 失敗は悪いことではない、挑戦すれば失敗する
7 選択と行動が未来を作る
8 心を許せる人を大切にする
9 人間関係は距離感が大切
10 世間は思ったより甘くない
11 食べ物は体に大きな影響を与える
12 健康にお金をかけてよい
13 辛いときは「助けて」と言っていい
14 あいさつは自分から
15 お金の勉強をすること
16 いつまでも親はいない
17 意志あるところに道は開ける
18 行動すれば何かが変わる

自衛隊にいたとき、大事な決断をする前に、いつも唐揚げを食べる先輩がいました。
理由を聞くと「好きなものがマジで美味いなら、判断力は正常だろう?」と言っていました。
逆に、好きなものが美味しくないときは、心身が弱っていて、判断力が低下している証拠だそうです。
割とよい目安だと思っています。

人生のどん底から幸せになった人が気付いた事

1 1番怖いのは孤独になること
2 人は自分の口癖通りに生きている
3 何気ない日常にたくさんの幸せがある
4 人を大切にすると自分も大切にされる
5 実はきつく聞こえる言葉が人を変える
6 勇気を出して行動しないと現実は変わらない
7 どうにでもなれっ!という思い切りの良さが大事
8 苦しい経験はいずれ多くの人を救うことになる

「心の傷」に1番効くのは、時間。
時間が経てば、傷口は少しずつ塞がっていく。
傷口が開いたまま頑張ろうとするのではなく、まずは休むことが必要。
前向きになれない自分を責める必要はありません。

過去と未来を考えすぎると
メンタルが落ちるので
気をつけください

考えすぎれば
過去は「後悔」となり
未来は「不安」になります

もう過ぎてしまったことを
悔やんだり

まだ起きてもないことを
不安がらないこと

完璧でなくてもいいし
急がなくもいい

今日を笑って過ごせたらそれでいい


saitani





脳神経外科医 瀧澤 克己医師

2023年07月23日 07時55分26秒 | 教師論
長男度手術を手掛ける脳血管障害治療のエキスパート、神の手と言われる瀧澤克己医師。
その一流の腕を求めて海外からも絶えず手術依頼が来る。
瀧澤医師が脳動脈瘤手術の中でも、極細の血管をつなぎ合わせるバイパス手術を手掛ける。
瀧澤医師も駆け出しの時期はあった。

当初は手術のたびに手が震え、他の道を勧められてたこともあったという。
脳神経外科にとって手の震えは致命的な欠点である。
だから、別の道を勧められたのである。
では、どのようにこの欠点を克服したのか。

「手術は駄目だな。」
この言葉は、神の手をもつと言われた脳動脈瘤手術の第一人者の上山博康医師から言われた言葉である。
自分が尊敬する師匠から、駄目の烙印を押されたのである。
「僕の手術によって悪くなったてしまうのではないか、という恐怖心から手が震えていました。
 自分の腕に自信がないんですよね。
 だから、『手術は駄目だな』と言われても認めざるを得ませんでした。
 体力だけは自信があったので、それを頼りに何とかついていきました。」

瀧澤医師は、カルテや診断書の作成なの事務的な作業を進んで行った。
手術室よりも病棟によく足を運び、術前・術後の患者を診た。
時に「なぜ手術室にいないんだ」と言われながらも、他の医師がやりがらない仕事を率先して行う姿を上山医師はしっかりとみていた。

それから上山医師のもとで、技術や考え方をスポンジが水を吸収するように学んでいった。
「僕が開頭を行った後、上山先生に引き継ぎ、目の前で神の手がどう動くのか、その全てを吸収しようと集中しました。」

「手の震えがなくなり、手術に自信が持てたのは上山先生が他院に移った後、多くの手術を経験するようになってから。
 それまで神の手を間近で見続けたことも大きかった。
 誰にでも手術がうまくなるチャンスはあるのだけれど、嫌なことがあると諦めてしまったりする。
 『手術はだめだから血管内治療はどうだ』と言われたこともありましたが、その道に進んでいてもトップを目指しても頑張っていたと思います。」

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言葉の技術的側面に対する意識

2023年07月22日 16時08分26秒 | 国語科
国語の教科において指導すべき事柄は何か。
そう問われたら、なんと答えるだろう。
国語における指導内容は非常に曖昧になっている。
教材内容は教えても、教科内容を教えていないのだ。
「ごんぎつね」を学習した子どもたちが、何も教師が指導することをしないで「大造じいさんとがん」を自力読みができるだろうか。
国語における教科内容が繰り返し指導されていれば子どもたちは、身につけた読解技術によって同じ道筋をたどって自分なりの主題を読み解くことができる。
しかし、現在目にする国語の指導はそうなっていない場合がほとんどだ。
活動があって指導がない、活動あって学習なしという批判を受ける。

例えば、文章における修辞法は多様にあるが、少なくともその10個くらいはきちんと指導されていなければならない。
それも系統的に。
どの学級においても比喩の指導はする。
比喩には、直喩法と隠喩法があり、このカテゴリーに入るものとして擬人法、擬声語、擬態語がある。
また、オノマトペという範疇では、擬態語、擬声語、擬音語になる。
これらは、すべて喩えの技法になる。

体言止め、倒置法、反復法(リフレイン)は基本的に強調の技法となる。
作者が何かを誇張したり、強調したりしたいときには意図的にこの技法を用いることになる。
この技法が使われている部分には、作者の主張があり、読者にとくに伝えたいことが隠されている。
そこをよく読み、読み取ることによって読解が進む。
また、表現活動においては、自分で作文を書くときにも、この技法を使えば、自分の気持や感動を効果的に読者に伝えることができるということにもなる。

基本的だか、とても大事なこともある。
教室内で使用される教師の指導言語だ。
句読点の指導は、だれでもしている。
当たり前のことだが、まるを句点、点を読点というこの2つを合わせて句読点と言っている。
この句点と読点という言葉をきちんと学級内に定着させているだろうか。
意識せずに、単なるまるとか点とか言っていないだろうか。
これでは、正しい学習言語は定着しない。
他にも、疑問符(クエスチョンマーク)、感嘆符(エクスクラメーションマーク)、リーダー、ダッシュ等、文を構成する基礎的な記号を指導しているだろうか。
疑問符を「はてな」、感嘆符を「ビックリマーク」、リーダーを「点々」、ダッシュを「ぼう」というような表現で済ませていないだろうか。

指導される基礎的な内容として他にも、登場人物の描写は3つに分けて考える。
それは、行動描写、心情描写、会話文である。
このことを知っているだけでも、頭の中を整理しながら読み進めることができる。
また、文章のどこに注目するのかという観点でも、注目すべきは、副詞、接尾語、文末である。
なぜなら、ここに登場人物の心情が象徴的に表現されているからだ。

これらのことを1年生から6年生まで、繰り返し教師が意識をして指導する。
そうすることによって子どもたちは言語技術を身につけ、自力読みができるようになるのである。

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