飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

忘却曲線

2021年03月17日 09時58分07秒 | 東日本大震災
あの有名なエビングハウスの忘却曲線。
これをもとに効率の良い記憶の仕方を考えてみる。

科学的に能率的な復習の仕方とは。
まず、1週間後に1回目、次にこの復習から2週間後に2回目、そして、最後に2回目の復習から1ヶ月後に3回目、というように1回の
学習と3回の復習を少しずつ間隔を広くしながら2ヶ月かけておこなうことがよいらしい。
そうすれば海馬はその情報を必要な記憶として判断してくれる。

歳をとると物覚えが悪くなったり、物忘れが激しくなったりすると言われるが、それは歳のせいばかりではないらしい。
その原因は、若い頃のように何回も繰り返す根気に欠けてきているという気持ちの問題も大きい。
本人が意識していなくても、学校の授業というものはそれなりに復習効果がある。
カリキュラムもそのように組まれている。

したがって、学校という環境を卒業してから、何か物事を習得したいと考えるならば、繰り返し学習するという習慣を見つける必要がある。

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群青

2021年03月13日 07時09分20秒 | 東日本大震災
東日本大震災から10年目の節目を迎える。
10年たった今も多くの方々が悲しみの中にいて、どうにも整理できない気持ちを抱えながらも前向きに生きようとしている。
今を生きている私達にできることは何なのかを改めて考える。

震災に関する歌は数多くある。
「花はさく」などはその代表だろう。
学校にまつわるエピソードがある歌もある。
その中でも心に残る歌は群青である。

以下引用。

南相馬市立小高(おだか)中学校は、福島県浜通り南相馬市南部の小高区に位置した。
2011 年 3 月 で、津波により街が甚大な被害を受けた。
東日本大震災この日、3 年生の卒業式が行われ、午前中で学校は終わり、その数時間後の 14 時 46 分、地震が発生、津波によって小高の街は甚大な被害を受け、小高中の生徒 4 名が亡くなった。
東日本大震災によって、小高区が半径 20km 圏内の警戒区域に指定されたことから、小高 中学校も小高区外に避難することとなった。
津波で犠牲となった 2 名を除く 104 名の 1 年生も、大半の 97 名は小高中学校を離れ、北は北海道、南は長崎県
まで、全国に散り散りとなった。
4 月 22 日に新学期を迎え、進級した生徒はわずか 6・7 名にとどまった。
友だちが全国に散り散りとなり、原発事故で小高に戻れ ないことなど、様々な不安が生徒たちにのしかかり、わずか 6・7 名の 2 年生も、心を痛め、音楽の授 業では歌が歌えなくなっていた。
音楽の授業を受け持っていた音楽教諭の小田美樹も歌うことができ なかった。
皆が歌うことの難しさを感じていた。
ある日、歌が歌えなくなった生徒たちの授業を受け持っていた小田が、小高中を離れた生徒がどこ にいるのか把握するため、大きな日本地図に生徒の顔写真を貼り付けていたら、生徒たちが口々に 「遠いね」「どうやったら行けるの」「〇〇さんはどうしているだろう」「〇〇市はどんなところな んだろう」「でも、この地図の上の空はつながってるね」等の気持ちをあらわにした。
そこから、歌 うことができなくなった 2 年生の生徒たちと小田による詩づくりが始まった。
そして、2 年生の生徒たちが 3 年生に進級する。
津波で亡くなった 2 名の同級生の事や、遠い疎開先から今もなお戻ってこな い同級生などを思う 3 年生の気持ちを綴った日記や作文、他愛もないおしゃべりから、彼らの思いを 小田は書き留めていき、それをつなぎあわせて、「群青」の大筋の歌詞が出来上がった。 この詩に小田が作曲して「群青 - 平成 24 年度 小高中学校卒業生に捧ぐ」が完成した。
なところな んだろう」「でも、この地図の上の空はつながってるね」等の気持ちをあらわにした。そこから、歌 うことができなくなった 2 年生の生徒たちと小田による詩づくりが始まった。そして、2 年生の生徒た ちが 3 年生に進級する。 津波で亡くなった 2 名の同級生の事や、遠い疎開先から今もなお戻ってこな い同級生などを思う 3 年生の気持ちを綴った日記や作文、他愛もないおしゃべりから、彼らの思いを 小田は書き留めていき、それをつなぎあわせて、「群青」の大筋の歌詞が出来上がった。 この詩に小田が作曲して「群青 - 平成 24 年度 小高中学校卒業生に捧ぐ」が完成した。

以上、引用終わり。

生徒たちや先生の気持ちを考えると心打たれる。

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事実を知るということ

2013年06月02日 11時09分44秒 | 東日本大震災
昨日、久しぶりに映画を見た。
映画「遺体 明日への十日間」である。
これは2011年の東日本大震災で被災した岩手県釜石市の遺体安置所を題材としたルポルタージュ「遺体 震災、津波の果てに」をもとに、メディアが伝えきれなかった被災地の真実を描き出したヒューマンドキュメントである。

見終わった感想は、私たちしっている事実というのは、本当のすがたの一片に過ぎず、現実ははるかにおおきな意味を持ち、心に大きな陰を落とすということだ。
事実はいろんなことを知っていても、真実をしることは本当は少ないのではないか。
知っているつもりになっていることが多すぎると感じる。

西田敏行が主演のもと葬儀社に勤める民生委員を演じる。
監督は、この映画に関しては演じなくてもよいと出演者に言ったそうだ。
感じたままをそのまま表現するということ。

それは役者一人一人の、表情から十分に想像し得た。

遺体安置所に関わった人々の悲しみと心労は想像を絶する。
警察、消防団、市役所職員、ボランティ、それぞれが現実を受け入れがたい中で目の前にある遺体と向き合った行くしかなかった。
誰もが逃げ出したくなるような気持ちを抑え、何をしていいのかもわからないまま、しかし、何かしなければという気持ちも交錯する。
ただ、立ちつくすしかない状況下の中で、対応し続ける自分。
過酷という言葉ではいいつくせない、甚大な被害である。

我々は、もっと真実を知るべきだと痛感した。

saitani

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2013年05月06日 12時28分48秒 | 東日本大震災
東日本大震災以来、絆という言葉が注目をあびている。
学級集団作りでも、絆づくりということがよく聞かれる。

絆は、どのようなときに築かれるのでしょうか。
本来の絆とは何でしょうか。
今回の震災を通して、生きていくために食べていくために力らを合わせて働くときに本当の絆は培われていくと感じる。
一緒に時をただ過ごしたり、遊んだりすることからは本当の絆は生まれない。
生きるために互いに助け合うという心にしか絆は宿らないのではないか。

昨年、南三陸を訪れ、そして、今年、陸前高田と気仙沼をボランティアで訪れた。

そのボランティアの質は、明らかに変化している。

南三陸では、町営住宅の瓦礫の撤去と漁業支援としてワカメの収穫をお手伝いさせていただいた。
そして、今年は陸前高田で、被災畑の草取りと石の撤去を行った。
すでに今年は、瓦礫の撤去のような震災直後に必要とされた活動はない。
全体の支援ではなく、個々のニーズに基づいた活動に移行してきているという。
しかし、ボランティは必要だとボランティアステーションの方はおっしゃっていた。
被災された方々の心のなかでは、忘れ去られることが一番こわいという。

ボランティアが現地で作業をしていると必ず、現地の方がみている。
その姿をみていただくことが一番の復興支援なのだと教えられた。
側溝の土だしをしても、大きな復興にはならない。
しかし、必要なボランティアなのだ。

現在の状況から考えれば、実際に東北に足を運ぶことはあまり意味はないように感じる。
しかし、そばにいられなくても、遠くからでも忘れずに見守っていることはとても意味のあることだと言える。
自分たちはいつも東北を思っている。
そんなメッセージをいつも、様々な形で送り続けることが大事。
想像力を精一杯に働かせて、被災者の方々に思いを馳せること。

今の東北の人たちが抱えている悲しみやもどかしさ、せめてその悲しみくらいは想像しなければならないと感じる。

同じ、人間として、日本人として。

saitani

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東日本大震災から二年が経過して

2013年05月03日 14時45分59秒 | 東日本大震災
ゴールデンウィークの後半が始まった。
電車も飛行機も、行楽地やふるさとへ帰省する人々でごった返している。
道路も軒並み、30km以上の渋滞予想が出ている。

そんな中で東京駅での親子のインタビューシーンがあった。
「この休みを利用して2年経った被災地の様子を見てきたい。」
と答えていた。
どんな形であれ、人々の記憶から忘れさられることなく、覚えていることが復興支援にもなる。

ある本の中にこんな言葉があった。

計り知れない傷跡をのこしたあの震災から間もなく二年。
吹く風は春の訪れの近いことを告げているけれど、多くの人がいまなお心に癒しきれない傷を負ったまま、厳冬の中で佇んでいる。
一方で、惨禍を免れた者は、ともすると日常の生活にとりまぎれ、そうした人たちに思いを馳せることも少なくなっていく。
そして、いつしか、何事もなかったかのように揖斐を過ごすようになっていく。
もとより大きな災害や不慮の事故に見まわれたとき、周囲がどれほど災難に遭った人たちの心中を汲み取り、つらさを分かちあいたいと望んでも、実際に経験していない以上、そうした人々の本当の気持ちは解せまい。
しかし、それでもできること、しなくてはいけないことがある。
それは、いつまでも忘れないこと。
その出来事を風化させず、困苦に耐えている人たちの心にそい続けること。
そこから、いま自分ができることが見えてくるに違いない。
お互いに心を寄せ合いたい。
他人事ではなく、災禍は、いつ、どこで、誰に降り掛かってくるかわからないのだから。

自分に何ができるか、いつも考える。
忘れることなく、伝えること、このことは忘れずにいたい。
それが、ボランティアに行く率直な理由かもしれない。
saitani

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東北ボランティアin陸前高田&気仙沼 「共徳丸」

2013年04月28日 01時06分12秒 | 東日本大震災
バスが気仙沼港に近づくと、道路の脇に大きな貨物船が見えた。
海の見えない場所にこつ然とあらわれる船体に驚いた。

この貨物船は、福島県いわき市から、津波によって流されてきたものだ。
津波が押し寄せてきたときには、もっと内陸まで流されたが引き波によって、ここまでもどってきたようだ。
この巨大な船体がいとも簡単にながされている。
改めて津波の大きさと恐ろしさを実感した。

もう少し位置がづれて道にかかっていればすぐに撤去されたが、少しそれていたため現在も残っている。
やがては撤去される予定だと地元の方がおっしゃっていた。



saitani

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東北ボランティツアーin陸前高田&気仙沼 「初めて見る陸前高田」

2013年04月27日 08時42分39秒 | 東日本大震災
平成25年4月20日(土)。

東北新幹線はやてで、一ノ関駅に着いた。


陸前高田への玄関口「東北新幹線 一ノ関駅」

その後、バスで内陸から海岸線にある陸前高田市にでるまでに約1時間半ほど。
途中、ループ橋などもあり、のどかな風景が続いた。
峠をすぎて坂を下っていくと三陸の海が見えてきた。

海辺に近づくにつれて風景は一変する。
道路から海岸線にいたるまで、建物はほとんどない。
残っているのは鉄筋コンクリートの建物だけだ。
人の姿もない。
これが初めて見る陸前高田の風景だった。





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東北ボランティアツアー 気仙沼市「気仙沼港」

2013年04月27日 07時06分05秒 | 東日本大震災
平成25年4月20日(土)。

宮城県気仙沼市。
この地も大きな津波の被害を受けた。
なくなられた方、1040名、行方不明者240名。
気仙沼港に近くにあった民家は、すべて流され一面荒野である。
気仙沼港も、目立つ部分については、きれいに片付いているものの町を歩くと、壊れた倉庫等があり津波の傷跡を感じた。
気仙沼港には大島行きのフェリー乗り場がある。
当日は雨にもかかわらず多くの人々が桟橋に並んでいた。

津波で落ちてしまった桟橋は、今も半分海に沈んだままだ。
復興市場も訪れた。
お店に方々は、笑顔でお客さんを迎えていた。
その言葉の端々に、悲しみを乗り越えて前向きに生きようとする力強さを感じた。




saitani

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災害ボランティア7「共に生きる」

2012年04月29日 05時41分33秒 | 東日本大震災
手元に一冊の小冊子がある。
あしなが育英会が編集した「東日本大震災遺児作文集 お父さんの顔」という題名のものである。

その冒頭の文である。

私は、津波のあと、しばらくして、遺体安置所にいきました。
そこには、お父さんと、そのほか三人がいました。
そこには、お母さんが先にいって、
お父さんの顔を、泣きながらみていました。
私は、お父さんの顔を見たら、
血だらけで、泣きました。

小学5年生の女の子の文である。
これが、東日本大震災の現実なのである。
その現実から、被災された方々は立ち直ろうとしている。
心が締め付けられるように苦しい。

震災直後の、映像を見ると、自分が見た風景とは全く違った状況がそこにはあった。
1年後の南三陸の海を見ると、何事もなかったように穏やかで、きらきらとまばゆいばかりに輝いていた。
しかし、振りかえるとそこには海とは対照的なすべてを奪っていった津波の惨状があった。
400名近い人々がいまだに行方不明である。

自分にできることは些細で、わずかである。
それでも何かできないかと毎日考えている。
必ず、また、ボランティアにいこうと考える。

昨日のニュースで、語り部ツアーという、津波の現実を知ってもらう活動を始めたという。
たとえ物見遊山でもいいから、まず、現実を見てもらいとおっしゃっていた。
動機は、どうであれ、現実を知ったあとは、人間として大切な何かが心に残る。
それは、確かである。

自分は、離れた地にあっても、心は東北の人々と共にあろうと思う。
帰宅する新幹線の車窓から見える街の明かりを見ながら心に誓った。

saitani

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