飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

研究授業の意味

2006年10月27日 23時43分42秒 | 授業論
最近は睡眠不足の日々が続いている。
ここ1ヶ月の間に、実践報告や研究授業があるのでその準備に追われているのである。
自分は研究授業を進んでやらせてもらうようにしてきた。
それは誰のためでもない、自分自身のためである。
20年前プロ教師になると決めた自分の生き方の問題だからである。

ある有名な実践家の言葉である。

私は月に一度研究授業をしていろんな方にみていただきました。
教科書には載っていない、新しい教材を用意し、自分でも一度もやったことのない方法を開拓してやりました。
ですから、1ヶ月の間、苦しみます。
どうやっていいかわからないときは、やせる思いで駆け回りました。

何十年もやっていますから、今までにやった方法でいいならすぐにでもやれます。
でもそれでは老いてしまうのです。
ですから、その研究授業は、誰のためでもない、自分が教師として老いないため、未来に対して建設を続けるためのものでした。
いくらベテランでも、研究する態度を失った教師は、どんな優しい声や手練手管を使っても子どもの気持ちをつかめません。
もう、こどもとはちがった世界の人になってしまっているのです。

「自分が教師として老いないために」「未来に対しての建設」
自分も子どもの事実だけを実践の根幹において、教師修行を続けようと思う。

saitani

努力こそすべて

2006年10月10日 23時50分29秒 | 授業論
教育の世界では、一貫して子どもたちに教えなければならないことがある。
それは、才能や天性のものよりも努力が大切だということだ。
努力することにより、人間の能力は向上し、可能性は広がっていく。
もし、生まれつきの才能がすべてだとしたらだれが努力をするだろう。
無駄な努力はこの世にはないと教えなければならない。

NBAの選手は天才と言われている。
NBAでプレーできる選手はほんとに少ない。
ましてやスタープレイヤーと言われる人物は数億人に一人の割合でしか存在しない。
まさに数字で考えれば奇蹟なのだ。

その天才達が、バスケットのプレーの中で奇蹟を起こす。
しかし、天才と言われると選手達は異口同音に自分たちは天才ではないという。
NBAの代表的センタープレイヤー、シャキール・オニールの言葉。
「神がボクに与えたのは、48%の才能だ。
 あとの52%は練習で得たものだ。
 ぼくは天賦の才能を信じない。
 信じるのは努力だけだ。」

練習の重要性をマジック・ジョンソンは次のように言っている。
「どんなプレイヤーでも、ベストを尽くして練習しなくては、最高のプレーをすることはできない。
 適当に練習している選手は、ゲームでもそれが表れてしまう。」
ふだんのどこチームでもしているような、ドリブルシュート、パス、1対1をどのような目的意識をもって行っているか。
ゲームと同じ緊張感をもって、練習に取り組んでいるか。
緊張や目的意識の中で練習することによりゲームで通用するテクニックが身につく。

ピート・マラビッチの言葉。
「練習に全力で取り組まない人はゲームでも全力をつくすことはできない。」
チャールズ・バークレーの言葉。
「おれは、誰よりも一生懸命やっている。
 おれと同じくらいの奴はいても、おれ以上にやっているやつはいない。」
ダン・マーリー
「ぼくは人より才能が劣るから人の数倍努力する。」
マーク・プライスの言葉。
「強くなるためには、ただ練習あるのみ。」

練習も努力もありふれた言葉である。
教師なら誰でも毎日のように口にしている。
しかし、練習と努力の本当の意味と大切さをを理解している教師はどれだけいるだろう。
常に華やかさの裏には、人知れぬ努力と練習があるのである。

ピート・マラビッチの言葉。
「バスケットをしていないとき、いつも頭の片隅で思っていた。
 ロスやニューヨークの片隅で、今誰かがバスケットをしているんだ。
 早く練習にいかなくちゃって」
「成功に近道はない。
 努力と積み重ねなんだ。」

(saitani)

向上心をもつ

2006年10月02日 23時15分25秒 | 授業論
我々、教師には研究と修養に努める義務がある。
それは教育という人間の根幹にかかわる仕事に携わるという大きな責任があるからである。
ときには教職は聖職とまでいわれることもある。

教育の専門職として必要なことは何なのか。
いくつか考えられるが、それは教育技術をもち、技術をつかいこなす技能を身に付けていることは不可欠だろう。
適正な教師としての資質を有することは、仕事のプロならば当然のことである。
だから、心ある教師は身銭を切り、研修会や講座に出かけ優れた実践を直に学ぼうとする。
また、月何万ものお金を使い本を買い、多くの知識を得ようとする。
本を読むことは当然のことであり、これは教師に限らず社会人として最低限のことである。
すぐれた授業、すぐれた教育哲学をもとうとするならば基本的なことである。
ベイシックな部分が広く、深くなければ、優れたアイディアなど浮かぶはずもない。

しかし、人に与えられた時間は決まっている。
研修したからといって急激に効果があがるわけでもない。
それでも新しい教育技術を学び、前向きに努力しつけることには意味がある。
子どもたちは、より高いものにあこがれ、自分も成長したいと心からねがっている。
前進したい、変容したいと思っている。
ある場面においては身の程知らずと思えるほど伸びたいと思っている。
その健気で素直な気持ちに共感できるのはどんな教師だろう。
それは、自分も伸びようと努力している教師以外にないのである。
学ぶことの苦しみ、そして少しの喜びを子どもとともに共感できる教師が本当に子どもを理解していると言える。

常に前進し、向上的変容を遂げようとしている教師の魂はどんなときも子どもとともにある。
年齢は若くとも、貪欲に学ぼうとしない教師は、子どもたちの魂とは無縁の教師と思える。

saitani