飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

6年生理科の授業開き

2025年04月02日 05時16分14秒 | 理科
4月授業が開始される。
できれば初日から簡単な授業を行いたい。
教師の仕事は授業をすることである。
自分の考えはお説教ではなく授業を通して伝えたい。
そう考えてきた。

各教科の授業開き。
どんな展開を考えているだろうか。

理科の授業開き。
こんな実践の追試をした。

理科の授業での中心は問題解決学習となる。
これは6年生に限ったことではない。
3年から学び始める理科。
その展開の多くの問題解決学習である。
課題を見つけ、予想をたてる。
根拠を示して、それを実証する実験を行う。
そして結果から導き出される考察を考える。

6年生でつけたい問題解決能力。
第6学年では,主により妥当な考えをつくりだすといった問題解決の力の育成を目指している。
より妥当な考えをつくりだすとは,自分が既にもっ ている考えを検討し,より科学的なものに変容させることである。
この力を育成するためには,自然の事物・現象を多面的に考えることが大切である。
【理科編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説には明記されている。

つまり、6年生では、妥当な考えをつくりだす力を身につけるということになる。
科学者は、いろいろな実験結果をもとに、真実を探求する。
昔は正しいと思われたことも、科学の発展とともに今では正しくないと分かったこともたくさんある。
そのため、実験の結果から自分がどんな答えを導き出すのかって理科ではとても大事なこと。
そして、その根拠となる結果が複数あれば、自分の考えの妥当性は増していく。

以下は追試展開。

1 理科とはどんな教科を確認する。

①挨拶をした後、『理科ってどんな教科?』と尋ねる。
 ・実験する教科。
 ・観察する教科。
 ・結果から考察する教科。
 ・様々な実験器具を使う教科。
 ・危険な教科。

②子供たちの意見を踏まえて、「ちょっと違うかな。」と伝える。
 理科とは「不思議を自分の手で真実に変える教科」と伝え板書する。

2 問題を把握する。

①子供たちがノートを書き終えた後、黒板に「AとBのどっちが塩水のコップでしょう?」という問題を板書する。
 そして、全員を集めて説明する。

 「ここにAとBのコップがあります。どっちかは水で、どっちかは塩水です。
 今から、班で協力して、30分で当てます。
 理科室にあるものは、先生に許可を取れば何でも使って構いません。
 ただし1つだけルールがあって、飲むのは禁止です。
 質問はありますか?」

 と伝える。

3 実験方法を考える。

①班で5分間まず話し合います。
 理科の大原則を言います。
 「実態がわからない液体は口にしない。
 実態が分からないものには直接触れない。」
 この約束を守れば理科室内にあるものは何でもつかっていいです。
 あと備品が壊れるような使い方はしません。

 班長は、班の意見を箇条書きにして先生のところに見せにきます。
 点検を受けた班から実験を開始します。
 ※全体では実験方法は共有しない。

 ※本来なら各自ですぐに実験に入るべきだが、安全を優先して、事前に実験方法を教師が確認する展開にする。
 ※この問題はシンプルなようで、調べ方がいくつもある良い問題。
  ちなみに、次のような方法が考えられる。
 
 〇加熱するなどして「水」を蒸発させる。食塩の結晶が残る。
 〇電流が流れるか、電気抵抗を調べる。
  純水には電流は流れないが、食塩水は塩化ナトリウムがイオン化しているので電流が流れる。
  電極から塩素が発生するはずだから注意。
 〇同じ体積の重量をはかる。食塩水の方が重い。
 〇比重がおよそ1の物体を投入。
  例えば卵。水では沈む。食塩水には浮く。
 〇スポイトで水を垂らす。
  あるいは水に垂らす。
  食塩の濃度の違いは光の屈折率の違いになるので、食塩水は「見える」。
 〇食塩水は沸点が100℃ 凝固点が0℃ には ならない。
 〇食塩を投入し攪拌する。
  よりたくさんとけたほうが「水」。
 〇食塩と反応する試薬を使う。
 〇白金線につけて、炎色反応を見る。
  ナトリウムの色が見えるはず。
 〇鉄をつけておく。
  食塩水の方が早く錆びる。
 〇1 本のペットボトルを激しく振り、直ぐに耳に押し当てる。
   これをそれぞれ行うと、聞こえる音が異なる。
   食塩水は「シュワシュワ」と言った音が聞こえ、その音もしばらく続く。
   水はその音がない。
 〇冷凍庫で凍らせる。
  食塩が結晶化して出てくる。
  ほとんど凍らない方が食塩水。
 〇黒いフエルトの上にそれぞれ少しずつたらす。
  蒸発すると食塩が出てくる。
 〇ぬるま湯に石けんをとかして、プラコップ2個こ分の石けん水をつくる。
 ポイントは石けんは、プラスチックスプーンで少量しょうりょうけずって入れる。
 石けん水に、水と食塩しょくえん水をそれぞれ入れる。
 しばらくすると、片方かたほうの液体えきたいに白いかたまりができた。
 白いかたまりができた方が食塩しょくえん水


4 班で20分間実験をする。
 ①実験中に教師がやること
 〇実験器具の場所を教えたり、「使っていいよ」と許可を出すこと
 〇安全な実験ができているのかを見ること
 〇答えがわかった子に、1つの実験から答えをだすのではなく、複数の実験から答えを出すのが素敵だよって伝えること
 〇20分が経ったら、結果と自分の考えの書き方を教えること

5 結果を共有し、考察する。
 ①「さあ、時間切れ!」と言って、実験を止めさせる。
 ②実験方法とどんな結果が出たのかを発表する。
 
 ・1班…蒸発させると、Aに白いものが出てきた
 ・2班…キャップを浮かせると、AもBも浮いた。
 ・3班…塩を入れてみると、Aは溶け残りが出た
 ・4班…蒸発させると、Aに白いものが出てきた。

 ③そして、これらの結果を共有した後に、「この結果からどんな事が言えるかな?」と言って、考察を書かせる。
  
6 6年生でつけたい力を共有する。

 すごいね。君たちは、塩水がどっちかを実験でちゃんと当てることができたね。
 しかも何種類もの実験が出ているのがすごい。
 2グループの実験方法も今回は時間が足りなかったみたいだけど、きっともう少し時間があればうまくいくよ。
 実は、6年生でつけたいのは、みんながなっとくするような答えを出すことなんだよ。
 みんなが納得するためには、根拠がいくつもあるといいよね。
 6年生は、色々な実験を根拠にして、みんなが納得するような答えを出す力をつけていこうね。

7 まとめ

 その後、「ちなみに、今から配るのは先生がすごいなと思った子の考察だよ」といって、全員に配る。
 その子はこのように書いていました。
 「Aを蒸発させた結果、Aから白いものが出ていた。
 また、AとBの体積を同じにして重さをはかるとAのほうが重かった。
 さらに、Aに塩を入れても溶け残りがすぐに出てしまった。
 このことから、Aが塩水であると考えられる。」

 この考察のどこがすごいかわかる人はいますか。
 ・「根拠がたくさんあるからすごい」

saitani
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選択とは、何かを選ぶことではなく…

2025年04月01日 09時11分26秒 | 人生論
「医者の父が息子に綴る人生の扉をひらく鍵」中山祐次郎著より

試験というのは孤独なものだ。
自分だけが頼りで、誰にも相談できず、ちょっとした思い違いをしていても「勘違いしていますよ」と言ってくれる人はいない。
まるで強風の吹きすさぶ中、穴だらけの道なき道を一人で歩いていくようなものだ。
試験とは、こういう精神力もまた試されている。
だが、ひとたび社会に出るとこのようなシーンはほとんどなくなる。
君の人生における大切な選択は、50分以内とか90分以内に決める必要はなく、少なくとも数日の猶予がある。

一度決めたらもう取り返しのつかないような選択は、なるべく自分一人で考え、自分がどうしたいかを厳しく自問自答し、決める。
そうした方がいい理由は、2つある。
一つは、本当に君のことを考えて君にぴったりの選択を真剣に考えてくれるのはきいだけだ、ということだ。
僕は君の親だから、なるべく君のことを理解したいししてきたつもりだ。
それでも、親と子の関係というだけで、根本的には別の人間なのだ。
一緒に暮らしても、一緒に寝ても、どれほどの愛で包んでも、僕のことを、君以上に理解することはできない。
そのことを寂しく思うけれど、こればかりは仕方がない。

君は、一番の理解者だし、一番の味方なのだ。
二つ目は、「自分で決めなければ、覚悟が決まらないから」である。
選択とは何かを選ぶことであり、何かを選ばないということを決意することである。
もというと、実はどちらを選んでも大した違いがないことは多いという決断は多い。

大切なことなので何度も繰り返すが、僕は「選択とは、何かを選ぶことではなく、選びとったほうの選択肢で行くと覚悟を決め、あとで「ああ、自分が選んだほうが正解だった」と言えるように、圧倒的な努力によって現実世界を捻じ曲げること」だと思っている。
他人の助言で決めた選択は、少しでも不都合なことがあると「あの人の意見は間違っていたな」「信じた自分がバカだった」などとその人のせいにしてしまう。
そこに圧倒的努力は生まれない。
いろんな人に意見を聞いてもいい。
助言をしてもらってもいい。
でも、集めた情報を元に最後に決めるのは、たった一人自分のほうがいい。

SAITANI

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時に海を見よ 旅立つ君へ

2025年03月31日 07時04分48秒 | 教育論
これからの人生を生きる君たちへ

研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。
その努力に心より称賛の言葉を贈りたい。
また、今日まで支えてくれた多くの人々に感謝を申し上げる。
とりわけ、強く、大きく私達の教師修業を支えてくれた多くの先生方に心からのお礼を申し上げたい。
未来に向かう晴れやかなこの時に、小さなメッセージを残しておきたい。

これから新天地で教師として仕事をすることになる。
教師の仕事をするということは、教育という世界で生きていくこと。
そのことにどんな意味があるのか。
他の仕事の道を行くことといかなる相違があるのか。

教師として生きていくということは学び続けることでもある。
学ぶことは一生のことである。
いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。
一生涯辞書を引き続けろ。
新たなる知識を常に学べ。
知ることに終わりはなく。
知識に不動なるものはない。

教師として過ごす時間とはいかなる時間なのか。
誤解を恐れず、あえて象徴的に言おう。
教師として時間を過ごすということは、「海を見る自由」得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。
現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

ともすると時間は無意識の内に流れ、その痕跡を残さずに進んでいく。
その時間の流れは人間の力で制御することは不可能だ。
それはどの世界で生き、どの仕事をしようとも、どんな生活をしていたとしても制御することはできない。
しかし、人が人を教えるという神にも似た行為を日常的に行う教師には、ときに自分で乗っていた電車を途中下車することが許されるのはないかと考える。
「今日は一人で海を見にこう」
そんなことが教師という人間は許されるような気が私はしている。
また、そういった時間は絶対に必要だと最近強く感じる。

時に孤独を直視せよ。
海原の前に一人立て。
自分の夢が何であるか。
海に向かって問え。

生きるとは孤独を直視することなのだ。
直視の自由を得ることなのだ。
流れにまかせて時間を浪費してはいけない。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に未来への道はない。
いかなる悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ、大海に出よ。
嵐にたけり狂っていても海に出よ。
真っ正直に生きよ。
くそ真面目な人間になれ。
一途な人間になれ。
未熟さを恐れるな。

船出の時がきたのだ。
思い出に沈殿するな。
未来に向かえ。
別れのカウントダウンが始まった。
教え導かれる存在から教え導く存在に変われ。
愛される存在から愛する存在に変われ。
愛に受け身はない。
私は、真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

梅花春雨に涙す  令和7年弥生31日
                  


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夫婦円満のコツ

2025年03月30日 16時01分04秒 | 人生論
①違う考えを持っていても
見ている景色は同じだと忘れないこと

②時には全力で甘えてみること

③価値観の違いは「あたりまえ」
むしろ、それがいいと感じること

④喧嘩をしても
次の日に持ち越さないこと

⑤つまらない話でも
熱心に聞くこと

⑥「ありがとう」の気持ちを
毎日1回は伝えること

⑦相手の失敗を否定せず
受け入れること

⑧何歳になっても
デートの時間を大切にすること

⑨自分の気持ちを
嘘偽り無く
率直に伝えること

⑩年に1回は
二人で新しい挑戦をすること

⑪最愛の人を
一生愛し続けること

⑫嫌いな所ばかりが見えてきたら
その倍、好きな所を思い出すこと

⑬相手が怒っているときは
一緒に怒らないこと

⑭相手が笑っている時は
一緒に笑うこと

⑮沈黙の時間も大切にすること

⑯「ごめんね」と言い過ぎないこと

⑰「ありがとう」は
言い過ぎなくらい言うこと

⑱過去に執着せず、今を大切にして
未来への希望を忘れないこと



saitani
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肥沼信次

2025年03月29日 05時54分25秒 | 教師論
皆さんは肥沼信次という人物を知っているだろうか。
私が知っている限りでは学校教育の中では出てこない人物である。
総合学習などで郷土の偉人として特定の地域では調べ学習を行うことがあるかもしれないが、不勉強ながら私も最近知った人物である。

教師は志が大切だとかねがね言ってきた。
志さえしっかりしていれえば、大抵のことは揺るぎなく越えていくことができる。
この志なくして、どんな教師修業をしても無駄だと言ってもいいだろう。
誤解されないように言っておくが、無駄だと言っているのは自分が目指す教師にはなれないということ。
多少は敎育技術は向上し、自信ももてるかもしれないが、他者貢献という究極の人生の命題にはいくつくことはないということだ。

肥沼信次についてその人生を振り返る。

以下引用。

誰かのために
生きてこそ
人生には価値がある
    (アルベルト・アインシュタイン)

 
1 「数学の鬼」と呼ばれた青年
1908年10月9日、東京都八王子市で医院を営む肥沼梅三郎医師の家に、男の子が誕生しました。
信次と名付けられたその子は、医院の後継ぎとして厳しく育てられることになります。
肥沼家には信次の後に弟が2人、妹が1人生まれましたが、家にいるときは勉強ばかりで、兄弟と遊ぶことはほとんどありませんでした。
信次は医師を目指し、尋常高等小学校(現・八王子市立第三小学校)から東京府立第二中学校(現・都立立川高等学校)に進学。
1年の浪人を経て1929年4月に日本医科大学に入学し、1934年3月19日に卒業しました。

信次の性格は、大学生時代のニックネームに象徴されます。
それは、「数学の鬼」。
誰よりも数学に熱中する様子からそう呼ばれるようになりました。
いつもドイツ語で書かれた高等数学の原書を読み、数学の先生からも質問を受けるほど数学が得意だった信次。
しかし、実は最初から数学が得意だったわけではありません。
むしろ、小学校時代には家庭教師をつけられるほど苦手だったのです。
そこから努力を重ねて数学に取り組み、中学に入ってその面白さに開眼。
その頃に来日した物理学者、アルバート・アインシュタインの存在も、信次の数学熱を一層高めたようです。
彼はドイツ出身のアインシュタイン博士やポーランド出身のキュリー夫人に憧れ、「いつかドイツで研究をしたい」と口にするようになりました。
当時のドイツは、世界に名だたる医学先進国。
ドイツに留学して最先端の医学を学び、広く人類の役に立つ医学研究者になりたいという思いが、信次の中に芽生えていました。

大学受験を迎えた信次は、数学に熱中するあまりほかの科目がおろそかになり、志望校に落ちてしまいます。
しかし、浪人中の1年間も東京物理学校(現・東京理科大学)で数学を教えるアルバイトに就くなど、数学漬けの毎日を送りました。
一浪して19歳で日本医科大学に入学した彼は、卒業アルバムの趣味の欄に「数学」と書き記したそうです。

2 研究に燃える日々
1934年4月、信次は25歳で東京帝国大学(現・東京大学)放射線医学教室に入学します。
彼が大学で研究テーマとして選んだのは、放射線の医学的利用について取り扱う放射線医学。
数学的思考が重要な放射線医学は、まさに「数学の鬼」にふさわしい研究テーマでした。
大学ではひたむきに研究を行い、『腸捻転の数学物理学的考察』や『細胞発育と放射線照射の時間的因子について』など、3年間で3編の論文を発表しました。

そして1937年の春、信次は日本政府の国費留学生として憧れのドイツに渡ることになります。
中学時代から抱いていた「ドイツで研究をしたい」という思いが、28歳になってようやく実を結びました。
旅立ちの日には、母や弟、研究室の仲間たちが見送りに来たそうです。それが、彼らとの今生の別れとなりました。

ドイツに渡航した信次は、高名な感染症研究所であるコッホ研究所に入所。
その後、1937年7月19日にベルリン大学(現・フンボルト大学)放射線医学研究所に客員研究員として加わりました。
アインシュタインが教授を務めていたベルリン大学は、信次にとって憧れの研究場所でした。
信次はひたむきに研究に取り組み、『生物学的的中理論および突然変異の発生』『生物学的な放射線の影響の論理について』『細胞核ないし遺伝子の倍化および核ないし染色体の遺伝子の総数について』などの論文を発表します。
1939年7月にはそれらの功績が認められ、ドイツと諸外国の研究者による協働サポートを目的とする、アレクサンダー・フォン・フンボルト(AVH)財団の研究奨学生に選ばれました。
信次の死後、その業績はAVH財団によって「肥沼信次」特集号としてまとめられることになります。
1993年当時で約16,000人を数えた歴代研究奨学生の中で、こうした扱いを受けたのは信次ただ1人でした。

研究奨学生に選ばれた後も信次は精力的に研究を続け、1944年、35歳でベルリン大学の教授に推薦されました。
それは、東洋人として初めて手に入れる名誉でした。
そのときの信次は喜びのさなかにいたはずです。しかし、戦争の猛威が彼のすぐ近くまで訪れていました。

3 ナチスに屈しない勇敢さ
信次が渡航した1937年、すでにドイツの首相は独裁者として知られるアドルフ・ヒトラーでした。
1939年9月1日、ヒトラー率いるナチス独裁政権がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
言論統制やユダヤ人の迫害が始まり、大学の教職志願者はナチスへの忠誠を誓う宣誓書をドイツ政府に提出するよう強いられました。

その宣誓書について、信次の勇敢な人柄を示すエピソードがあります。
彼は宣誓書に「私は純粋な日本人であり、日本国籍を有することをここに誓います」と書きました。
当時のナチスは、優越民族と主張するゲルマン民族以外を認めない純血主義。
その状況で自分が純粋な日本人だと断言するには、たいへんな度胸が必要でした。

また、1944年8月20日にフンボルトハウスで行った講演では、後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹博士などの優秀な研究成果を持つ日本人について取り上げ、「日本民族の優秀性」を主張。
これも、ゲルマン民族至上主義の当時のドイツにおいて非常に勇気のある発言でした。

信次がベルリン大学の教授に推薦された翌年の1945年3月、ドイツの戦況が悪化したため、日本大使館からベルリン在留の日本人に対して帰国指示が出されます。
多くの日本人は帰国するため同年3月18日に大使館に集合しましたが、そこに信次の姿はありませんでした。

4 リーツェンへの移住と伝染病治療の開始
帰国を蹴った信次は、ベルリンの東北東43kmに位置する町、エーヴェルスヴァルデに向かいました。
その移動には、ドイツ軍人の夫を亡くした戦災未亡人のシュナイダー夫人と、その娘が同行していました。
彼が帰国を断ってエーヴェルスヴァルデに向かった理由や夫人との関係は、はっきりとはわかっていません。
「信次は、シュナイダー夫人とその娘をエーヴェルスヴァルデにいる姉妹のもとに送り届けるために帰国しなかったのではないか」
信次の家政婦、エンゲル・イムガルドがそう語る談話が残されているのみです。

エーヴェルスヴァルデで暮らし始めた信次に、ほどなくしてソ連軍地区司令部のシュバリング司令官から指令が届きます。
その内容は、隣町のリーツェンに新設される「伝染病医療センター」の所長に信次を任命するというものでした。
リーツェンはドイツとポーランドの国境付近に位置する町。
戦争の影響を大きく受け、水道施設や変電所などのあらゆるものが破壊されていました。
不衛生な環境に陥ったリーツェンでは伝染病の発疹チフスが大流行していましたが、当時、ドイツ人医師の多くは徴兵されていました。そこで、日本人の信次に白羽の矢が立ったのです。
任命を受けた信次は、1945年8月にリーツェンに移り住み、治療の日々を開始しました。

リーツェンの市庁舎に新設された伝染病医療センターは、十分な設備が整っているとは到底いえない状況でした。
医師は信次以外におらず、看護師は7人だけ。
しかも、そのうち5人はセンターで働き始めてすぐに発疹チフスで亡くなってしまいます。そんな中で信次は衛生指導を行うなど、勇敢に治療を試みます。治療の合間には周辺の街やベルリンに出向き、薬をかき集めました。



5 勇敢かつ献身的な治療
信次が治療に向かう姿勢を象徴する2つのエピソードが残されています。

1つは、難民収容所での出来事です。
信次はある日、リーツェンから5kmほど離れた町にある難民収容所に往診を行いました。そこは、ポーランドを追放され、疲弊しきったドイツ人が集まる施設。不潔な部屋の中で、ぼろきれをまとった病人が横たわりうめき声を上げ続ける、地獄のような場所でした。
同行した看護師のヨハンナ・フィドラーは思わず立ちすくんでしまったといいます。
しかし、信次は少しもひるまずに、最も症状のひどい患者から治療を始めました。
その姿は「勇敢な戦士のようだった」と、後にヨハンナは語っています。

もう1つは、5歳の少女を治療したときの出来事です。
1945年9月末、5歳の少女、ギセラ・ヴォイツェクが伝染病医療センターに運ばれてきました。
診断の結果、発疹チフスと判明。
40度の熱が3日間も続き、すぐさま投薬治療が必要な状態でした。
しかし、薬局が破壊されたリーツェンには薬がほとんどありません。
ギセラの命を救うため、信次はリーツェンから2日間かかるソ連軍の野戦病院へ薬を探しに行きました。
そして、必死に頼み込んで譲ってもらった薬を持ち帰り、ギセラは奇跡的に回復したのです。
薬に命を救われた彼女は、成長した後に薬剤師となりました。

このように、信次は勇敢かつ献身的に、リーツェンとその近郊に暮らす人々の治療に当たりました。
しかし、リーツェンに来てから4カ月が経った1946年1月、医師である信次の元にも、ついに病魔が襲い来ることになります。

6 桜をもう一度見たかった
1946年に入ると信次は体調を崩し、自宅に帰るなりソファやベッドに倒れ込むように寝ることが増えます。すでにこのとき発疹チフスは彼の身体を侵し始めていました。
信次は症状を自覚してからも努めて明るく振る舞い、患者の治療に取り組みましたが、その年の3月2日にはついに寝込んでしまいます。
寝込んでから5日経った3月7日は、家政婦エンゲルの誕生日でした。信次は「誕生日パーティをやれずにごめんね。16歳の誕生日おめでとう」とエンゲルにお詫びと祝福の言葉を贈ったといいます。

そして2日後の3月9日、信次は息を引き取りました。
享年37歳5カ月。
最後の言葉は、「桜をもう一度見たかった。みんなに桜を見せてあげたかった」でした。
故郷から遠く離れたドイツで気丈に戦い抜いた信次でしたが、心の中には日本や家族への、思慕の情があったのかもしれません。

7 「コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」
信次の死から43年後の1989年、朝日新聞の「尋ね人欄」に、1つの記事が載せられました。

「日本人医師・故コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」

リーツェン近郊の郷土博物館館長であるラインハルト・シュモーク博士は、リーツェンの人々を救ったコエヌマという医師の存在を知り、信次のことを調べていました。
それを聞きつけたAVH財団の研究所長クルート・R・ビアマン博士が、ベルリン大学で同僚だった数学思想史家、村田全教授に新聞への投稿を依頼したのです。

記事を見た信次の弟、栄治氏は、村田教授に連絡を返しました。
やっと、信次の消息が家族に伝わったのです。
これをきっかけに、栄治氏はリーツェンの人々と交流を開始。
1994年7月に肥沼信次博士記念式典が開かれる運びとなりました。
伝染病医療センターのあった市庁舎前には大理石の記念銘板が立てられ、栄治氏から100本の桜の苗木が贈られました。
信次が死の間際もう一度見たかったといった桜が、死から48年を経てリーツェンに根を下ろしたのです。
そして、苗木が成長したら植え替えて町に並木道をつくり、「Dr.Koyenuma Beachpark(肥沼通り)」と名付けることが議会で決定されました。

8 善意の輪は現代につながる
2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、信次とリーツェンの絆を表す出来事が起こりました。
リーツェンの市民や高校から、信次の行為や肥沼博士記念式典に対する寄付への恩返しとして、義援金7,000ユーロ(約76万円)が贈られたのです。
そのお金は信次の出身地である八王子の高校に託され、岩手県の釜石、陸前高田、大船渡の3市の中学校に寄贈されました。

夢を持ってドイツに渡航した信次。
彼は戦争というやむを得ない事情により研究を断念し、そのまま異国の地で命を落とすことになりました。
しかし、彼の治療に懸命に取り組む医師としての姿勢はリーツェンの人々の心に刻まれ、善意の輪として現代にもつながっています。

引用終わり。

もうすぐ4月。
満開の桜の下を新入生が通り、令和7年度を迎える。
桜は美しい。
自分の大好きだ。
しかし、毎年満開の桜吹雪の下をあるくとき胸を締め付けられるような感覚に襲われる。
それは悲しいとか切ないという感情とはまた違うもの。
なぜ桜の花は下を向いて咲くのか。
それは下を歩く人々が、顔を上げて前向きに生きていけるという願いをもって咲いていると知った。
そんな桜を見るときにその桜に多くの人々が願いを込めて生きてきた歴史を感じるのである。
人は志が大事だと言った。
自分もこれからも志を忘れずに生きていきたい。

saitani
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箴言

2025年03月28日 11時14分52秒 | 人生論
「察してほしい」という甘えは捨てる
「わかってくれる」という幻想は捨てる
「知って欲しい」という承認欲求は捨てる

〇他人に勝手に期待して
 不機嫌になるのは誰も得をしない
 期待は他人に向けるよりも
 自分に向けるべきです


「あの人に期待してたのに」
「あの人に裏切られてしまった」
「あの人のせいで人間不信になった」

〇裏切られたのではなく
 勝手に相手を美化して
 誤解していただけです

SAITANI


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存在価値

2025年03月27日 05時00分00秒 | 人生論
60代になって考える 自分も存在価値

確実に人生の半分は過ぎただろう
あと数十年もすればほぼ間違いなく存在していない
自分一人が存在しなくても
何事もなかったかのように
この世界は続いていく

さらに時が過ぎれば
自分が存在したことさえ
忘れ去られるかもしれない

だからこそ……
過去の後悔や未来の不安などを考えている時間は本当にもったいない
今まで一生懸命に生きてきた一度きりの人生
これからは自分のために生きたって
誰も文句は言わないだろう

大切なことは
今日という一日を
大事に生きること

これからの人生
自分の気持ちに正直に生きていこう

saitani
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放課後の教室で…

2025年03月26日 05時01分14秒 | 教師論
腕で3ミリの血管を探し、そこに1ミリの針を刺す。
血管に当たったら、動かさずに注射器を引く。
どす黒い静脈血を10cc
ほど取ったら、痛みがないようサッと針を抜き、すぐに押さえる。
こんんば技術を積み上げていけば、いつの日に難手術をさらりと執刀する自分にたどり着けるはずだ。
そう信じるしかなかった。
18年前の自分に、それで正解だったよ、と伝えたい。

    「医者の父が息子に綴る人生の扉をひらく鍵」より

来る日も来る日も誰もいなくなった放課後の教室で、その日の授業を振り返った。
思い出そうとしても、どうしても鮮明に思い出せない。
◯◯がこう発言して、そのあと◯◯がさらに反論した。
そのあと、誰がなんと言ったのだろう。
自分は国語のあの場面でどう発問したのか。
一字一句再現しろ言われても思い出すことは難しい。
あの発問をしたときの子どもたちのちょっとした表情の変化は何が原因だったのろうか。

一人ひとり机に手で触れて、この子と今日はどんな会話をしただろう。
算数の授業でこの子はどんな発言をしたのか。
そう考えると半分近くの子とはほとんど会話がないことに気づいた。

そんな気の利かない活動をすることに何の意味があるのかと自分に問うた。
孤独なある意味単調な作業だった。
しかし、あの頃の自分に会えたら、その教師修業は無駄ではないと伝えたい。

そんな思いが蘇る文章だった。

saitani
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大切なこと

2025年03月25日 05時30分02秒 | 人生論
①いちいち
 「期待しない」
 「反応しない」
 「求めない」

②良かれと思って
 「動き過ぎない」

③やたらと
 「愛想を振りまかない」
 つけ込まれる
 要因にもなる

④むやみに
 「関わらない」
 必要以上に
 首を突っ込んだり干渉しない

⑤必要以上に
 「話さない」
 口は災いの元

⑥ やみくもに
 「心を注がない」
 一方通行な 
 暴走は
 大事故の原因

⑦いたずらに
 「口を挟まない」
 気の利いたことが
 言えないのならば
 黙っていた方がいい

⑧わざわざ
 「ご機嫌を取らない」
 最終的にあなたが
 心身共に
 潰れる事になる

⑨無理に
 「答えを出さない」
 0か100じゃなくて
 50の選択も
 しっかり活用しよう

saitani
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子供が熱中するクイズ

2025年03月24日 05時37分42秒 | 学級経営
子どもたちが熱中するクイズ。
授業のちょとしたすきま時間や学級開きに最適。

1 9つのくだものがかけっこをしました。
  さて、ビリだったくだものはなんでしょうか?

2 名前を繰り返すとこわれる花は?

3 新聞の中にいる「鳥」は何かな?

4 たばこにあるものをくわえると、とてもからいものになります。
  さて、何でしょう?

5 「?」に入るアルファベットは何でしょう?

   DRMF?RSD

6 次の式は何を表しているでしょうか?

   T=1
   D=1
   F=2
   K=?

7 ある法則で書かれた式があります。
  ?に入る数字は何でしょうか?

 ・1+0=1
 ・1+2=0
 ・6+8=3
 ・6+9=?

8 次の式に1本の直線を加えて、式が成り立つようにしましょう。

  5+5+5+=550

9 次の4つの食べ物のうち、同じ店で買うことができないのはどれか?

 ・A  15
 ・B  710
 ・C  100
 ・D  0

10 この分数はある規則にしたがってならんでいます。
  「?」にあてはまる数字は何でしょう。

 1  1  2  3  5  ?
 ー  ー  ー  ー  ー  ー
 1  2  3  5  8  ?

11 これはなんとよむでしょうか?

  番番食食番番
  食番食番食番
  番食番食番食食

12 世界各国代表の子どもたちが集まる国際会議が行われた。
  その会議が突然停電に…… 
  最初に「電気をつけろ!」と叫んだのはどこの国の人でしょうか?

13 どんなにさわいでいる子供でもそれを出されると静かになる和菓子は?

14 次の式を完成させてください。
  それぞれの(  )には何が入るのでしょうか?

    パン+(  )-(  )-(  )=ホットドック

15 お寺がくずれた時の音は、どんな音?

16 (黒い円を三つ提示して)
  ねえ、これ買ってきて。
  「これ」とはなんでしょうか?

17 あるなし問題です。
  これって、何?

      ある              ない
    愛にはあるけど、         恋にはない。
    青にはあるけど、         赤にはない。
    秋にはあるけど、         夏にはない。
    沖にはあるけど、         浜にはない。

18 駐車場である番号が振られたスペースには車はおけなかった。
  その番号は次のどれか?

      ・A  1
      ・B  4
      ・C  7
      ・D  9

19 二人の悪人がいます。
  4本の線をつかってこの二人が悪いことができないように、閉じ込めてください。

20 ①熊のけを抜くと、ある動物に変身します。
   一体何の動物に変身するのでしょうか。

  ②食べると、大声が出せなくなるお弁当は何でしょうか。

解答偏
1 キウイ
2 ばら
3 きじ
4 タバスコ
5 S(ソ……ドレミファソラシド)
6 43(都道府県)
7 2(数字の〇のかず)
8 +に斜め線を加えて4にする
9 B(納豆)いちご・もも・なし
10 8/13  分母・分子となりとたす
11 給食当番(9食10番)
12 日本人(日本語で叫んでいるから)
13 みらたしだんご(見たらシー)
14 ソーセージ
15 ドスン(寺の漢字を上下二つに分けると土と寸に分かれるから)
16 クロワッサン
17 ある(県名につかわれている漢字)
18 9(車は急にとまれない)
19 人をしかくで囲って(囚人)
20 ①馬(Kをとると残るUMA)
  ②鮭弁当(さけべん)

★ゴリラゲーム
※ユーモアの分かる子を一人指名して。

「先生が今からどんな質問をしても【ゴリラ】と答えてください。」
「ではいきます。」

・あなたの名前は?  ゴリラ
・今日あなたが起きて最初にあった人は誰ですか? ゴリラ
・今日の朝ご飯は誰が作ってくれましたか? ゴリラ
・学校に来て教室で最初にあいさつをいつものは誰ですか?
・今日の給食は何を食べましたか?
・いつも学校から帰るときに一緒に帰る人は誰ですか?
・明日はバレンタインデーですが、あなたがチョコレートをもらいたい人は誰ですか?
・いつも仲良く遊んでいるのは誰ですか?
・いつも一緒に寝るのは誰ですか?
・あなたの目の前にいる〇〇先生にあだ名をつけているそうですが、そのあだ名は何というのですか?

saitani



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