飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

「かさこじぞう」授業構想4

2006年01月31日 23時54分08秒 | 国語科
第二段落のエピソードの要約。
通常、エピソードは、主語と述語の順で普通の文体で示すのがセオリーである。
今回は、要約の手法も使い、第一キーワードによる体言止めでエピソードをまとめていく。
ここでのキーワードを子どもたちにあげさせる。

声をはりあげる、かさが売れない、ばあさまはがっかりするだろう、正月買いもんの人、大年の市、など。

これをまとめると「町で声をはりあげてかさを売るが、だれもふりむいてくれず、がっかりするばあさまを思うじいさま。」のようになる。

この物語を通じて、感じることは、二つ。
一つは、ばあさまとじいさまの生活の貧しさ。
もう一つは、ものはないが、心だけは豊かに、前向きに生きようとする二人の姿勢である。
これは一貫してよみとっていかなければ、表面的な感想になり、「二人は優しい」程度の感想で終わる。
貧しさの中でもたえ、なおかつ、自分のことよりも他人の思いやる気持ちを失わない健気さに気づかなければならない。
満ちたりでいるときに人に優しくすることはたやすい。
しかし、自分も苦しいときに人に優しくできるかどうか。
そこが問われているのである。

SCENE141(saitani)

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「かさこじぞう」授業構想3

2006年01月30日 23時48分42秒 | 国語科
「かさこじぞう」の主題を短い言葉で言えば、「清福」ということになるだろう。

辞書には、「けがれのない幸福、精神的な幸福」と書かれている。
どんなに貧しくても、いつも二人して心を合わせ、身を寄せ合うように暮らしているじいさまとばあさま。
その二人は庶民のたくましさ、善意といった人間の本質を併せ持っている。
どんな貧しさの中にあっても、絶えず希望を失わずに、生きていくというひたむきな生き方である。
以上にように先に書いた。
清く正しく生きる二人にあった言葉である。
また、物的な豊かさよりも、精神的な豊かさを求める物語とも一致する。

余談になるが、この清福に似た言葉で『惜福』『分福』『植福』というものもある。
「惜福」は、訪れた幸福を使い切ってしまわないで、足ることを知り、十分だと感じるところで、抑えておきましょうということ。
「分福」は、福を分かち合いましょう。自分の得た幸福を他人に分け与えることがまた幸福を呼ぶのだということ。
「植福」は、人々の幸福の源になる仕事をしましょう。即ち、幸福の種を植えその芽を出させていくような生き方をしましょうということ。
どれも道徳的にも重要な価値観である。

次に授業展開について具体的に考えてみる。
まず、あらすじをつかむために、各段落ごとのエピソードをまとめていく。
このときキーワードを基にした要約の技術をつかう。
物語で一番大事なキーワードは何かと問う。
これは主人公と一致する。
かさこじぞうの場合は、「じいさま」ということになる。
この「じいさま」を第一キーワードとして、エピソードをまとめる。

第一段落。
前書きのリード文を除いて。
「この段落で大事な言葉は。」と子どもたちに聞いた場合、すげかさ、もちこ、たいそうびんぼうなどをあげてくるだろう。
次に、これらの言葉を限定し、要約文を書く。
もちこを買うために、すげかさをあんだばあさまとじいさま。
こんな感じになるだろう。

SCENE140(saitani)

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「かさこじぞう」授業構想2

2006年01月26日 22時55分30秒 | 国語科
教材文を読んで、まず、この物語の主題は何かと考えてみる。
主題とは、作者が読者に対してもっとも言いたいことである。
しかし、基本的に作品は作者の手を離れた瞬間に、主題に関して読み手の主体的な解釈に任されていることもあるので、あまり、固定的に考える必要なないのかもしれない。
しかし、授業者である教師は授業構想を組み立てるとき、あいまいな読み取りでは授業は成立しない。
明確な自分の主題をもって子どもたちの前に立つ必要がある。

教材は最低でも50回以上は読む。
その上で読解の視点を様々にあててみて、主題を解明していく。
国語の読み物教材には、何をめあてにするかによって展開がかわってくるものがある。
詩のように、情景をゆたかにイメージできるようにする授業。
音読のリズムを重要視し、言葉遊びのように楽しく展開するもの。
そして、様々な手法を用いて、自分なりの主題を読み取るもの。
今回の「かさこじぞう」は子どもたちそれぞれが、思索批評的に自分の経験を合わせて考える主題に迫りたい。

では、この作品の主題は何か。
子どもたちに尋ねたときにでてくるのは、やはり、じいさまとばあさまの優しさということだろう。
また、道徳的に、よいことをすると必ず恩返しがあるといった主題を読み取る子もいるかもしれない。
ただ単に、優しさを読み取るのではなく、その優しさが極貧の中でのできごとであったことや物はなくとも前向きに生きる中での行いであることを読み取らせたい。

自分で考えたのは、「民衆のたくましさ、したたかさ、強さ、優しさ、明るさ」である。
どんなに貧しくとも、いつもふたりして心をあわせ、身を寄せ合って暮らしているじいさまとばあさま。
そのふたりは庶民のたくましさ、善意と言った人間の本質を併せ持っている。
どんなに貧しさにあっても、たえず希望をもって生きていこうとするひたむきな生き方を子どもたちに考えさえたい。

次にここに迫る、様々なアプローチを考えてみる。

SCENE139(saitani)

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「かさこじぞう」授業構想1

2006年01月23日 23時22分45秒 | 国語科
「かさこじぞう」についての授業構想を考えてみた。
まず、「かさこじぞう」と「かさじぞう」の違いについて考えてみる。
世の中に似ているが、異なる題のものがある。
この「こ」が入ると入らないではどのような違いがあるのだろう。

一つめは、原本となっている本が異なると言う点。
絵本『かさじぞう』は、瀬田貞二再話、赤羽末吉画、福音館刊である。
『かさこじぞう』は、岩崎京子文、新井五郎絵、ポプラ社刊である。
学校図書の教科書に載ったのは、ポプラ社刊を底本にしている。

二つめは、ベースとなる文体の違い。
例えば、同じ会話の部分を比べてみると次のようになる。
『かさじぞう』(瀬田貞二)
・「あやあ、むごいことだなあ。はだかでゆきかぶって、さぞさむかろう。」
このじいさまの会話には、地蔵様との間にすき間が感じられない。
快適なテンポで話が展開されている。
別のいい方をすれば、説話的あるとも言える。
説話的とは、閉鎖的な集団の中で、語り手と受け手とが、同じ発想に立っていることが前提であり、そのことによって成り立つものとされている。
『「かさこじぞう』(岩崎京子)
・「おお、おきのどくにな。さぞつめたかろうのう。」
この会話に象徴されるように、説話の特質が生かされている。
両者の間にすき間、まのびも感じる。「おきのどくに」と突き放して眺めている。
言わば、小説的。
個が独立しており、作中人物が行動しているだけであって、それをどう見るかは、個としての読み手にまかされている感じがする。

三つ目は、物語のバックボーンとなることがらの違い。
例えば、「かさこじぞう」は、『かさ』をおじいさんとおばあさんが作ったことになっている。
それに対して、「かさじぞう」は他人との物々交換で入手したことになっている。
あと、物語の終盤にやって来る地蔵さん達の掛け声も違う。
前者が『じょいやさー』と言っているのに対して、後者は『ようやさようやさ』となっている。

このような作品の周辺的な知識を深めることも教材研究では必要だろう。
あと基本的なこととして、原典にあたることも忘れてはならない。
意図的に、原典を改作してある場合もあるからだ。
そのことが授業展開に大きな影響をあたえることもある。

SCENE138(saitani)

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効率のいい勉強法

2006年01月23日 02時45分01秒 | 授業論
若いときにやっておいた方がよいと思うことのひとつに、「量」をためることがある。
とにかく教師になって、何もわからないときにどれだけ量をためるかがポイントである。

たとえばピカソは生涯で8万点の絵を描いた。
この8万点という数は、画家のなかでもぬきんでた数字である。
ピカソは90年以上いきたので、10才から絵を描き始めたとしても、80年間で8万点ということは、1年で1000枚。
さらに一日にすると3枚という計算になる。
これを2,3日ならなんとかできるかもしれないが、80年間続けることは並大抵の努力ではない。
天才といわれたひとですら、このくらいの努力をしている。
いい方を変えれば、これだけの量をこなすことが天才の条件なのかもしれない。
とにかく若いときは、効率のいい勉強方法はないと考えることが大事だ。
なによりも量である。
多くの本を読み、多くの研究会に出かける。
多くの意味のある人に出会い、多くの実践記録を残す。
この作業を根気よく続けること。
若いときの1時間は、年をとってからの1年にも匹敵するというのが私の実感である。

まず、量である。
量がどんどん積み重なり、ある時質量転化の法則により、形となってあらわれるのである。
ささいなことの積み重ねにこそ、成長の種がやどっている。

SCENE137(saitani)

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「あとで調べよう」の「あと」は永遠にやってこない

2006年01月22日 22時22分35秒 | 授業論
「この漢字、どう書くんだったかなあ。」
「送りがなは、どうだったかなあ。」
仕事柄、文章を書く機会が多いのでたびたび考え込んでしう。
(教師であるのに情けない)
おまけに同じ漢字を何度も引く。

こんな言葉がある。

 何か思いついたり、疑問を持ったりしたときにすぐ開けるように、辞書は
 いつでも手の届くところになければ困る。カニを食べているようなときで
 も、手を拭う時を惜しんでページを開く。そうしないと、思いつきも疑問
 も忘れてしまうからだ。
     「考える力」をつける本  轡田隆史著 三笠書房

 
一学期に是非国語辞典を購入してもらうように依頼した。
子供たちにも、
「お小遣いがあるならばすぐに自分の辞書を買った方がいい。」
「辞書は必ず君たちを賢くしてくれるから。」
と言った。
いつでも国語辞典が身近にあれば、子どもたちは手を伸ばす。
しかし、机の中やロッカーの中に入れたり辞書をケースの中に入れておくだけでも使わなくなってしまう。
国語辞典のカバーはとらせて、常時、机の上におくように言ってある。 それだけでも、活用度が全く違う。
国語辞典は「国語の辞書」と考えがちだが、日常全般の事項を網羅した生活辞典とらえた方がいいかもしれない。
授業中はもちろん、給食中も国語辞典を机の上に出しておき、いつでも引けるようにしておく。
辞書はいつもしまわず、出しっぱなし、これがいい。
「後で調べよう」の「あと」は永遠にやってこないのだから。

子供たちに付箋(ポストイット)を渡してある。
言葉を調べることにそれに意味を書き、はさんでいく。
たくさん意味調べをする子の辞書は、付箋で大きくふくらんでいる。
自分でどれだけ頑張ったかが、目で見て分かるのである。
努力の蓄積が分かるというのはすごく励みになる。
ほんのささいな事だが、子供たちは一生懸命努力している。

ある子が休み時間ににこにこしながら辞書を持って私のところにやってきた。
「先生、先生。 見て見て。
 『情けは人のためならず』ってこういう意味なんだね。
 それから、『状況判断』はここに意味がかいてあるよ。」
私は、
「へえ~、ちゃんと意味を調べてえらいね。」
と感心してしまった。
ただ、ふと後になって気がついたのだが、この言葉は私が全体に注意をしているとき に言った言葉だった。
「ということは、注意を聞くよりも辞書を引くことに集中していたのかな。」と嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちだった。
注意はちゃんと聞いてよね。
             ある日の教室の風景
SCENE136(saitani)

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未来に向けて

2006年01月21日 23時53分24秒 | 授業論
学習評価は、学習評価であって、人格の評価ではない。
学習評価は、学習能力の中の一側面しか見ることはできない。
学習評価は、人間の持つ諸能力の一部分であるし、さらに学習能力の一部分を示したものであるにすぎない。
そんな、認識を持つことも必要だと思う。

今日で2学期も終了し、冬休みに入る。
子供たちは、運動会を始め行事で大きく成長した面もあるが、やはり大切だったと思うのは、毎日の授業や生活であったと思う。
その日々の生活の中で培ってきたものは何か。
これまでの積み上げによって、あらわれてきた5年1組の特徴は、何かと考えてみるとまず浮かぶのは、ボスがいないということかもしれない。
ボスがいないというのは、決してリーダー不在で教師の指示がなければ何もできないということではない。

1組では、固定したリーダーを作らなかったということだ。
「いつでもだれでも、学校生活のある場面においてはリーダーになれる」そういう方針のもと学級運営を行ってきた。
だから、子供たちは自分の可能性を信じ、様々なことにチャレンジしてきた。
スタートした当初は、代表者を決定するとき立候補する子もなく、とても困った記憶がある。
しかし、今は誰を選ぶかで苦労している。

子供たちの大きな特徴は、笑いが多い(担任に似て、低俗になっているという噂もありますが)。
楽天的である。
にぎやかである。
私は、実にすばらしい資質を持った子供たちといえると思う。
しかし、当然これと裏返しの努力を必要とする点もある。
仕事、課題に対する持続性のこと。
物事、発言に対して好奇的ではあるが、注意深くないこと。
深くまでとことん考えること。
これは、3学期の私自身の課題でもある。

時代が大きく変わろうとしているように、子供たちも大きく変わろうとしている。
日記も文章も、実にすばらしくなってきたこと。
50問の漢字テストのクラス平均も95点を超えたこと。
算数のノートが、定規を使ってうっとりするほどきれいにとれるようになったこと。
授業が始まるといつも学習部が前にでて、勉強を始める体勢をつくっていたこと。
みんなが帰った後、放課後、教室へ行くと全員の椅子がきちんと入っていること。
ものを人に渡すときに、「どうぞ」「ありがとう」が言えるようになったこと。
些細なことかもしれないが、子供たちの成長にとってとても大事だと考えていることである。

さらに、これを出発点として残り少ない子供たちとの日々を大切にしたい。
               2000年12月22日 教室の風景

SCENE135(saitani)

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なぜ敬語をつかうのか

2006年01月20日 23時58分56秒 | 学級経営
教室の中で敬語をきちんと遣える子は何人いるだろう。
特に高学年では、近い将来敬語を正確に話せるということは絶対に必要になってくる。
最近は「友達みたいな先生」「友達みたいな親子」と言う方がいいような風潮がある。
ほんとうにそうなのだろうか。

プライベートな限られた場面ではあるのかもしれないが、公の場、学校というところも他人が集まる公の場だと考えるが、その場所においては正確な敬語をつかいこなす能力を育てなければならない。

なぜ、敬語で話さなくてはならないのか。
そう子どもから質問されたとき、なんと答えるだろう。
それは、礼儀であり、社会人としての常識だ、と言えばいいのかもしれない。
でも、最近のこどもはこれでは納得しない。
納得できるきちんとした理由が知りたいのである。
学級経営も充実し、子どもと教師の人間関係がうまくいっている状態なら、「一般道徳は守るべき」という言葉で納得するかもしれない。
学級のスタート時、まだ、信頼関係が出来ない時期では、ある程度の趣旨説明が必要だろう。

まず、敬語をつかう場面を考えてみる。
それは目上の人、偉い人、自分より年上の人と接する場面である。
そして、この人たちと出会うことにより、先人の知恵を学び、長年の経験則から生まれた貴重な成功の秘訣を教えてもらったりする。
さらには、成長や飛躍のチャンスを与えてくれるのも年長の人であることが多い。
これらの人と出会えるかどうか、コミュニケーションがとれるかどうかは、敬語がきちんと遣えるかどうかが大きなウエイトをしめることは事実であろう。
もう少し端的に言えば、年長の方とのコミュニケーションツールとも言える。

これをつかいこなせないということは、大切な接点を失うことになり、自分の世界を狭め、飛躍のチャンスを失うことになる。
出会いの機会を広げるためにも、自分を成長させるためにも、敬語は的確につかえなければならないのである。

こんな風に私は子どもたちに話す。

SCENE133(saitani)

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学級の軌跡

2006年01月15日 01時58分18秒 | 学級経営
平成17年度もいよいよまとめの時期となった。
これまでの一日一日の学級の生活で培われた規律やルールが隠れた形で機能し、教育本来の活動が行われる時期である。
子どもたちは自分たちが目指すべきものは何で、自分がクラスの中で何をすれば納得する結果が得られるかを自覚し、集中して努力を続ける。
担任は、走り続ける子どもたちを止める、むしろストップ役になる。
黙っていれば子どもたちは、自分の限界まで挑戦を続けようとするからだ。

私もこれまで多くの挑戦をしてきた。
それは長縄であったり、1万メートルのオリンピック記録にクラス全員での挑戦であったりした。
また、スポーツに限らず、名文の全員暗唱であったり、評論文作製であったりもした。
なぜ、このような活動に子どもたちは熱中し、多くのことを我慢したり、犠牲にしてまで取り組んだのだろう。
それは、やはり夢の力だと思う。
教育とは、もちろん難しい計算式を覚えたり、歴史人物のエピソードを覚えたりすることでもある。
もちろんこれらは子どもたちにとって大事なことである。
なぜなら、これからの学校生活の中で必要不可欠な事だからである。
しかし、教室にはこれらを何百集めても比較にならないほど大事なことがある。
それは、子どもたちに夢を語り、共に夢を追い続けることだ。

自分は、教育とは挑戦だと思う。
さらに言えば、生きることは挑戦だと思う。
それを実現させるために一生懸命努力する。
その努力の過程において、自己の存在感を感じ、クラスの一員であることを実感する。
もちろん、夢を追いかけたり、挑戦をしたりする行為は、様々な現実が立ちふさがり、挫折を味わうことになる。
でも、これは言える。
現実的な努力なくして、夢の実現はありえないということ。
自分の足下をみつめ、自分の現在の能力を正しく判断する。
そのことなしに、現実的な努力をすることはできない。
現実を知ると言うことは、自分の能力はここまでだと知ることとは全く違う。
現実を知ることにより、的確な目標をもつことができ、未来の自分の可能性を広げるのである。

たとえ挑戦が失敗したり、夢が叶わなかったとしても、挑戦したこと自体が学級の生活の軌跡であり、確かに子どもたちと教師が生きてきた証しとなると信じている。

挑戦する学級、それが本来の教育の姿である。
すべての学級が生きた証しを刻んでほしいと思う。

SCENE133(saitani)

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当たり前のことを当たり前に

2006年01月08日 01時29分35秒 | 授業論
指導しているミニバスの練習試合があった。
ほとんどメンバーが集まらず、急な日程だったこともあったが久しぶりのワンサイドゲームだった。
敗因は多くあるが、すべて指導者の責任である。
選手のモチベーションが低いのもやはりそれは指導者の責任である。
モチベーションを高めるにはやはり忍耐力も必要だと感じた。

その忍耐力はどうしたら育てることが出来るのだろう。
ただ、苦しい練習に耐えることだけだろうか。
それは、あまりにも見識が狭すぎるような気がする。
忍耐力を育てるには、きちんとした目的意識をもった練習メニューが必要である。
そして限られた時間の中で、次のことも育てなければならない。
1 目標の明確化の意識
2 どんな選手になりたいかという願望
3 自分には可能性があるという自信
4 計画性のある個人レベルでのトレーニング
5 技術に関する正確な知識
6 協力する心
7 前向きな意思の力
8 正しい習慣

本年度も残り3ヶ月、悔いのない結果を残したい。

SCENE132(saitani)

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