飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

コーチングとティーチング

2005年10月30日 23時49分43秒 | 授業論
先日、ある子を指導する場面があった。
その子を指導していて感じたことだが、なぜこの子は言い訳をこれほどまでにするのかということだった。
子どもは基本的には素直な性格だと思う。
しかし、指導を誤ればネガティブな思考パターンになったり、相手の非だけを主張し、自己防衛だけに終始する発言を繰り返す。
その原因はどこにあるのだろう。

やはりそれは物事の始まりにあるのだと考える。
彼の思考回路には「言い訳による自己防衛」しかないのである。
スタートの時点で、きちんとしたビジョンをもった教師ならティーチングを行う。
教えることを重視する。
物事のやりかた、たとえば話し合いの仕方をしらない子どもたちに討論はできない。
まず、ものごとのやり方、掃除のやり方から机の整頓の仕方に至るまで教える。
さらには組織のルールを教え、あらゆる組織には上下関係があり、統率している人間がいることを教える。

「ドラゴン桜」の一場面の言葉である。

「基礎となる『カタ』をまず身に付け、それを工夫とアレンジしていくんだ!
 てめえにその基礎があんのか!
 『カタ』にはめるな!
 なんてほざくやつはただのグータラの怠け者だ!」

このあたりを間違えている教師が多いように思う。
平等な人間関係ではコーチングは出来ないのである。
この基本的な過程を経て、個人が目標をもつようになり、集団がひとつの方向性をもって成長していく。
成長し、きちんと機能している集団には明確な枠組みがあり、その枠組みがあってコーチングは効果を発揮する。

「本音で語り合いましょう。」「何でも言い合えるクラスにしましょう。」とよく教師は言う。
しかし、本当にそうなのだろうか。
本音がそんなに大事なのだろうか。
すべてをさらけ出して本音でぶつかり合うことはいいことのように思うが、なんだか私は息苦しいように思える。
集団の中ではたとえ本音であっても言ってはいけないことはある。
逆に、たとえ敵をつくることになっても、主張する人間が一人であっても言うべきとを言わなければならないときもある。

自己中心的な思考をする子は、学校と社会は同一線上にあることを理解していない。
社会で許されないことは学校でも同じように許されないということを覚えなくてはいけない。

1年間の折り返しを過ぎたこの時期に感じることである。

SCENE114(saitani)




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メディアリテラシー

2005年10月29日 17時49分12秒 | ICT
メディアリテラシーという言葉を最近よく聞くようになった。
実査には、7年ほど前からマスコミ等で取り上げられるようになったようだが、私自身はそんなに以前から理解していたわけではない。
メディアリテラシーとは、直訳すると「メディア 新聞・テレビ・ラジオなどの情報媒体。」「リテラシー literacy 読み書き能力。また,ある分野に関する知識やそれを活用する能力。」要するに、メディアを利用する技術や,伝えられた内容を分析する能力のことである。

さらにメディアリテラシーとは、次のような複合的な能力だと考える見方もある。
①メディアを主体的に読み解く能力
②メディアにアクセスし、活用する能力
③メディアを通じてコミュニケーションを創造する能力。特に、情報の読み手との相互作用的コミュニケーション能力。

メディアリテラシー教育の必要性が強調される裏側にはこんな問題点も指摘されている。
○匿名性があるから、無責任な言動に陥りやすい。
○現実と仮想現実の境界線が区別できなくなる。
○機会を相手にした生活に陥り人間関係が希薄化する。
○情報機器を利用した新しい犯罪が生まれている。
○不確かな情報を鵜呑みにして、正しい判断ができなくなる。

これからのメディア社会を生きていく子どもたちにとってメディアリテラシー教育は必要不可欠なものになっている。

SCENE113(saitani)

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学校参観1

2005年10月28日 22時23分00秒 | 授業論
ある学校の研修会に出かけた。
研修テーマは、主体的な活動と表現力の育成だった。
単学級の学校規模で、こぢんまりとしているなあと言うのが第一印象だった。
算数の授業を参観した。
内容は、教科書を扱わず、トピック的な教材を単発で扱うものだった。

よく研究会で見かける内容である。
ここでひとつ疑問である。
なぜ、単元の一場面を見せずに練習問題的な課題を選択するのだろう。
それはその授業の前後の進度や指導内容が問われることが少ないからなのか。
もっと教材と真摯に向き合うべきだと思う。
ふだんの授業の中で子どもたちがどのように鍛えられ、どのような力がついているのか。
また、その力をつかってどの程度の討論ができるのか。
子どもの事実によって示すべきである。
それが教師の良心であると思う。

授業展開自体は、問題解決学習であるため、一般的に言う「練り上げ」と称する場面がメインとなる。
しかし、その内容は練り上げとはほど遠いものだった。
クラスの中で発言する児童は4名程度。
習熟度でなないため、能力の差が大きい普通学級である。
残りの子たちは授業中一言も話をしなかった。
指示された計算はノートに行うものの、自分の考えやひらめきを書く場面ではほとんどお手上げ状態である。
使っているノートもまちまちで統一されていないのも気になった。
教師が次々とヒントを出し、それに能力の高い子だけが反応していた。

TTで授業が行われていたが、子どもたち同士のやりとりはほとんどは教師を介して行われ、活発な意見発表とはいえない内容だった。
多くの参観者の前での発表になれていない普通の公立学校の子どもたちであったので、ちょっと可哀想だが、これまでの教師の鍛え方や育て方がほとんど見えてこない授業だった。
展開的にはかろうじて優秀な子が、教師の意図する答えを最後に導き出すことができたが、その説明がわかっているのはクラスの半分もいないだろう。

研修に対するコンセプトはよくわかるが、具体的な手だてが明確でないので、子どもたちが育ってこないのである。

全員を分からせるという教育実習生でも学ぶべき授業の基本を考えると、多くの疑問が残る授業であった。

SCENE112(saitani)

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修学旅行の終わりに

2005年10月14日 23時45分51秒 | 授業論
10月は修学旅行のシーズンである。
本校でも、今日と昨日、1泊2日の修学旅行が行われた。

東京はどこへ行っても、一般のお客さんより修学旅行生の方が数が多い。
お台場、上野公園、国会議事堂etcどこへ行っても同じ状況である。
見学場所では、どの学校も班別の自由行動をしている。
私も、見学しながら子どもたちの様子を見ている。
自分の学校の子どもたちを見つけると「写真撮るよ~」と声をかけ、記念撮影。
しかし、それにしても小学生が多い。
後ろ姿はみんな似ているので、うっかりすると他校の子どもに声をかけそうになる。
逆に、「先生ですよね。トイレはどこですか?」なんて知らない子どもから聞かれる場面もあった。

2年ぶりに国会を見学して驚いた。
新しい見学通路ができていて、とてもきれいになっていた。
以前は雨が降っても、国会見学通路のわきのスペースに集まるしかなかったが、今回は違っていた。
見学通路入り口を入ると、以前使用していたスペースの地下に見学者が集まる場所が作られ、トイレもここから行ける。
また、議員が実際に座っている椅子のレプリカや簡単な国会の歴史がわかる展示物もあった。
ここを通れば、雨にぬれずに議場まで行ける。
現在は、会期中ということで議員の方々も多く、ちょうど休憩中と言うことで議場の札は立ったままになっていた。
修学旅行のハイシーズンのわりには、他校の子どもたちの姿はまったくなく、落ち着いて見学できた。
見学を追えた後、国会正面にまわり恒例の集合写真を撮って国会をあとにした。

最高裁判所の見学も終え、帰路についた。
バスが学校に近づく頃、子どもたちが二日間お世話になったバスガイドさんと運転手さんに歌のプレゼントをした。
この二日間で最初で最後の歌だった。
きちんと歌詞がしおりに貼られていて、事前にレク係が指示していたことがわかる。
修学旅行の最後はやはり感謝の気持ちで終わりたい。
こうして楽しい思い出作りができたのも多くの人たちの助けがあったからだということに気づかせるのも目的の一つである。

最初小さかった歌声もだんだん大きくなり、最後はしっかりと歌うことができた。
その歌を歌っている間に、レク係がガイドさんと運転手さんの似顔絵を描いた。
「先生、これでいいかなあ。
 うまく描けているかなあ。」
と何度も私に聞いてきた。
このプレゼントは、「私が担任だった頃いつもこうして感謝の気持ちを表していた」と子どもたちに話したところ、子どもたちも賛成して実施することになった。

似顔絵には一言、お礼の言葉が添えられていた。
子どもたちが歌い終わるとガイドさんが大きな拍手をしてくれた。
「ガイドを何年もやっているけれど、こんな風にしてもらったのは初めてです。
 プレゼントずっと大事にします。
 歌も今日もために練習してくれたんですね。
 ありがとう。」
目にはうっすらと光るものが…

こうして、無事1泊2日の修学旅行は終了した。

SCENE111(saitani)




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算数における基礎と基本

2005年10月09日 23時16分35秒 | 算数科
今一度、算数における基礎・基本を考えてみる。
算数に代表されるように教科において、基礎と基本はいつも一体となって使用される。
基礎・基本を一つの概念としてとらえるとき、他の場面においてもしくは学習において転移できる能力とも定義できる。
定義であるので、共通に理解していれば間違いということはない。
しかし、基礎と基本は違う概念としてもとらえることができる。

例えば、ある本に次のように書かれている。

「基礎」に対して「発展」を「基本」に対して「派生」という考えを対応させる。
算数という教科では、積み重ねの大事さが叫ばれるように、常に一つの内容を基礎にして、次の内容が発展して登場する。
また、小学校算数の根幹にかかわる一貫性のある大きな考えが学習にはつらぬかれている。
これが「基本」である。
それをもとに「派生」した内容が登場する。

「基礎」について例を考えてみる。
例えば、「たし算」が習得されれば、それを基礎にして次に「ひき算」や「かけ算」が発展として現れる。
そして、さらにこの「かけ算」が基礎となって「わり算」が発展となって現れる。

これに対して「基本」は1本の木の幹のように下から上まで中心を貫いているもの指すという。
また、その幹のまわりに繁る葉や枝が派生する。
数と計算領域では、「十進位取り記数法」という考えが、1年生から6年生までの内容を貫く木の幹のような考え方になる。
これに基づいて、数の表し方やたし算・ひき算などが0~9までの10個の数字を使って表せることができる。

このように基礎と基本を考えると授業内容もかわってくるように思う。

SCENE110(saitani)



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会議のあり方

2005年10月07日 23時52分23秒 | 授業論
学校には会議と名の付く多くの話し合いがある。
これは会議なのだから、基本的なルールがあり、それは厳格に守られなければならない。
しかし、現実は違う。
定刻に始めるという意識さえ薄い。
私は、よく「会議開始の放送を入れてください。」と言われるがほとんどはしない。
ただし、臨時的な会議は放送するが。
なぜ放送しないかと言えば、一度放送をすれば放送を聞いてメンバーは動くようになるからである。
開始の放送がないということは、会議が始まらないと考える人間もでてくる。
時刻を守らないと言うことは、他人の時間を奪っているのだという感覚をもっていないということだ。
もし、気がついていないとすれば悪習は永遠に続く。

会議を仕切るのは司会者である。
この司会が心得ておくべきことがらをあげてみる。

1 準備は時間をかけるが、会議には時間をかけない。
 現実は全くの逆である。明確な構想やビジョンをもたずして、提案者になって平気な人もいる。
会議に時間を短縮したいなら、準備に時間をかけるべきだ。
原案になしの提案も、会議の常識を無視している。
文書で提案することも常識だ。
さらに、「どうしましょう」なんて提案をすることは問題外である。
提案は、一つの方向性を示すか、AかBから選択するという形にすることが必要だ。

2 会議がどうなりそうか頭にイメージする。
 意見が分かれそうな懸案については、どのように話の流れをつくるのかイメージすることが必要だ。
そこには管理者の方針も尊重し、提案者の意図も考慮に入れて落としどころを考えておく。
みなさんの意見を聞いた上で、決定するというような曖昧なイメージでは話し合いは伸びるだけだ。

3 時間配分を明確にする。
 レジメに配当時間を明記することも必要だろう。
 やたら発言の長い人がいる。
 その内容は長ければ長いほど意味不明になる。
 端的に言えないと言うことは、理解できていないと言うことである。
 それは子どもも大人も同じである。
 通常、会議の持ち時間は一人5分である。
 この常識さえ知らない人がいる。

4 会議の目的と制限時間をはっきり述べる。
 何のための会議なのかを全員が理解している必要があるのに、会場にきてから目的を確認する人もいる。

5 時間を守る。(閉会・開会)
 司会者と参加者一名がいれば会議は始める。
 時間がきたら、そこで打ち切る。
 もっとも、時間内に終わらない司会者に問題があるが。
 時間を守ろうと思ったら司会者は、絶対に復唱しないことである。
 復唱をする司会者は、時間の感覚が薄い。
 あと司会者がまとめをすることがあるが、それも必要ない。
 結論を確認することは必要だが、正確な要約になっていないので話し合いの方向性が分からなくなる。

6 最後に必要なことはユーモアを忘れないこと。

SCENE109(saitani)

 



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算数における学習内容

2005年10月06日 23時51分16秒 | 算数科
算数科では、学習指導要領において、学習内容を四つの領域に分けられている。
それぞれの領域の凝縮された基本とは次のようになる。

A 数と計算
 ・十進位取り記数法の原理に従って数を操作すること。
  さらに詳しく言うと、10個の数字ですべての数が表現できるということ。
  また、位ごとに分けた計算結果を合わせれば計算はできるということ。

B 量と測定
 ・単位を決めて、その幾つ分かで数値化すること。
  長さ、面積、体積、その他どんな量であっても、基本となる単位を決めればそ  の幾つ分かで表現できる。

C 図形
 ・概念を形成する過程を自らつくり出すこと。
  「比較→抽象→概括」という過程をふまえ、それぞれの図形の概念を導き出   す。

D 数量関係
 ・いつでもいえるきまりをみつけだすこと。
  そのきまりを式で表現したり、グラフに表現したりする。
  比例の表から横の関係、縦の関係を見出す学習がこれにあたる。

このような基本原理をまず理解しておくことは、授業を組み立てる上で重要だろう。

SCENE108(saitani)
  

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目標設定

2005年10月03日 23時14分04秒 | 授業論
学校を初めとする組織では、目標というものを設定する。
その学級にも、クラスレベルの目標、個人レベルの目標、レベルは様々だが必ず目標が貼られている。
目標を明文化することは達成への一方法であるのでそれ自体はいいのだが、目標設定にも一定の技術が存在する。
まずは本人の達成意欲という点で他人が立てた目標よりは、自分自身が立てた目標の方がよりモチベーションは高い。
リーダーが立てる目標においても、何らかの形で構成メンバーをその過程にかかわらせた方がいいだろう。

ある本にはこんな風に書かれている。
目標は「ぐたいてき」であること。

①「ぐ」具体的な目標を立てる。
いつまでに、何を、どうするか、はっきりと数字を入れた形で立てる。
目標は希望ではなく、宣言であることも忘れてはならない。

②「た」達成可能であるか。
達成不可能な目標を立ててはいけない。
とくに小さな達成感をたくさん体験できるようにすることも大切である。
成功体験を積み重ねることにより、意欲も喚起され次へのエネルギーとなる。
本人にあった目標設定をすることも重要。

③「い」目標に意欲的になれるか。
達成可能な目標を設定することは大事だが、目標達成の過程において、また、結果を手にしたとき充実感が体感できるかどうかも大切である。
もし、感動がなければ目標が低すぎることも考えられる。
その場合、ちょっと背伸びした目標設定が必要になる。

④「て」目標が定量化できる。
立てた目標が測定できる、数値化できることが大事である。

⑤「き」記録可能である。
プロセスを記録する。
成功の法則を見つけ、そのノウハウを共有することもできる。

以上のような観点から目標設定を見直し、支援するのもリーダーの役目である。

SCENE107(saitani)

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負けることの意味

2005年10月02日 08時54分30秒 | 授業論
先週の日曜日、指導しているミニバスの練習試合があった。
3試合を行い、1勝2敗という結果だった。
そのうちの1勝も、相手チームの4番が途中、負傷して退場したり、センターが捻挫をしたりというアクシデントに見舞われた結果の勝利だった。
通常に試合が行われていれば、負けていたかもしれない内容だった。
今回の相手チームはすべてレベルが高かったということもあるが、今まではとは違う結果があるように思った。

確かにチームはレベルアップしているし、技術的にも進歩している。
練習の絶対量が少ないこともあり、定着は不十分なところはある。
しかし、子どもたちはよくやっている。
弱いチームには勝てるが強いチームには勝てない。
ダブルスコアになるようなチームに対しては、実力の差が要因だが、少なくとも一桁得点差の場合は、ベンチワークのミスか、もう一つの要因が考えられる。

それはセルフイメージである。
セルフイメージとは、日常生活における考え方や行動の仕方によって決められることである。
誰にでも、下意識というものがある。
これは選手一人一人がもっている実力である。
意識レベルを超えたところにある行動基盤といえるものである。
これは天性のように思えるがそうではない。
この部分を大きくするのは練習である。
だから、練習の質と量が問題になる。
このプレーに大きく影響を与える下意識を試合という緊張場面ではっきできるかどうかはセルフイメージにかかっている。
練習でできることが試合でできないというのは、このセルフイメージが間違っていると言うことでもある。

物事をどのように考えるか、これがセルフイメージの一面でもある。
この試合の1週間前、ある子どもに聞いた。
「君は、苦しい困難な練習と楽な練習と二つの道があったら、どちらの道を選ぶ?」
その子は、何の迷いもなく、
「楽な方を選ぶ。」
と答えた。
この子は、チームのエースである。
この意識レベルの低さにあらためて愕然とした。
チームは組織を構成する一人一人の意識レベルが同じになって初めてまとまりをみせ、本来の力を発揮するようになる。

ある保護者が試合後、
「この負けは次につながる。」
と言っていたが、「本当につながるのかな。」と疑問が残った。
意識レベルがこの程度では、同じ事の繰り返しだ。

試合後、あまり話をしたことはなかったが、今回は自分の考えを子どもたちに話した。
私が帰った後、子どもたちは自分たちで反省をしたそうだ。
今まで、一度もそんなことはなかった。
練習メニューもハードなものを取り入れるようになった。
それでも、文句をいわず取り組んでいる。

今月は大会の月である。
子どもたちがどんな戦いぶりをしてくれるか楽しみである。
そして、指揮官のミスで部下に迷惑をかけることのないように戦略面も十分に対策をたてておくことも必要である。
「勝つためにはただ練習するのでは勝てない。そのためには正しい考え方を身に付けていなければならない。」ラニー・バッシャム

SCENE106(saitani)

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