京都薩摩藩邸跡の石碑である。
現在は、同志社大学西門入り口に建っている。
京都には、薩摩藩邸は三カ所あり、その一つがこの二本松藩邸である。
慶応2年、坂本龍馬の努力によりそれまで敵対関係にあった薩摩と長州が同盟を結んだことにより維新は大きく前進した。
その転機となるできごと、薩長同盟が結ばれたのが、二本松薩摩藩邸である。
一説には、前回紹介した小松帯刀邸だったとも言われている。
同志社大学の大学生が、当然だが石碑など気にすることもなく休みなく行き来する風景が見られた。
小松帯刀寓居跡、参考地である。
この地は、あくまでも参考地として紹介されている。
説明板には次のようなことが書かれている。
この場所は、平安京の左京北辺二坊五町にあり、「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が
住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされている。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、
この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。
そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。
以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。
同家御用達商人だった古高俊太郎(桝屋喜右衛門)も出入りしたと推定される。
元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、
池田屋事件の導火線となった。
なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があった。
薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるため、
当邸は有力候補地といえる。
慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、
その地で薩長同盟が締結された可能性がある。」
当地付近は千年に及ぶ、絶え間ない重要な歴史の舞台地であった。
以上、引用。
京都御所の北東に猿ヶ辻と呼ばれる場所がある。
名前の通り、猿の彫り物があるのだが、いわれは次の次の通りだそうだ。
北東の方向(艮(うしとら)の方角)は悪い鬼が入ってくると信じられ、表鬼門とされてきた。
猿は、難が去る(猿)とかけて、鬼門を守る魔除けなのだ。
京都御所、猿ヶ辻は、ここだけ築地塀が内側にへこんでいる。
つまり、北東角である鬼門の角を無くし鬼封じをしている。
文久3(1863)5日20日、この猿ヶ辻で尊皇攘夷派の急先鋒だった公卿、姉小路公知が何者かに斬殺されたことでも有名な場所である。
世にいう「猿ヶ辻の変」。
公知は、ちょうど御所での攘夷をうながす会議を終えた帰り道に猿ヶ辻にさしかかったところ、何物かに暗殺された。
薩摩藩士・田中新兵衛が犯人として捕縛されたが、田中は取り調べ中に自殺した。
本当に田中が犯人だったのか、真相は不明のまま。
当時、このあたりは公家屋敷の軒の混んだ、昼でも薄暗いところだった。
平日の京都御所は、本当に静かな場所である。
蛤御門、本来の正式名称は新在家御門だそうです。
光格天皇の頃に発生した天明の京都大火で御所が炎上した折に、滅多に開かなかったこの門がこの時だけは開いたというので、「固く閉じていたのが火にあぶられて開いた」と言われたことから蛤御門という俗称が付きました。
蛤御門の変は,禁門の変とも言われます。
文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。
その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。
このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老(福原越後・国司信濃<くにししなの>・益田右衛門介)が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所、蛤御門・堺町御門附近で戦い,長州藩は敗北しました。
今も門には、弾痕が残っています。
蛤御門から御所に入ってすぐのところに一本の椋の木があります。
今も京都御苑の一角に立つ樹齢300年のその椋の木は、来島又兵衛の最期を静かに見下ろしていた木でもあります。
来島又兵衛率いる遊撃隊は、国司隊とともに天龍寺から御所に向かって出撃します。
この戦いは禁門の変と呼ばれています。
その理由は蛤御門はめったに開くことのなかった門で、禁門とも言われていたのでここでおきた戦いを禁門の変とも言います。
この蛤御門のあたりが一番の激戦地区だったようです。
来島又兵衛らが、会津・桑名などの藩兵と交戦したのがこのあたり。
一時は勢いよく禁裏へと迫った長州兵でしたが、さらに北側の乾門を守っていた薩摩藩が救援に駆けつけ、多勢に無勢となってしまった長州は、一気に逆転されてしまいます。
形勢不利と見ながらも、葦毛の馬にまたがり、颯爽と指揮を取る又兵衛でしたが、薩摩藩の川路利良の放った銃弾が、又兵衛の胸を貫きます。
もはや、これまでと思った又兵衛はこの椋の木陰にて自刃したのです。
享年49歳。
又兵衛の最期を看取った椋の木の下で、しばし思いをはせました。
saitani
今も京都御苑の一角に立つ樹齢300年のその椋の木は、来島又兵衛の最期を静かに見下ろしていた木でもあります。
来島又兵衛率いる遊撃隊は、国司隊とともに天龍寺から御所に向かって出撃します。
この戦いは禁門の変と呼ばれています。
その理由は蛤御門はめったに開くことのなかった門で、禁門とも言われていたのでここでおきた戦いを禁門の変とも言います。
この蛤御門のあたりが一番の激戦地区だったようです。
来島又兵衛らが、会津・桑名などの藩兵と交戦したのがこのあたり。
一時は勢いよく禁裏へと迫った長州兵でしたが、さらに北側の乾門を守っていた薩摩藩が救援に駆けつけ、多勢に無勢となってしまった長州は、一気に逆転されてしまいます。
形勢不利と見ながらも、葦毛の馬にまたがり、颯爽と指揮を取る又兵衛でしたが、薩摩藩の川路利良の放った銃弾が、又兵衛の胸を貫きます。
もはや、これまでと思った又兵衛はこの椋の木陰にて自刃したのです。
享年49歳。
又兵衛の最期を看取った椋の木の下で、しばし思いをはせました。
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