飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

わたしたちが求めるもの

2005年11月30日 04時26分05秒 | 授業論
学級のスタートに明確なビジョンをもつことは不可欠である。
明確なビジョンを持たない教師に、計画性はなく、思いつき程度の学級しかできないからである。
思いつき程度の学級経営したら、子どもからの信頼は失われ、保護者の信頼も失う。

「例えば日本一になる」という目標をたてる。
子どもたちはこの目標さえ立てればよいが担任は、そこに至るまでの道筋をイメージできなければならない。
1ヶ月後の学級の姿、子どもたちの姿を具体的にイメージできなければならない。
そのイメージがあってこそ日々すべきことが見えてくる。
短いスパンでこの過程を繰り返していく。
その積み重ねが、目標達成のカギである。

しかし、いつも目標が達成されるとは限らない。
いや、達成できないことの方が多い。
では、どのような形で1年を終えることが望ましいのだろう。
子どもたちが卒業式や修了式の日に、「いい1年だった。」「自分は幸せだった。」と思えるような毎日にするにはどんなことが大切なのだろう。

それは、担任や子どもたちが何を求めたかによると思う。
こんな言葉がある。

わたしたちが何を手に入れるかは、
わたしたちが何を求めるかで決まる

この言葉の面白いところは、
「わたしたちは、求めたものを手に入れる」
と言っていないことである。

目標を達成しても一時的な喜びで終わり、後に何も残らない場合がある。
それとは逆に、目標に到達できなくても、感動があり、生涯の宝となる経験をすることもある。

国語の教材研究をしているとき、何が大切かを考えた。
目に見えるものは事実であり、目に見えないものこそが真実であるとふと思った。

目に見えるもの、見えないものいずれにしろ、自分が求めているものは分かっている必要がある。

SCENE121(saitani)


成功の秘訣

2005年11月30日 03時31分02秒 | 授業論
授業日数の残すところあと60日あまり。
常に前向きに何かの目標に取り組んでいる学級は新鮮さを1年間失わない。
それは決して、楽しいことばかりがあったという思い出ばかりの月日を言うのではない。
苦しかったこと、辛かったことも、学級の成長のために必要なことであり、自分たちにとっては大切な思い出だと子どもたちが思えるかである。

では、、この時期どのような心構えが学級経営には必要なのだろう。
あのディズニーランドは75パーセントがリピーターだと言う。
これはすごい数字である。
何も努力せずして、なしえる数字ではない。
ディズニーランド成功の秘訣がこんな風に紹介されている。

1 常に未完成でなければならない。(挑戦)絶えざる追求
2 常に非日常性でなければならない。(夢)マンネリ打破
3 毎日が初演でなければならない。(爽快)爽やかさを感じさせる

こんな視点で学級振り返り、残された時間をどのように過ごすかをを今一度考えてみるといいと思う。

SCENE120(saitani)

よい授業の条件2

2005年11月26日 23時25分31秒 | 授業論
研究授業の総括の続き。
斎藤喜博があげている「よい授業の条件」の三つ目。

3 誰にでもよくわかる授業。
授業は明快でなければならない。
余分なものが切り取られ、しかも、充実した内容をもっている。
一つの課題に集中し、緊張感があるということである。
追求の課題が明白になっていて、それまでの追求の道筋も全員に明白になっているということでもある。
全員による追求過程において、新しいものを次々獲得し、新しい問題を次々作りだして行く過程において初めて可能になることである。
参観者の中に、「練り合いの授業をしているのになぜ習熟度別なのか。」という意見があった。
習熟度別の授業では、様々な意見が出ないので話し合いが活発にできないというのだ。
自分はまったく逆の立場である。
習熟度別だからこそ「練り合い」ができるのである。
「様々な意見」とは何だろう。
おそらくこの様々とは、より完全に近い答えと不完全な答えとの差を言うのだろうか。
「間違った意見をもとに話し合いすべきだ。」こんな意見もあった。
間違った意見を子ども中から出すことに抵抗を感じる。
自分の間違った意見を1時間の間検討されるのである。
きちんと人間関係と学級経営がされていて初めて可能になることである。
したがって事前の学年団の話し合いの中でも、間違いは教師示すべきだという考えが多かった。
検討対象は「間違った考え」ではなく「不完全な考え」である。
限られた時間内で、不完全な考えを完全なものに近づけていく行為と正解ではあるが異なった意見を検討する行為が同時に行われるのである。
問題解決学習の問題点に時数がかかりすぎるということがある。
異常な行為を同時に行っていたら、莫大な時間がかかり、基礎基本の定着はほど遠い。
今回の「練り合い」の目的は、異なる意見の検討である。
したがって均等分割では難しい内容であった。
誰にでもわかる授業という点では、どの子の発表内容も本クラスでは十分に理解できるないようであったと考える。

SCENE112(saitani)

よい授業の条件1

2005年11月26日 02時17分26秒 | 授業論
研究授業を終えた。
今まで研究授業をして一度たりとも納得いくものはなかった。
それは完全な授業はありえないと考えているからだ。
教育は絶えず変化し、進歩していかなければならない。
それは人類の進歩が止まることのないように、次世代を担う子どもたちには、今日よりもさらに優れた教育がされなければ、結果的に退歩という形になるからである。

今回の授業は、算数科の問題解決的な学習である。
分数×分数の計算を仕方を考える領域である。
斎藤喜博があげている七つの「よい授業」の条件をもとに総括する。

1 子どもの可能性を引き出す場になっているかどうか。
子どもの持っている可能性を引き出し、具体的な形にする場面が授業である。
今回の場合で言えば、算数の苦手な子が算数が面白くて仕方がないようにすることができたかということである。
本授業は、習熟度別の学習形態をとったため、ほとんどの子が算数に関してはあまり苦手意識を持っていなかった。
したがって、自己解決の場面では子どもたちは自分のもてる力を発揮した。しかし、授業が積極的で文化的で創造的なものである以上、こどもたちの可能性を引き出す授業とはいいがたいものだった。

2 一方的ではなく相互の交流があるかどうか。
授業は教師が自分のもっている知識を一方的に教えるだけのものではない。
教師と子ども、子どもと子ども、教師と教材、こどもと教材との間に交流があったか。
問題解決の場面では、練り合いが一般化につながる重要な過程になる。
ただ、単に自分の考えを一方的に伝えるのは容易である。
しかし、他の友達の意見を比較検討することは非常に困難さを伴う。
そこには、高度な表現力と考え方の原理や法則性を理解した上でないと的確な指摘ができないからである。
この力は学校教育全般で培われるものであり、算数科のみで身に付けられるものではない。
今回は教師が比較検討の対象を提示し、ポイントを尋ねていった。
双方向性のある授業形態をめざしたが、子ども中心となると疑問点が多い。

SCENE110(saitani)


問題解決における有効な発問

2005年11月20日 00時30分47秒 | 授業論
問題解決の学習でもっとも難しいのは練り合いと言われる場面である。
算数に対する数学的な考え方の能力とともに、高度な表現力を必要とするからだ。
教科全般にわたって、表現力を育て、発言に対する意欲も高めなければ、練り合いは行えない。
まず、以上のようなことが大前提となるからである。

そして、次に教師の発問・指示である。
問題解決活動を活発化させるためには、発問では『特徴・分類・類似・予想・列挙・具体例・問題づくり』などといった発問が有効であると言われている。

(1) 特徴 「気づいたことはありませんか?」
(2) 差異 「どんなところが違いますか?」
(3) 類似 「似ている点がありますか?」
(4) 包含関係 「これとこれは仲間ですか?」
(5) 分類 「いくつかに分けてみましょう。」
(6) 予想 「どんなことがいえそうですか?」
(7) 選択 「~なのはどちらですか?」
(8) 判断 「~といってもよいですか?」
(9) 列挙 「~をすべてあげてみましょう。」
(10) 検証 「本当に成り立ちますか?」
(11) 表現 「みんなに分かるように説明してください。」
(12) 変化 「どのように変わりますか?」
(13) 性質 「それは何を表していますか?」
(14) 条件 「どんなときに~になりますか?」
(15) 方法 「どのように調べますか?」
(16) 関係 「どのような関係がありますか?」
(17) 意味 「何か意味があるのですか?」
(18) 理由・根拠 「もとになっている事柄は何ですか?」
(19) 具体例 「どんな例がありますか?」
(20) 計算・操作 「~を求められますか?」
(21) 問題づくり 「~の性質を使って問題をつくってみましょう。」
(22) まとめ 「これらの結果を整理してみましょう。」

●その他
提示 「今日は~をします。」
指示 「~をしなさい。」
説明 「~を・・・といいます。」
確認 「わかりましたか。いいですね。」
評価 「すごい。」「それは違います。」

このような子どもたちに対する投げかけを、的確にしながら教師は授業を展開する必要がある。

SCENE117(saitani)


フラッシュカード

2005年11月19日 23時57分13秒 | 授業論
授業の場面でよく使われる教具にフラッシュカードがある。
中学校では、英単語の暗記などでよく使われている。
私自身も、中学校のとき英語の時間に練習した記憶がある。
このフラッシュカードは、どんな目的で使用され、どんな使い方をすると効果があるのだろう。

フラッシュカードは、右脳教育といわれている。
そもそも「フラッシュ」とは『まばたき』という意味があり、文字通り、瞬間に見せていくものである。
このへんは厳密に運用されなければならない。
また、フラッシュカードでテンポよく刺激を与える学習方法は、集中力や記憶力 をのばし、子どもの脳を活性化するのにも効果がある。

使い方は10枚ほどを1組とし、これを一定のリズムにのって1枚ずつ教師が読んでいく。それに合わせて、子どもたちが復唱していく。
この活動に子どもたちは集中し、生き生きと目を輝かせる。
それはなぜか。
答えは、この活動には遊びの要素が含まれ、心地よいテンポがあるからだ。
フラッシュカードのやりかたには、一定のルールがある。
制限があるから楽しい活動となり、子ども達は伸びていく。

フラッシュカードを行うにあたって、初めにカードを見せる側(教師)がふまえておくことは、一見矛盾するようだが、カードを覚えさせようということが、1番の目的ではないということである。
覚えこませようとして「この答えはいくつですよ。よく見て覚えてね。もう一度。」などと、長く見せたり説明してはいけない。
こういう気持ちが強いと、子どもたちの集中力はきれ、心は離れていく。
全く楽しくないのである。
覚えるという行為は、テンポのよい変化のある繰り返しによって結果として身に付くと考えた方がよい。

フラッシュカードのユースウエアにもいくつかのルールがある。
一つめは、カードは、テンポよくめくるということ。
1枚に2秒かけるぐらい。
練習しだいでは、かなり早くめくることができる。
通常、右利きならば、右手でカードをめくる。
左手でカードの下を持ち、右手でカードをめくる。
自分の手前にあるカードを子どもに見えるようにめくっていきます。
間違えていけないのは、紙芝居のように、見えているカードをめくって手前に持ってくるという方法ではないこと。
この方法だと、遅くなってしまうし、何というカードが見えているのかがわからない。

二つめは、子どもの視線の高さのこと。
子どもが地べたに坐っているのと、イスに坐っているのでは、教師側の高さも変えなければならない。
下すぎたり、上すぎたりしないようにする。

三つ目は、カードの角度のこと。
気をつけないと、カードがななめになる。
子どもたちから見て,カードは垂直であることが望ましい。
また、カードを持つ手で、文字や数字を隠さないように、浅く持つことも大切である。

四つ目は、教師の読み声とカードの提示のタイミングに気をつけること。
カードを手前に持ってくるのと同時かやや早くにかけ声をかけること。
タイミングがずれると、テンポよく進まない。
また、読み方ははっきりと明るく言う事が大切である。

五つ目は、カードの順番を入れ替えること。
何回も行ったら、カードの順番を入れ替えたり、カードを増減させる。
カードを初めと終わりは脳に記憶されやすい。
つまり、まん中ぐらいのカードを記憶されずらいのである。
記憶の面からも、カードを入れ替えることが大切である。

提示の変化も必要になる。
一つめは、声をそろえるということ。
習ったばかりのカードでは「めくる→教師が言う→子どもが声をそろえて言う」という基本パターンを何度かくり返す。この時,「声をそろえる」というのが重要である。
声がばらばらになると,1つの単語として聞こえず,単なる雑音になってしまう。「カードを見ること」「口に出して言うこと」「それを聞くこと」の3つがそろって,フラッシュカードの効果があると考え,声をそろえることに気をつけさせる。

二つめは、少し慣れてきたら「めくる→教師が『はい』と言う→子どもが声をそろえて言う」というパターンにする。
カードの順番は,はじめはいつも同じように並べておき,子どもたちが覚えてきたら,ランダムに出すようにする。

三つ目は、スムーズに進むようになったら,少人数で言うようにする。
教室の右半分・左半分,班ごと,列ごとなどにわける。
「1班」「1列目」という言葉を「はい」のかわりにして,タイミングをそろえさせる。

どんな優れた教材・教具も使う教師がそのユースウエアを間違えれば、効果は半減する。
きちんと効果を理解した上で、正しい使い方をすることが重要である。

SCENE116(saitani)

言葉を検討させる発問

2005年11月03日 23時39分12秒 | 授業論
ある他校の6年生の子と授業の話になった。
その子は成績も優秀で、思考力もある。
友達も言っていたが、算数の時間は目を輝かせて授業を受けているのに、国語の時間になるととたんに集中力をなくし、学ぶ意欲を失うと言う。
その原因は何か。
要因は様々だと思うが、こんな風にその子に聞いていた。
「なぜ国語の時間がつまらないの?」
「よくわからないけれど、なんかあいまいではっきりしないから。」
と答えた。
「算数のようにもっと明確な答えだと集中できるのかな。」
「そうかもしれない。」

以前、発問の定石化ということが話題になった時代がある。
物事にはすべて基本があり、どの教材でもほぼ同様な発問で授業を進めることができるという考え方だ。

ある先生はこんな風に言っている。

私の主張はただ一つである。
それは文章表現そのものを検討対象にした授業を目指すべきだということである。
そのために「この発問をすると、子どもがどのようにどのことばを検討してくるかを考える」が「発問の条件」でなければいけないという主張である。
発問がことばの検討を促すものである限り、教材を限定した場合、発問は誰がしても、そう異なった発言は出てこないはずである。
私は、そうした発問で、授業ができることを示そうとしているのである。
そうした発問を、「発問の定石」と呼ぶことにする。

物事にはすべて定石が存在する。
定石を理解し、使いこなす技能を身に付けることなしに、成長はありえない。
そのことを忘れ、言葉に根拠を求めない思いこみ発問を繰り返す授業をしている限り、子どもたちの知的好奇心は失われていく。
そして、「国語の授業はつまらない」という子どもたちが増えていくような気がする。

SCENE115(saitani)