『てっぱん』の先週=第7週(8日~13日)は、NHK朝ドラにつきもののイヤな面“庶民的人情、親ごころのコロモにくるんだ土足のお節介”風味が強くて個人的にはちょっと勘弁してもらいたい週でした。何もジェシカさん(ともさかりえさん)に“自分の夢を追う前に、弱ってきた田舎の親に再会して対話しとかんで本当にええの?”を問うのに、こっそりお姉さん(美味でございます久保田磨希さん)から聴取したレシピで“のっぺ”作って夕食にサプライズする様な、手の込んだ真似しなくても。
郷土の味、幼時になじんだお母さんの手づくりの味には、懐かしさや郷愁は確かにあるけれど、同じくらいやりきれない思い出や、貧しさ、みじめさやコンプレックスの辛い記憶、悔しい恥ずかしいトラウマもあるはずです。“食”は人が生存して行くのに無くてはならない、それ無しでは生きることがかなわない、のっぴきならないアイテムであるからこそ、楽にも苦にも変わり得る、幸いも不幸も両方連れて来得る両刃の剣でもあるのです。
「食べ物には苦労して育てて(=食べさせて)くれた親の愛情がこもっとる、忘れたらあかんで」「皆でひとつ食卓を囲むと美味しいね、幸せだね」という価値観をえらく称揚するお話であることは確かで、それはそれで貫いていただいて結構だとは思いますが、あんまり人物の“そこだけは”というデリケートな琴線をずかずか踏み荒らすのはどうなのかな。
「のっぺ見るのもイヤや」と、ヘタな大阪弁使いながら郷里・新潟に背を向け続けていたジェシカさん、「毎日、5時が門限で、開店前に家族全員揃って夕食を食べる決まりやった」実家。門限のために学校帰りの寄り道もできない、友達と遊びに行くこともならない息苦しさ鬱陶しさより何より、駆け落ち同然に一緒になったというご両親が、自分たち姉妹(ジェシカさん、美味でございますお姉さんのほかにもう1人いるらしい)を食べさせて行くために小さな小料理屋を開き大車輪で働いていた、その“必死さ”が何より子供心に辛かったのだろうと思うのです。
“親が自分のために必死である”ということほど子供心にトラウマの烙印を捺すものはない。ジェシカさんよりもう少し裕福な層でも、たとえば学習塾、お受験、お稽古事、身につける洋服や履き物や学用品、夏休み年末年始の旅行など、「お母さんお父さんが自分のために目を血走らせて一喜一憂している、お祖母ちゃん(=お姑さん)や親戚ご近所と張り合っている」と思うと、子供の心は感謝や満足感よりずっと手前で、暗く重くずしんと沈むものなのです。その重さ暗さを突き抜けて「お父さんお母さん、ありがとう、お疲れ様」「あんなことこんなこと、してもらって、買ってもらって、食べさせてもらって懐かしい、幸せだった楽しかった」に着地するためには、子供が自立して、親の力を借りずに何かしらの地位や稼ぎに到達しなければならない。そこまで行き着けない、いくら夢を持っても、努力しても、親が子の自分に必死で提供してくれた生活レベルに自力で這い上がるのが難しい世の中になってしまったから、ジェシカさんたちは「のっぺ見るのもイヤや」な気分に低回しているのです。
初音さん(富司純子さん)は、「自分も千春(木南晴夏さん)を育てるためお好み焼き屋で稼ぐに必死で、結果、あの子に、毎日ひとりで夕食を食べさすような淋しい思いをさせてしまった→トランペットにはまり家出、異郷で出産、音信普通のまま早世」という後悔があるから、「お店と家族揃っての夕食とを両立させることにこだわって、えろう頑張ってきたらしいジェシカのご両親と、ジェシカと、ここはぜひ歩み寄らせな」との、一種の使命感を持ってののっぺ制作だったのでしょうが、ジェシカさんにしてみれば、一応リスペクトしていないでもない、凛とした大家さんとは言え、積極的に相談に乗ってもらっていたわけではない他人に「そ、そこだけはっ!」という弱い琴線、隠してきた心の軟らかい部分に、「ほらほら、どないや、辛抱でけるんか、考え直さんでええんか」とばかりずかずか踏み込まれたら「…ワーストワンやわ、泣きそうや」となってしまうに決まっている。
“食”も、“家族”も、明で朗で幸な側面ばかりではない。踏み込まれて露呈して、否応なく向き合わざるを得ない局面は、人それぞれいつか来る、一生来ないですむわけにもいかないのでしょうが、他人の善意の(しかも、その他人自身の、過去反省ついでというニュアンスもある)お節介で向き合わされる、それを“人情”“親ごころ”“いい機会になった”的な地合いでプラスに描くのはいかにもいただけませんでした。
まあ、その反動と言うか埋め合わせと言うか、ジェシカさんとの協働であかり(瀧本美織さん)が開店準備まで漕ぎつけたお好み焼き屋、中岡お父さん(松尾諭さん)は「子供(=民男くん)の教育上、酒を出す店は…」、画家の笹井さん(神戸浩さん)は「夜遅くまで賑やかなのはちょっと」、駅伝選手の滝沢くん(長田成哉さん)は「煙草臭いのは勘弁してほしいわ」と、下宿人さんたちはここへ来て歓迎しない模様です。
出発点、意図するところ、描出される雰囲気が、どんなに善で、明で、幸であっても、それによって迷惑したり、いたたまれない思いをする人物がいる。NHK朝ドラが基本的に“人が人に介入することで紡ぎ出され広がりを持って行く物語”である以上、この“ずかずか土足称揚感”をどう処理し、トゲや毒気を抜いて行くかは必修科目のようなものです。いままでは“善なキャラたちのその場その場のおもしろさ、可笑しさ”に乗っていけばまあまあ観られた『てっぱん』ですが、よくよく噛み砕くと、善な人々もそれぞれに背負っている物語は重く、笑過してそれきり片付けられるものではない様子。キャラ紹介説明が一巡して、“異なる立場からのお節介”が物語の推進力とならざるを得なくなってきた、ここからが正念場と言えるでしょう。