『刑事コロンボ』シリーズ放送開始50周年だそうで、昨年暮れから人気投票BEST20エピソードをNHKBSプレミアムで毎週土曜に放送中です。
1970年代からですから、再放送・再々放送はもちろん、レンタルビデオの時代になると見逃しエピの補完ができたこともあり、人気投票で上位に来るような回は二度も三度も視聴済みなはずなのですが、改めて放送されているとやっぱり見てしまうし、見るとやっぱり面白いですね。
いま、“これまでの生涯に見たTV番組オールタイム・ノンジャンルランキング”をもし個人的に挙げるとしたら、五本の指には入ると思います『コロンボ』。
放送がある日には「『コロンボ』は最初っから見てないとねー」と時間前に用事を済ませて待機するということが普通にできた数少ない番組だし、「やっぱり事件モノ警察モノはアメリカ」「テンポ(の速さ)が違う」という、その後のエンタメコンテンツ選びの基準ができたのも『コロンボ』からだった。
5日放送『秒読みの殺人』(今回の人気投票で13位)も印象深いエピのひとつで、テレビ局の視聴率争いや、編成における局内パワーゲームがサブモチーフになっており、記憶では70年代のかなり前半のほうだった気がするのですが、調べるとアメリカでの本放送が78年(昭和53年)2月、日本での初放送は翌79年1月だそうです。
捜査の過程でコロンボが聞き込み相手に「甥っ子がステレオ売って8ミリ映画作るって言い出してさ、コッポラ監督に憧れて壁に写真貼ってる」と言うくだりがありました。フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザーPart Ⅱ』は74年、『地獄の黙示録』が79年に公開されています。
再見すると、本筋の計画殺人→コロンボによる解明と追及以上に、犯人と被害者の周辺事項の描写が、アメリカのポスト・ベトナムの70年代後半という時代を映していて興味深い。
事件や手口も、犯人のキャラも、コロンボシリーズの錚々たるラインナップの中では特別複雑でもスケール大でもなく、手ごわいほうではないのに記憶に鮮明に残っているのは、一見本筋にあまり関係なく尺稼ぎのようでもある周辺部分に、侮れない精彩があるためでしょう。
主人公=犯人のケイ(キャサリン)・フリーストンは東部に本社のあるテレビ局のLA支社に勤めるプロデューサーで、支社長マーク・マキャンドル―のチーフアシスタント。
マークは有能で、NY本局に栄転の内示を受けた。長年恋人関係でもあったケイは一緒に本局に招かれるか、残留ならマークの後任支社長に昇進できると思っていたが、「君はアシスタントとしては最高だ。だが決断ができない。まとめるだけ、そこが違う」「まとめるだけじゃ(トップになるには)駄目なんだな」と、マークから関係の終わりを告げられる。
マークは特に不実なクズ男ではない。ケイの仕事ぶり、男性部下に対する物腰、彼女に向ける彼らの視線など、端々のシーンを見る限りマークの評価は的確である。引導を渡す代わり慰謝料兼手切れ金として新車をプレゼント、ブラディ・マリーのグラスにキーを忍ばせるときの手のアップに指輪はなく、不倫でもない。引導から一夜明けてオフィスで顔を合わせたときも、来訪したお偉方にわからないようケイに「大丈夫?」と別れのショックを気遣っている。
しかし長年TV制作のパートナーとしても、女としてもマークを支えてきたつもりのケイの怒りはひそかにおさまらず、マークがオフィスの休憩室で一人になる時間を利用して、お偉方相手の試写中に抜け出し射殺。銃はエレベーターの天井に隠す。隣のオフィスで徹夜仕事を命じられていた男性部下はすぐに銃声を聞きつけて、心臓に被弾し息絶えたマークを発見。ケイはあらかじめ用意した秒読みのテープで自らをカウントダウンし、次のリール交換の瞬間までに間一髪映写室に戻って、“銃声の時刻にはここにいた”というアリバイを作る。
捜査に乗り込んできたコロンボに、ケイは局に送り付けられてきた脅迫の投書の束を見せ、「共産主義、独裁主義、人種差別・・暴力、妊娠中絶・・なんでもテレビのせいだと言って来るんです」と、思想犯の犯行を示唆してミスリードをはかりますが、コロンボはマークがソファで遠近両用眼鏡を頭上にあげたまま死亡していることから「ホトケさんは犯人の顔をよく知ってた、眼鏡を下ろして見ようともしなかった」と、早くも局内の、マークと親しい人物に的を絞っていた。
ケイがエミー賞を受賞するほどの敏腕Pでありながら、現場のスタッフや監督からは一目置かれつつも煙たがられていること、マークがNY本局にケイを後任として推していなかったこと、そのマークがケイの頭文字をナンバープレートに冠した新車を購入していたこと、ケイの生まれ育ちが貧しい母子家庭で(NYの重役から臨時支社長を命じられ、高揚と不安に揺れるケイが、廃屋となったかつての自宅に深夜立ち寄り、そこに秘書から場所を聞いたコロンボが訪ねてくるシーンあり)、強い上昇志向で今日までのし上がってきたこと・・等周辺要素を地道に拾ったコロンボは、当日映写室にいた技師から「リールの交換までの間はずっと室内にいなくても、パンチ穴がサインとして画面に出るから、タイミングを知っていれば交換できる」と聴取する。
次いでマークのビーチハウス(ケイと最後の一泊して別れを切り出した場所)で、クリーニング上がりで届いたブレザーがケイのネーム入り=マークとケイがここで半同棲していたことも突き止めた。
こうなるとあとはどうコロンボがケイにとどめをさすかなのですが、そこに至る近道は意外な所から開けた。
ケイは担当する生放送バラエティーに、かつて友人以上の関係にあった女優ヴァレリー・カークを押し込んでいたが、ブランク明けのヴァレリーはプレッシャーに耐えられず薬物に溺れて現場に穴を空け、ケイはやむなくまだ上の許可を得ていない、事件当日試写中だった自局制作のスパイノワール映画を穴埋めに放送させる。
電気修理店でこの放送を偶然見たコロンボは、技師から「映写室に戻ってきたらすぐこの場面だった」と聴取した拳銃自殺シーンが、まさにリール交換のサインである2回のパンチ穴の直後であることを知り、ケイはずっと映写室にいたどころか、交換の直前に戻ってきたに違いないと睨んだ。
“拳銃つながり”でもうひとつ、こちらはコロンボから仕掛ける。凶器の銃がまだ局の建物内にあると確信して、エレベーターシャフト内の天井からいち早く探し出したコロンボは、同型の銃をわざと下からシルエットが見える位置に仕込んで、ケイと世間話をしながら乗り込む。確かに見えない位置に隠したはずの銃がまる見えでケイは愕然とする。
世間話に調子を合わせながらどうにかコロンボをやり過ごしたケイは受信機のアンテナを使って懸命に天井板を持ち上げ銃を回収(ケイ役の女優さんが、大人の白人女性としては顕著に低身長で、持っていたファイルと畳んだコートを踏み台に、シャフトの天井の高さに手こずる演出が良い)、車で遠出して側溝に捨てるが、それはコロンボが仕込んだダミーだった。
ヴァレリーの失態を庇うためのケイの“決断”は、散々な低視聴率という最悪の結果に終わり、自局が大枚はたいた映画を粗末につかった(そもそも試写を犯行のアリバイに利用しているし)ことも上司の逆鱗にふれて、ケイは解雇を言い渡される。
直後にコロンボから“ケイが乗る前/下りた後のエレベーターの天井の画像”と、本物の凶器の銃を突き付けられ、リール交換のアリバイも崩され、映写室の手袋の硝煙反応を知らされたケイは、「終わったらホッとする、肩の荷を下ろした気がするってよく言うけど、全然違う、その反対よ」「あなたが連行なさるの?すぐに連れてって、私負けないから」「戦って、生き残ります。それが私の生き方」と、笑みさえ浮かべて退場する。
コロンボシリーズの中では、そんなに手ごわくコロンボを翻弄するほどの力量ある犯人ではありません。シロウトが見てもここが杜撰だな、ここからバレそうだなと思ったところから案の定バレていく、自滅しそうに見えた通り自滅して行くケイですが、1979年=いまから40年前の初放送と思って視聴すると、“男社会(激烈競争のテレビ界)の中でやたら頑張った女性が、頑張り方を間違えて墓穴を掘って行く”ドラマとしてなかなか秀逸です。
LAの放送局らしく、支社長のマークはじめ管理職は広壮なオフィスを連ね、オフィスの前室には秘書たちが並んでタイプを打ち電話応対をしている。こういう秘書は長年勤続しても“ベテランの秘書”になるだけでしょうが、それでも花のテレビ局オフィス、当時のスクールガールにとっては憧れの職種だったはずです。もちろん女性管理職はケイだけです。
ましてや生放送スタジオの現場に場面が移ると、監督も調整室も男ばかりで、女性スタッフはタイムキーパーだけ。例によって暇潰しの様に調整室に訊き込みに来たコロンボに技術ディレクターが「テレビ業界で一番始末に負えないのは、ぜんぶわかってる女性なんですよ」と半笑いで答える場面が象徴的。
ケイが頑張れば頑張った分だけ浮き上がり人望が遠のいていく。試写の前、重役たちがオードブルをつまみながら次クールの出演タレント交渉について冗談交じりに話しているところへ、ケイが開始を告げに入ってくると、微妙に空気が変わる場面もあります。いつの世もどんな状況でも、男というものは“女に手の内がわかられている”のが不快なのです。そこはかとない逆風を感じてはねのけるためにケイが残業の指示、現場からのSOS対応にと頑張ると、さらに嫌われていく。
そして、70年代に初見のときはよくわからなかったのですが、ケイが根はバイないしはレズビアンであることが、この年代でよく放送できたなと思うほど、かなり明確に表現されています。
数字至上主義のはずが、薬物の前歴持ちで過去の人になった女優を、現場の不安は再三耳に届いていたのに生放送に押し込み、いよいよ立ち行かなくなると社運を賭けていたはずの映画を穴埋めに使ってしまう。冒頭、別れを切り出したマークが「お互い最終的には愛情で結ばれていたと思うんだ、仕事やゼニカネを離れてさ」「僕は与え、君も与え、それで満足だったはずだ」と言いますが、ケイこそ愛が無かった。愛があるように装って、“アシスタントとしては最高だが、まとめるだけでは駄目”な分は、愛で下駄をはかせてもらってトップに行けると信じ、女の武器でマークを騙していたのはケイのほうだった。
ケイは愛を裏切られたからマークに殺意を抱いたのではなく、策の底を見られたと思ったから完全犯罪で消すことを企てたのです。
危なっかしくハラハラさせる犯人で、しかも同シリーズの女性犯人の中では屈指の美人だったにもかかわらず、ケイが最後まであまりかわいそうでないのは、微動だにしない“自分大好き”“自分以外愛さない”根性が透けて見えるからでしょう。
ところで、脚本家三谷幸喜さんが自他ともに認めるコロンボフリークで、このエピソードから『古畑任三郎』の“さよなら、DJ”(=桃井かおりさんのおたかさん)を着想したことは有名ですが、ケイの最後までへこまないうすら堂々っぷりは“しばしのお別れ”(=山口智子さんのフラメンコ華道家)、 犯人が自己評価に夢を持ち過ぎで、殺された男のほうが実は冷静正確に評価していたという点では“哀しき完全犯罪”(田中美佐子さんのズボラ女流棋士)に反映していますね。
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